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'''エリザヴェータ・フョードロヴナ'''({{翻字併記|ru|Елизавета Фёдоровна|Elizaveta Fëdorovna}}, [[1864年]][[11月1日]] - [[1918年]][[7月18日]])は[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族、[[ロシア大公女・大公妃一覧|ロシア大公妃]]。皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の五男[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ]]大公の妻。[[ドイツ語]]名は'''エリーザベト・アレクサンドラ'''({{lang|de|Elisabeth Alexandra Luise Alice}})。[[ヘッセン大公国|ヘッセン大公]][[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]とその妃で[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の王女[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]の次女。[[正教会]]で[[聖人]]([[新致命者]])。 |
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[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王女[[エルジェーベト (ハンガリー王女)|聖エリーザベト]]にちなんで命名された。愛称は「'''エラ'''」({{lang|de|Ella}})。妹は[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]](アリックス)。姉[[ヴィクトリア (ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人)|ヴィクトリア]]は[[エディンバラ公]][[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]の祖母に当たる。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
2021年6月13日 (日) 09:57時点における版
エリザヴェータ・フョードロヴナ Елизавета Фёдоровна | |
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出生 |
1864年11月1日 ヘッセン大公国 |
死去 |
1918年7月18日(53歳没) ロシア社会主義連邦ソビエト共和国、アパラエフスク郊外 |
埋葬 |
1921年1月 イギリス委任統治領パレスチナ エルサレム、ゲッセマネ マグダラのマリア教会 |
配偶者 | セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公 |
父親 | ヘッセン大公ルートヴィヒ4世 |
母親 | アリス |
エリザヴェータ・フョードロヴナ(ロシア語: Елизавета Фёдоровна, ラテン文字転写: Elizaveta Fëdorovna, 1864年11月1日 - 1918年7月18日)はロシアの皇族、ロシア大公妃。皇帝アレクサンドル2世の五男セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の妻。ドイツ語名はエリーザベト・アレクサンドラ(Elisabeth Alexandra Luise Alice)。ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とその妃でヴィクトリア女王の王女アリスの次女。正教会で聖人(新致命者)。
ハンガリー王女聖エリーザベトにちなんで命名された。愛称は「エラ」(Ella)。妹はニコライ2世の皇后アレクサンドラ(アリックス)。姉ヴィクトリアはエディンバラ公フィリップの祖母に当たる。
生涯
美人の誉れが高く、ヨーロッパで一番美しいプリンセスと称された。14歳の頃、ボン大学に通っていた従兄ヴィルヘルム(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)から求婚されるが、彼女はこの求婚を受け入れなかった。1878年、母と妹をジフテリアで失い、祖母ヴィクトリア女王の元で育てられる。
1884年、幼馴染だったロシア皇族のセルゲイ大公(皇帝アレクサンドル2世の五男)と結婚した。この結婚は幸福ではなかったといわれている。2人の間に子はいなかったが、これはセルゲイの同性愛によるものだという説が強い。
1891年、夫セルゲイはモスクワ総督に就任し、モスクワに移り住む。セルゲイは反動的政治を行い、嫌われていたが、エラは美しさと人徳の高さから人気があった。この頃、正教に改宗する。後に妹アリックスがニコライとの結婚に際し、改宗のことで迷っていたとき、改宗をすすめている。
1901年、義弟パーヴェル大公の再婚に際し、ニコライ2世の命で大公の2人の子、マリヤ大公女とドミトリー大公を引き取り、養育した。マリヤは、この頃のエリーザベトはとびきりの美人でお洒落だったが、冷たく近寄りがたかったと回想している。姪甥と親しくなるのは夫の死後である。
1905年、夫セルゲイが革命家のイワン・カリャーエフに暗殺された。後に獄中のカリャーエフに面会し、直接助命嘆願を申し出たといわれているが、当人に拒否されている。
1909年、マリヤとドミトリーの養育を終えると、他の皇族の反対を押し切って修道院を創立し、自らその院長となって奉仕活動などに力を入れた。
1905年頃から妹アレクサンドラが皇太子アレクセイの血友病の治癒のためにグリゴリー・ラスプーチンにのめりこむと、エラは皇帝やその母后マリア・フョードロヴナに手紙を送ったり、妹を諌めにツァールスコエ・セローにたびたび出かけたりしていたが、彼女の思いは通じることはなかった。
1916年、ラスプーチンがユスポフ公(彼の母はエラの親友であった)らに殺害されると、ドミトリーに祝福の電報を送ったため、皇后はエラが殺害に加わっていたと嫌疑をかけることとなる。これにより、姉妹の仲はこじれることになった。
1917年、ロシア革命が起こると、周囲のものは亡命をすすめたが聞き入れず、翌1918年3月20日に赤軍によりアパラエスク郊外の鉱山に送られ、7月18日にチェーカーによりほかの皇族らとともに郊外の廃坑へ突き落され、手榴弾を投げ込まれて殺害された。ある皇族の頭には包帯が巻かれていたが、エラが最後の力を振り絞って介抱した証であった。遺体は翌月にアパラエスクを占領したアレクサンドル・コルチャーク提督により、3か月経ってから発見された。
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遺体は、彼女が望んだように1921年1月にエルサレムのマグダラのマリア教会に埋葬された[1]。妹一家と同じくロシア正教会では聖人とされている。
画像
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夫セルゲイと共に撮影
関連作品
- 『詩人』 - 大佛次郎の短編小説。彼女とセルゲイ大公暗殺犯カリャーエフとのやり取りを題材にしたものである。作中では、エリザヴェータがカリャーエフの助命嘆願をした理由を「かつてセルゲイ大公の馬車に幼い子どもが同乗していたのを理由に爆弾テロの実行を中止したことがある」としている。
- 『神々の土地〜ロマノフたちの黄昏〜』 - 2017年の宝塚歌劇団のミュージカル作品。エリザヴェータは「イリナ」(ドイツ語ではイレーネ)という登場人物に脚色され、アレクサンドラ皇后の妹に設定された(演:伶美うらら)[2]。
脚注
- ^ “Convent of Saint Mary Magdalene”. www.jerusalem-mission.org. 2020年11月29日閲覧。
- ^ 井上理恵 鈴木国男 関谷由美子、2020、「第三部 宝塚<美>の中の<思想>」、『宝塚の21世紀 演出家とスターが描く舞台』、社会評論社 p. 218