「アレクサンドル・アバザー」の版間の差分
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[[1865年]]、大蔵省評議会議員に就任する。翌[[1866年]]、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]に選出される。[[1871年]]、[[会計検査官]]を経て、[[1874年]]から[[1880年]]まで国家評議会経済部会長を務めた。 |
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[[1880年]]に[[ミハイル・ロリス=メリコフ]]内相の後押しを受けて、[[大蔵大臣]]に就任する。アバザーはロリス=メリコフの希望していた[[塩税]]の廃止を皮切りに、[[鉄道]]事業[[債権]]の創設、[[関税]][[税率]]の段階的引き上げを実施した。アバザーはロリス=メリコフ内相、[[ニコライ・ブンゲ]]大蔵次官(前キエフ帝国大学学長)などと[[納税]]制度、[[通貨]]制度、鉄道建設、[[財政]]など[[社会]][[経済]][[改革]][[プログラム]]を推進し、ロリス=メリコフの志向する[[立憲]]改革を支持した。しかし、[[1881年]][[3月1日]]アレクサンドル2世はロリス=メリコフの改革案に承認を与えた当日、「[[人民の意志]]」の[[ソフィア・ペロフスカヤ]]の指揮する[[グリネビツキー]]の[[テロリズム#種類|爆弾テロ]]によって[[暗殺]]された。新帝[[アレクサンドル3世]]によりロリス=メリコフの改革案は[[白紙]]還元となり、同年4月[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]が起草した[[勅令]]は、改めて[[皇帝]][[専制]]の不動性を宣言したものであった。これを受けて5月4日、アバザー、ロリス=メリコフ、陸相[[ドミトリー・ミリューチン]]は直ちに辞職し改革は頓挫した<ref>≪[[:ru:Правительственный вестник]]≫, 8 ([[20 мая|20]]) мая 1881, № 99, стр. 1.</ref>。 |
[[1880年]]に[[ミハイル・ロリス=メリコフ]]内相の後押しを受けて、[[大蔵大臣]]に就任する。アバザーはロリス=メリコフの希望していた[[塩税]]の廃止を皮切りに、[[鉄道]]事業[[債権]]の創設、[[関税]][[税率]]の段階的引き上げを実施した。アバザーはロリス=メリコフ内相、[[ニコライ・ブンゲ]]大蔵次官(前キエフ帝国大学学長)などと[[納税]]制度、[[通貨]]制度、鉄道建設、[[財政]]など[[社会]][[経済]][[改革]][[プログラム]]を推進し、ロリス=メリコフの志向する[[立憲]]改革を支持した。しかし、[[1881年]][[3月1日]]アレクサンドル2世はロリス=メリコフの改革案に承認を与えた当日、「[[人民の意志]]」の[[ソフィア・ペロフスカヤ]]の指揮する[[グリネビツキー]]の[[テロリズム#種類|爆弾テロ]]によって[[暗殺]]された。新帝[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]によりロリス=メリコフの改革案は[[白紙]]還元となり、同年4月[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]が起草した[[勅令]]は、改めて[[皇帝]][[専制]]の不動性を宣言したものであった。これを受けて5月4日、アバザー、ロリス=メリコフ、陸相[[ドミトリー・ミリューチン]]は直ちに辞職し改革は頓挫した<ref>≪[[:ru:Правительственный вестник]]≫, 8 ([[20 мая|20]]) мая 1881, № 99, стр. 1.</ref>。 |
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[[1891年]]から[[1892年]]まで国家評議会経済部会長を再び務めたが、1892年に[[ルーブル]]の下落に先立ち[[地位]]を利用して100万ルーブルの[[利益]]を上げたとされる。[[1893年]][[3月10日]]、国家評議会などすべての[[公職]]から退く<ref> «Правительственный вестник», 8 (20) мая 1881, № 99, стр. 1.</ref>。 |
