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[[1899年]]から[[1902年]]にかけて、[[タリム盆地]]および中部[[チベット]]湖沼地方の北部を探検した。その間、[[1900年]]に古代都市[[楼蘭]]の遺跡と干上がった[[ロプノール]]の湖床を発見し、よく知られている[[ロプノール#「さまよえる湖」|「さまよえる湖」説]]を唱えるに至った。多くの文書・遺物を取得して[[カラコルム山脈]]を越え、[[レー_(ラダック)|レー]]・[[カシミール|カシュミール]]に出て、再び[[カラコルム峠]]を越えてカシュガルに至り、[[フェルガナ]]の[[アンディジャン]]に到着、ロシア経由で帰国した。 |
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[[1905年]]、ペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入、中央チベット湖沼地帯を探検して[[インダス川]]、[[:en:Sutlej|サトレジ川]](インダス川支流)、[[ブラマプトラ川]]([[ガンジス川]]支流)の水源地方を調査。[[シガツェ市|シガツェ]]に至って[[パンチェン・ラマ]]の歓迎を受けた。サトレジ川の河源および[[ヒマラヤ山脈]]の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈を発見し、これをトランス・ヒマラヤ<small>([[:en:Transhimalaya|英語版]])</small>と名づけた。[[カイラス山]]へも訪れたが、[[チベット人]]に入山を禁じられている。これらの成功は、[[パトロン]]である[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、[[ノーベル財団|ノーベル家]]の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。他に[[大谷探検隊]]で知られ、[[浄土真宗本願寺派]][[法主]]も務めた[[大谷光瑞]]からの援助も受けていた<ref name=otani>「大谷光瑞とスヴェン・ヘディン」白須淨眞編、[[勉誠出版]]、2014年</ref>。 |
[[1905年]]、ペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入、中央チベット湖沼地帯を探検して[[インダス川]]、[[:en:Sutlej|サトレジ川]](インダス川支流)、[[ブラマプトラ川]]([[ガンジス川]]支流)の水源地方を調査。[[シガツェ市|シガツェ]]に至って[[パンチェン・ラマ]]の歓迎を受けた。サトレジ川の河源および[[ヒマラヤ山脈]]の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈を発見し、これをトランス・ヒマラヤ<small>([[:en:Transhimalaya|英語版]])</small>と名づけた。[[カイラス山]]へも訪れたが、[[チベット人]]に入山を禁じられている。これらの成功は、[[パトロン]]である[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、[[ノーベル財団|ノーベル家]]の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。他に[[大谷探検隊]]で知られ、[[浄土真宗本願寺派]][[法主]]も務めた[[大谷光瑞]]からの援助も受けていた<ref name=otani>「大谷光瑞とスヴェン・ヘディン」白須淨眞編、[[勉誠出版]]、2014年</ref>。 |
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[[1908年]]に帰国。[[1927年]]に[[西北科学考査団]] (The Sino-Swedish Expedition) を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の[[熱河]]地帯から西は[[新疆省]](現:[[新疆ウイグル自治区]]、旧・[[東トルキスタン]])を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は[[天山山脈|天山]]に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。新疆省の政治上の悪化と[[第二次世界大戦]]の勃発によってその予定は完全には実現されなかった。 |
[[1908年]]に帰国。[[1927年]]に[[西北科学考査団]] (The Sino-Swedish Expedition) を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の[[熱河]]地帯から西は[[新疆省]](現:[[新疆ウイグル自治区]]、旧・[[東トルキスタン]])を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は[[天山山脈|天山]]に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。新疆省の政治上の悪化と[[第二次世界大戦]]の勃発によってその予定は完全には実現されなかった。 |
2021年6月13日 (日) 09:54時点における版
スヴェン・ヘディン | |
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生誕 |
1865年2月19日 スウェーデン、ストックホルム |
死没 |
1952年11月26日 ストックホルム |
職業 | 地理学者、探検家 |
スヴェン・アンダシュ(アンデシュ)・ヘディン(Sven Anders Hedin, 1865年2月19日-1952年11月26日)は、スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家。
人物・生涯
ストックホルムで建築業を営む中流家庭に生まれ、小学校の同級生には経済学者グスタフ・カッセルや数学者イヴァル・フレドホルムなどがいた。1902年に貴族に列せられ、1909年にイギリスより“ナイト”の称号を得る。
アドルフ・エリク・ノルデンショルドの成功に感銘を受け、生涯師事した。ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導をうけて中央アジア探検を決意し、ペルシア、メソポタミアに旅行(1885年-86年)。
スウェーデン王オスカル2世がペルシアに派遣した使節団の一員としてメルヴ、ブハラ、サマルカンド、カシュガルなどを旅行(1890年-91年)。
ロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール高原、タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドスを横断、張家口を経て北京に到着(1893年-97年)。
