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欧州諸国の[[1848年革命]]以降、[[フィンランド人]]の間では、[[絶対王政|絶対主義]]を覆さないロシア政府に対して反感が強まっていった。過激な反政府活動こそなかったが、この頃からフィンランド人たちの独立を求める[[ナショナリズム]]が燃え上がることとなった。[[クリミア戦争]]が勃発すると、フィンランド国内では、ロシアに対する批判が巻き起り、詩人・歴史家の[[アドルフ・イーヴァル・アルヴィドソン|アルヴィドソン]]、学者[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド|ノルデンショルド]]らがロシア政府の忌諱にふれ、スウェーデンに亡命ないし移住を余儀なくされた。その後、北欧全体に沸上がったナショナリズム([[汎スカンディナヴィア主義]])が沈静化していったことと、[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の寛容政策などで一時小康状態となったが、フィンランドでは日増しに[[民族主義]]が高揚していった。
欧州諸国の[[1848年革命]]以降、[[フィンランド人]]の間では、[[絶対王政|絶対主義]]を覆さないロシア政府に対して反感が強まっていった。過激な反政府活動こそなかったが、この頃からフィンランド人たちの独立を求める[[ナショナリズム]]が燃え上がることとなった。[[クリミア戦争]]が勃発すると、フィンランド国内では、ロシアに対する批判が巻き起り、詩人・歴史家の[[アドルフ・イーヴァル・アルヴィドソン|アルヴィドソン]]、学者[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド|ノルデンショルド]]らがロシア政府の忌諱にふれ、スウェーデンに亡命ないし移住を余儀なくされた。その後、北欧全体に沸上がったナショナリズム([[汎スカンディナヴィア主義]])が沈静化していったことと、[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の寛容政策などで一時小康状態となったが、フィンランドでは日増しに[[民族主義]]が高揚していった。


これをロシアは危険と判断し、[[ニコライ2世]]の頃には実力でフィンランド民族主義を弾圧したが、大きな反発を招き、フィンランド総督[[ニコライ・ボブリコフ|ボブリコフ]]が殺害される事態になった。このような事態は[[日露戦争]]というロシア本国の事情で一時小康状態となり、さらに[[ロシア革命]]の結果ロシア帝国が滅亡すると、フィンランド議会は独立を宣言。そして元ロシア[[白軍]]将校の[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]を中心とする{{仮リンク|フィンランド白衛軍|en|White Guard (Finland)}}が結成された。[[1918年]]1月、フィンランド白衛軍に[[ドイツ帝国]]・スウェーデンの[[義勇軍]]が加わり、ソ連[[赤軍]]が介入していた{{仮リンク|フィンランド赤衛軍|en|Red Guards (Finland)}}を中心とする[[フィンランド社会主義労働者共和国]] (Red Finland) と[[フィンランド内戦]]となり、白衛軍が勝利した。10月には[[ヘッセン=カッセル]]家の[[フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセル|フリードリヒ・カール]]を[[フィンランド王国]]の国王に選出し、[[フィンランド王国]]が誕生した。しかし、[[第一次世界大戦]]でドイツ帝国が敗戦国になったことを受け、君主制は放棄され、[[1918年]]12月に[[フィンランド共和国]]として独立した。
これをロシアは危険と判断し、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の頃には実力でフィンランド民族主義を弾圧したが、大きな反発を招き、フィンランド総督[[ニコライ・ボブリコフ|ボブリコフ]]が殺害される事態になった。このような事態は[[日露戦争]]というロシア本国の事情で一時小康状態となり、さらに[[ロシア革命]]の結果ロシア帝国が滅亡すると、フィンランド議会は独立を宣言。そして元ロシア[[白軍]]将校の[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]を中心とする{{仮リンク|フィンランド白衛軍|en|White Guard (Finland)}}が結成された。[[1918年]]1月、フィンランド白衛軍に[[ドイツ帝国]]・スウェーデンの[[義勇軍]]が加わり、ソ連[[赤軍]]が介入していた{{仮リンク|フィンランド赤衛軍|en|Red Guards (Finland)}}を中心とする[[フィンランド社会主義労働者共和国]] (Red Finland) と[[フィンランド内戦]]となり、白衛軍が勝利した。10月には[[ヘッセン=カッセル]]家の[[フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセル|フリードリヒ・カール]]を[[フィンランド王国]]の国王に選出し、[[フィンランド王国]]が誕生した。しかし、[[第一次世界大戦]]でドイツ帝国が敗戦国になったことを受け、君主制は放棄され、[[1918年]]12月に[[フィンランド共和国]]として独立した。


== 歴代フィンランド大公 ==
== 歴代フィンランド大公 ==
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# [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](1855年 - 1881年)
# [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](1855年 - 1881年)
# [[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](1881年 - 1894年)
# [[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]](1881年 - 1894年)
# [[ニコライ2世]](1894年 - 1917年)
# [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]](1894年 - 1917年)