[[1891年]]から[[1892年]]まで国家評議会経済部会長を再び務めたが、1892年に[[ルーブル]]の下落に先立ち[[地位]]を利用して100万ルーブルの[[利益]]を上げたとされる。[[1893年]][[3月10日]]、国家評議会などすべての[[公職]]から退く<ref> «Правительственный вестник», 8 (20) мая 1881, № 99, стр. 1.</ref>。 |
2021年6月13日 (日) 09:36時点における版
アレクサンドル・アバザー Александр Агеевич Абаза | |
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アレクサンドル・アバザー | |
生年月日 | 1821年7月24日 |
出生地 | ロシア帝国トヴェリ県ヴィシネヴォロツク郡(現在のロシア連邦ノヴゴロド州オクロフカ市) |
没年月日 | 1895年1月26日(73歳没) |
死没地 | フランス、ニース |
在任期間 | 1867年 - 1868年 |
皇帝 | アレクサンドル2世 |
在任期間 | 1868年 - 1877年 |
皇帝 | アレクサンドル2世 |
アレクサンドル・アゲエーヴィチ・アバザー(ロシア語: Александр Агеевич Абаза、Alexandr Agejevich Abaza、1818年7月24日(ユリウス暦8月5日) - 1895年1月26日(ユリウス暦1月20日))は、帝政ロシアの政治家。ロシア皇帝アレクサンドル2世の下で大蔵大臣を務めた。
経歴・概要
1821年7月24日(ユリウス暦8月5日)[1]トヴェリ県ヴィシネヴォロツク郡(現在のノヴゴロド州オクロフカ市)で生まれる。生家はモルダヴィア貴族であり、農奴解放以前から製糖業を大規模に行っていた。
1839年ペテルブルク帝国大学法学部を卒業する。学業を終えた後、軍務につきカフカースでの戦闘に参加した。1847年退役する。その後は、対外経済事情の研究や自領の経営改善の傍ら、自由主義的、進歩的な貴族、工場主らのサークルに参加する。1857年、エレーナ・パヴロヴナ大公妃に仕えた。大公妃は改革派官僚のパトロネスでありアバザーもこのような「自由主義官僚」の一人となり、1860年代の経済的諸改革を推進していく。
1865年、大蔵省評議会議員に就任する。翌1866年、国家評議会に選出される。1871年、会計検査官を経て、1874年から1880年まで国家評議会経済部会長を務めた。
1880年にミハイル・ロリス=メリコフ内相の後押しを受けて、大蔵大臣に就任する。アバザーはロリス=メリコフの希望していた塩税の廃止を皮切りに、鉄道事業債権の創設、関税税率の段階的引き上げを実施した。アバザーはロリス=メリコフ内相、ニコライ・ブンゲ大蔵次官(前キエフ帝国大学学長)などと納税制度、通貨制度、鉄道建設、財政など社会経済改革プログラムを推進し、ロリス=メリコフの志向する立憲改革を支持した。しかし、1881年3月1日アレクサンドル2世はロリス=メリコフの改革案に承認を与えた当日、「人民の意志」のソフィア・ペロフスカヤの指揮するグリネビツキーの爆弾テロによって暗殺された。新帝アレクサンドル3世によりロリス=メリコフの改革案は白紙還元となり、同年4月コンスタンチン・ポベドノスツェフが起草した勅令は、改めて皇帝専制の不動性を宣言したものであった。これを受けて5月4日、アバザー、ロリス=メリコフ、陸相ドミトリー・ミリューチンは直ちに辞職し改革は頓挫した[2]。
1891年から1892年まで国家評議会経済部会長を再び務めたが、1892年にルーブルの下落に先立ち地位を利用して100万ルーブルの利益を上げたとされる。1893年3月10日、国家評議会などすべての公職から退く[3]。
1895年1月26日(ユリウス暦1月20日)、ニースで死去。アレクサンドル・ネフスキー大修道院内のチーフヴィン墓地(Тихвинскоe кладбище)に眠る。
脚注
- ^ Шилов Д.Н. Государственные деятели Российской империи. ?Санкт-Петербург, 2002. ? С. 31.
- ^ ≪ru:Правительственный вестник≫, 8 (20) мая 1881, № 99, стр. 1.
- ^ «Правительственный вестник», 8 (20) мая 1881, № 99, стр. 1.
関連事項
- ロシア帝国蔵相一覧 Список министров финансов Российской империи
- アバザー (曖昧さ回避) Абаза (род)
外部リンク
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