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「アレクサンドル・トレポフ」の版間の差分

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=== 首相 ===
=== 首相 ===
[[File:Могила Александра Трепова.jpg|thumb|180px|left|トレポフの墓]]
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[[1916年]]11月10日には運輸相在任のまま[[ロシアの首相|大臣会議議長]]に内定するが、[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]とラスプーチンが推薦する[[アレクサンドル・プロトポポフ]]の内務大臣への任命を拒否し、プロトポポフに内相就任を辞退するように求めたが、これは拒まれた。トレポフは「プロトポポフの内相就任辞退が首相に就任する必須条件」とし、これに対し[[ニコライ2世]]は要求を受け入れ、11月23日にトレポフを首相に任命した<ref>[http://books.google.nl/books?id=XtE54LuhFzEC&lpg=PA262&dq=trepov%20rasputin&hl=nl&pg=PA261#v=onepage&q=trepov%20rasputin&f=false The Russian Revolution by Richard Pipes, p. 261]</ref>。一方、アレクサンドラはトレポフを嫌い、プロトポポフが内相に就任出来るように夫に働きかけた<ref>The Fall of the Russian Empire: The Story of the Last of the Romanovs and ... by Edmund A. Walsh S.J., p. 115, 116, 297. [http://books.google.nl/books?id=hfUlReenpPQC&lpg=PA297&dq=trepov%20rasputin&hl=nl&pg=PA297#v=onepage&q=trepov%20rasputin&f=false]</ref>。これに対し、トレポフは11月27日に[[スタフカ]]に赴きニコライ2世に謁見し首相辞任を示唆して牽制したが、ニコライ2世は最終的にプロトポポフを12月7日に内相に任命した。
[[1916年]]11月10日には運輸相在任のまま[[ロシアの首相|大臣会議議長]]に内定するが、[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]とラスプーチンが推薦する[[アレクサンドル・プロトポポフ]]の内務大臣への任命を拒否し、プロトポポフに内相就任を辞退するように求めたが、これは拒まれた。トレポフは「プロトポポフの内相就任辞退が首相に就任する必須条件」とし、これに対し[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]は要求を受け入れ、11月23日にトレポフを首相に任命した<ref>[http://books.google.nl/books?id=XtE54LuhFzEC&lpg=PA262&dq=trepov%20rasputin&hl=nl&pg=PA261#v=onepage&q=trepov%20rasputin&f=false The Russian Revolution by Richard Pipes, p. 261]</ref>。一方、アレクサンドラはトレポフを嫌い、プロトポポフが内相に就任出来るように夫に働きかけた<ref>The Fall of the Russian Empire: The Story of the Last of the Romanovs and ... by Edmund A. Walsh S.J., p. 115, 116, 297. [http://books.google.nl/books?id=hfUlReenpPQC&lpg=PA297&dq=trepov%20rasputin&hl=nl&pg=PA297#v=onepage&q=trepov%20rasputin&f=false]</ref>。これに対し、トレポフは11月27日に[[スタフカ]]に赴きニコライ2世に謁見し首相辞任を示唆して牽制したが、ニコライ2世は最終的にプロトポポフを12月7日に内相に任命した。


トレポフは、プロトポポフを内相に推薦したラスプーチンを買収しようと試みたが失敗している<ref>Nicholas and Alexandra: The Tragic, Compelling Story of the Last Tsar and ... by Robert K. Massie [http://books.google.nl/books?id=EUM-AAAAQBAJ&lpg=PT361&ots=jIyGdEVljA&dq=Mosolov%20Trepov%20Rasputin&hl=nl&pg=PT361#v=onepage&q=Mosolov%20Trepov%20Rasputin&f=false]</ref>。義理の兄A・A・モゾロフの協力を得て、ラスプーチンに「政治から手を引くならば大金と屋敷、護衛を贈る」と持ちかけたが、アレクサンドラに察知され、12月13日に買収を批判する手紙を送られてしまう<ref name="Mosolov1935">{{cite book|author=Aleksandr Mosolov|title=At the court of the last tsar: being the memoirs of A. A. Mossolov, head of the court chancellery, 1900-1916|url=http://books.google.com/books?id=U9dBAAAAYAAJ|accessdate=19 June 2014|year=1935|publisher=Methuen}}</ref>。この間、[[ドイツ帝国]]首相[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]からの和平交渉の申し出を拒否する旨を[[ドゥーマ]]で表明した。12月16日から27日([[グレゴリウス暦]]12月29日から[[1917年]]1月9日)にかけてドゥーマが[[クリスマス]]のため開会されるが、27日の閉会日に首相を解任され、[[ニコライ・ゴリツィン]]が後任の首相に就任した。[[十月革命]]勃発後に[[ヘルシンキ]]を経由して[[フランス]]へ亡命し、[[ニース]]で死去した。
トレポフは、プロトポポフを内相に推薦したラスプーチンを買収しようと試みたが失敗している<ref>Nicholas and Alexandra: The Tragic, Compelling Story of the Last Tsar and ... by Robert K. Massie [http://books.google.nl/books?id=EUM-AAAAQBAJ&lpg=PT361&ots=jIyGdEVljA&dq=Mosolov%20Trepov%20Rasputin&hl=nl&pg=PT361#v=onepage&q=Mosolov%20Trepov%20Rasputin&f=false]</ref>。義理の兄A・A・モゾロフの協力を得て、ラスプーチンに「政治から手を引くならば大金と屋敷、護衛を贈る」と持ちかけたが、アレクサンドラに察知され、12月13日に買収を批判する手紙を送られてしまう<ref name="Mosolov1935">{{cite book|author=Aleksandr Mosolov|title=At the court of the last tsar: being the memoirs of A. A. Mossolov, head of the court chancellery, 1900-1916|url=http://books.google.com/books?id=U9dBAAAAYAAJ|accessdate=19 June 2014|year=1935|publisher=Methuen}}</ref>。この間、[[ドイツ帝国]]首相[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]からの和平交渉の申し出を拒否する旨を[[ドゥーマ]]で表明した。12月16日から27日([[グレゴリウス暦]]12月29日から[[1917年]]1月9日)にかけてドゥーマが[[クリスマス]]のため開会されるが、27日の閉会日に首相を解任され、[[ニコライ・ゴリツィン]]が後任の首相に就任した。[[十月革命]]勃発後に[[ヘルシンキ]]を経由して[[フランス]]へ亡命し、[[ニース]]で死去した。