1898年には、中央アジア探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた[1]。
1899年から1902年にかけて、タリム盆地および中部チベット湖沼地方の北部を探検した。その間、1900年に古代都市楼蘭の遺跡と干上がったロプノールの湖床を発見し、よく知られている「さまよえる湖」説を唱えるに至った。多くの文書・遺物を取得してカラコルム山脈を越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠を越えてカシュガルに至り、フェルガナのアンディジャンに到着、ロシア経由で帰国した。
1905年、ペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入、中央チベット湖沼地帯を探検してインダス川、サトレジ川(インダス川支流)、ブラマプトラ川(ガンジス川支流)の水源地方を調査。シガツェに至ってパンチェン・ラマの歓迎を受けた。サトレジ川の河源およびヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈を発見し、これをトランス・ヒマラヤ(英語版)と名づけた。カイラス山へも訪れたが、チベット人に入山を禁じられている。これらの成功は、パトロンであるロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、ノーベル家の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。他に大谷探検隊で知られ、浄土真宗本願寺派法主も務めた大谷光瑞からの援助も受けていた[2]。
1908年に帰国。1927年に西北科学考査団 (The Sino-Swedish Expedition) を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の熱河地帯から西は新疆省(現:新疆ウイグル自治区、旧・東トルキスタン)を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は天山に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。新疆省の政治上の悪化と第二次世界大戦の勃発によってその予定は完全には実現されなかった。
1934年にロプノールの復活を自らの目で確かめた後、1935年に帰国したが、途上立ち寄ったドイツでアドルフ・ヒトラーの歓待(ヘディンはナチス党員ではなかったが、チベットに興味を持ち、自分の偉業を正当に評価してくれるヒトラーとは親密だった)を受け、その後数回にわたってナチス幹部と接触を持ち(金子民雄「秘められたベルリン使節」に詳しい)、自国に対するドイツの動向を探った。このコネクションを使い、ユダヤ人やナチスドイツに占領されたノルウェーのレジスタンス活動家を救い出したこともあった。なおヘディンは、16分の1でユダヤ人の血筋(ヘディンを貶める巧妙な告発であったが、自身はこれを誇りであると偏見誹謗を一蹴した)を引いていたが、新聞紙上で台頭期のナチスを礼賛したこともあった。
これらの行動が原因で、第二次世界大戦終結後にスウェーデン国内ではヘディンを「ナチス・ドイツに協力した」として大きく批判された。
1952年、ヘディンはストックホルムで没した。没する直前まで、探検に関する著述活動を行っていた。
ストックホルムの民族学博物館に、ヘディンに関するライブラリーが併設され、蔵書には彼の収集した古文書や彼自身の著作物が含まれている[3]。また、ウプサラ大学とスウェーデン自然歴史博物館に於いても彼の探検に関する事績や採集した鉱石等が保存されている[4][5]。
主著
- Hedin, Sven: Die geographisch-wissenschaftlichen Ergebnisse meiner Reisen in Zentralasien 1894–97 (Ergänzungsband 28 zu Petermanns Mitteilungen), Gotha 1900.
- Scientific result of a journey in Central Asis:6巻(1899-1902年)・地図2巻(1904-07年)
- Southern Tibet,discoveres in former times compared with my own researches of 1906-1908,:9巻・地図2巻(1917-22年)
- History of the expedition in Asia 1927-1935:4巻(1943-45年)
日本との関わり
- 1898年~1900年頃から大谷光瑞と交流があり、探検旅行の帰途、大谷、外務省、東京地学協会の招聘[2]で、1908年に来日し、明治天皇に謁見。日本人として初めてチベット入した河口慧海とも書簡を交している。1923年にも来日している。
- 1948年にはノーベル文学賞候補として日本の賀川豊彦を推薦していたことが、ノーベル財団が公表したノミネートリスト[6]より明らかになっている。
日本語文献
- 『ヘディン探検紀行全集』(全15巻、白水社、1979-80年)
- ※金子民雄による著作があり、上記の訳・編集にも関わっている。
- 『ヘディン伝 偉大なシルクロードの探検者』 中公文庫、1989年。初刊・新人物往来社
- 『秘められたベルリン使節 ヘディンのナチ・ドイツ日記』 中公文庫、1990年。初刊・胡桃書房
- 『ヘディン交遊録 探検家の生涯における17人』 中公文庫、2002年。元版『ヘディン 人と旅』 白水社、1982年
脚注
- ^ “Medals and Awards, Gold Medal Recipients” (PDF). Royal Geographical Society. 2016年11月25日閲覧。
- ^ a b 「大谷光瑞とスヴェン・ヘディン」白須淨眞編、勉誠出版、2014年
- ^ Bibliotekets samlingar — Etnografiskamuseet(スウェーデン語)(英語)
- ^ Sven Hedin - Naturhistoriska riksmuseet(スウェーデン語) - 自然歴史博物館 (スウェーデン)ウェブサイト>スヴェン・ヘディンの岩石コレクション
- ^ Sven Hedin - Naturhistoriska riksmuseet(英語)
- ^ Nomination Database(英語)
関連項目
- スウェーデン・アカデミー - 1913年から終身会員
- スウェーデン王立科学アカデミー -
- 栄光なき天才たち - 単行本第9巻にて中央アジア探検に多大な成果を挙げた、20世紀最大の探検家として取り上げられている。
外部リンク
- Sven Hedin 1893-1897, 1021.I, Museum of Ethnography, Stockholm | Flickr(英語) - 民族学博物館 (ストックホルム)所蔵のチベット探検の写真集
- Expeditioner - Naturhistoriska riksmuseet(スウェーデン語) - スウェーデン自然歴史博物館ウェブサイト>スヴェン・ヘディンの探検
- ヘディン(ヘディン)とは - コトバンク
- ヘディンとは - 世界宗教用語 Weblio辞書