== 歴代フィンランド総督 ==
== 歴代フィンランド総督 ==

2021年6月13日 (日) 09:53時点における版

フィンランド大公国
Storfurstendömet Finland (瑞語)
Suomen suuriruhtinaskunta (芬語)
Великое княжество Финляндское (露語)
スウェーデン=フィンランド 1809年 - 1917年 フィンランド王国
フィンランド大公国の国旗 フィンランド大公国の国章
(国旗) (国章)
フィンランド大公国の位置
フィンランド大公国の位置(1914年)
公用語 フィンランド語
ロシア語
スウェーデン語
首都 トゥルク
1809年 - 1812年
ヘルシンキ
1812年 - 1917年
大公
1809年 - 1825年 アレクサンテリ1世
1825年 - 1855年ニコライ1世
1855年 - 1881年アレクサンテリ2世
1881年 - 1884年アレクサンテリ3世
1894年 - 1917年ニコライ2世
フィンランド総督
1809年 - 1917年本文参照
面積
1850年、1910年約360,000km²
現在338,145km²
人口
1950年代1,635,900人

1810年 863,000人

1830年 1,372,000人

1850年 1,637,000人

1870年 1,769,000人

1890年 2,380,000人

1910年 2,943,000人

1920年 3,148,000人

変遷
ポルヴォー議会 1908年3月29日
フィンランド独立1917年12月6日
通貨ロシア・ルーブル
フィンランド・マルッカ

フィンランド大公国(フィンランドたいこうこく、フィンランド語: Suomen suuriruhtinaskunta、: Великое княжество Финляндское)は、1809年から1917年まで現在のフィンランドにあった国家である。首都ヘルシンキ

歴史

1900年時点の国土・標高。Высотыで色分けされている。

1809年フレデリクスハムンの和約によってスウェーデンからロシア帝国にフィンランドが割譲されたときに建国された(ウィーン会議によって正式に承認)。フィンランド大公はロシア皇帝(ツァーリ)が兼ねる同君連合の形を取った。体制はロシア本国がツァーリズムによる専制君主制に対して、フィンランド大公国は立憲君主制であり、独自の議会と政府を有することが認められた。そのため、フィンランド大公国は「ロシアの民主主義のショーウィンドー」と後世呼ばれることになる。スウェーデン=フィンランド時代に比べて、アレクサンドル1世によってフィン人の自治が大幅に認められたため、知識人を中心に「フィンランド民族主義」が高揚し、フィンランド語公用語化や民族叙事詩「カレワラ」の編纂などが行われた。

1830年7月革命をうけてポーランドでは独立戦争が勃発したが、フィンランド大公国では過激な運動は自粛された。しかし、ロシアに忠実な従属国というわけではなく、国内の諸制度はロシアから離れ、独立国の様相を呈することになった。

欧州諸国の1848年革命以降、フィンランド人の間では、絶対主義を覆さないロシア政府に対して反感が強まっていった。過激な反政府活動こそなかったが、この頃からフィンランド人たちの独立を求めるナショナリズムが燃え上がることとなった。クリミア戦争が勃発すると、フィンランド国内では、ロシアに対する批判が巻き起り、詩人・歴史家のアルヴィドソン、学者ノルデンショルドらがロシア政府の忌諱にふれ、スウェーデンに亡命ないし移住を余儀なくされた。その後、北欧全体に沸上がったナショナリズム(汎スカンディナヴィア主義)が沈静化していったことと、アレクサンドル2世の寛容政策などで一時小康状態となったが、フィンランドでは日増しに民族主義が高揚していった。

これをロシアは危険と判断し、ニコライ2世の頃には実力でフィンランド民族主義を弾圧したが、大きな反発を招き、フィンランド総督ボブリコフが殺害される事態になった。このような事態は日露戦争というロシア本国の事情で一時小康状態となり、さらにロシア革命の結果ロシア帝国が滅亡すると、フィンランド議会は独立を宣言。そして元ロシア白軍将校のカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムを中心とするフィンランド白衛軍英語版が結成された。1918年1月、フィンランド白衛軍にドイツ帝国・スウェーデンの義勇軍が加わり、ソ連赤軍が介入していたフィンランド赤衛軍英語版を中心とするフィンランド社会主義労働者共和国 (Red Finland) とフィンランド内戦となり、白衛軍が勝利した。10月にはヘッセン=カッセル家のフリードリヒ・カールフィンランド王国の国王に選出し、フィンランド王国が誕生した。しかし、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗戦国になったことを受け、君主制は放棄され、1918年12月にフィンランド共和国として独立した。

歴代フィンランド大公

  1. アレクサンドル1世(1809年 - 1825年)
  2. ニコライ1世(1825年 - 1855年)
  3. アレクサンドル2世(1855年 - 1881年)
  4. アレクサンドル3世(1881年 - 1894年)
  5. ニコライ2世(1894年 - 1917年)

歴代フィンランド総督

関連項目