2021年6月13日 (日) 09:56時点における版

アレクサンドル・フョードロヴィッチ・トレポフ
Александр Фёдорович Трепов
生年月日 1862年9月30日
出生地 ロシア帝国 キエフ
没年月日 (1928-11-10) 1928年11月10日(66歳没)
死没地 フランスの旗 フランス共和国 ニース

内閣 トレポフ内閣
在任期間 1916年11月10日 - 1916年12月27日
皇帝 ニコライ2世

ロシア帝国の旗 運輸大臣
内閣 スチュルメル内閣
トレポフ内閣
在任期間 1915年11月12日 - 1916年12月27日
皇帝 ニコライ2世
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アレクサンドル・フョードロヴィッチ・トレポフАлександр Фёдорович ТреповAleksandr Fyodorovich Trepov1862年9月30日 - 1928年11月10日)は、帝政ロシアの大臣会議議長(首相)。

来歴

閣僚

1862年に、当時はロシア帝国領であったキエフで生まれる。父のフョードル・トレポフ1月蜂起の鎮圧に参加し、後にサンクトペテルブルク市長となった。また、兄のドミトリー・トレポフ血の日曜日事件の際にデモ隊の弾圧を指揮し、民衆から憎悪されていた。

トレポフは官吏養成学校パージ・コープス英語版を卒業後、1889年に内務省に入省し、1899年国家評議会議長補佐に任命される。1906年に国家評議会議員に選出され、議院内閣制を研究するため西欧に派遣される[1]1914年には再び国家評議会議員に復帰した。1915年11月12日に運輸大臣に就任。東部戦線におけるムルマンスクへの輸送手段を改善するためキーロフ鉄道英語版を敷設した。トレポフはグリゴリー・ラスプーチンの批判者だったため、トレポフの運輸相就任を聞いたラスプーチンは落胆したという[2]

首相

トレポフの墓

1916年11月10日には運輸相在任のまま大臣会議議長に内定するが、アレクサンドラ皇后とラスプーチンが推薦するアレクサンドル・プロトポポフの内務大臣への任命を拒否し、プロトポポフに内相就任を辞退するように求めたが、これは拒まれた。トレポフは「プロトポポフの内相就任辞退が首相に就任する必須条件」とし、これに対しニコライ2世は要求を受け入れ、11月23日にトレポフを首相に任命した[3]。一方、アレクサンドラはトレポフを嫌い、プロトポポフが内相に就任出来るように夫に働きかけた[4]。これに対し、トレポフは11月27日にスタフカに赴きニコライ2世に謁見し首相辞任を示唆して牽制したが、ニコライ2世は最終的にプロトポポフを12月7日に内相に任命した。

トレポフは、プロトポポフを内相に推薦したラスプーチンを買収しようと試みたが失敗している[5]。義理の兄A・A・モゾロフの協力を得て、ラスプーチンに「政治から手を引くならば大金と屋敷、護衛を贈る」と持ちかけたが、アレクサンドラに察知され、12月13日に買収を批判する手紙を送られてしまう[6]。この間、ドイツ帝国首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークからの和平交渉の申し出を拒否する旨をドゥーマで表明した。12月16日から27日(グレゴリウス暦12月29日から1917年1月9日)にかけてドゥーマがクリスマスのため開会されるが、27日の閉会日に首相を解任され、ニコライ・ゴリツィンが後任の首相に就任した。十月革命勃発後にヘルシンキを経由してフランスへ亡命し、ニースで死去した。

脚注

  1. ^ Recollections Of A Foreign Minister (1921)
  2. ^ Bernard Pares The Fall of the Russian Monarchy, p. 299.
  3. ^ The Russian Revolution by Richard Pipes, p. 261
  4. ^ The Fall of the Russian Empire: The Story of the Last of the Romanovs and ... by Edmund A. Walsh S.J., p. 115, 116, 297. [1]
  5. ^ Nicholas and Alexandra: The Tragic, Compelling Story of the Last Tsar and ... by Robert K. Massie [2]
  6. ^ Aleksandr Mosolov (1935). At the court of the last tsar: being the memoirs of A. A. Mossolov, head of the court chancellery, 1900-1916. Methuen. http://books.google.com/books?id=U9dBAAAAYAAJ 2014年6月19日閲覧。 

参考文献

公職
先代
ボリス・スチュルメル
ロシア帝国の旗 大臣会議議長
第7代:1916年
次代
ニコライ・ゴリツィン
先代
セルゲイ・ルハロフ英語版
ロシア帝国の旗 運輸大臣
1915年 - 1916年
次代
エドゥアルド・クリーガー=ヴォイノフスキー