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「ニコライ・ボブリコフ」の版間の差分

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[[1898年]]、[[ニコライ2世]]によってフィンランド総督に任命される。ボブリコフはフィンランド国民から恐怖と憎悪をもって迎えられた。[[1899年]]、ニコライ2世は二月詔書に署名した。{{仮リンク|フィンランドの自治権廃止宣言|fi|Sortovuodet}}は、高揚する[[ロシア・ナショナリズム]]を背景に、[[ロシア帝国]]の法律がフィンランドの法律に優先するという内容で、[[1809年]]にロシアの保護国としてではあったが、フィンランドが有していた一定の内政自治を崩すものであった。フィンランド人は二月詔書に反発し、50万人の署名を集め、ニコライ2世に対して詔書の撤回を請願したが、皇帝の専制権力を絶対視するニコライ2世は嘆願書を持参した使節団に謁見することを拒否した。
[[1898年]]、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]によってフィンランド総督に任命される。ボブリコフはフィンランド国民から恐怖と憎悪をもって迎えられた。[[1899年]]、ニコライ2世は二月詔書に署名した。{{仮リンク|フィンランドの自治権廃止宣言|fi|Sortovuodet}}は、高揚する[[ロシア・ナショナリズム]]を背景に、[[ロシア帝国]]の法律がフィンランドの法律に優先するという内容で、[[1809年]]にロシアの保護国としてではあったが、フィンランドが有していた一定の内政自治を崩すものであった。フィンランド人は二月詔書に反発し、50万人の署名を集め、ニコライ2世に対して詔書の撤回を請願したが、皇帝の専制権力を絶対視するニコライ2世は嘆願書を持参した使節団に謁見することを拒否した。


[[1900年]]、ボブリコフ総督はフィンランドの官庁に対して全[[公文書]]のロシア語化と、[[学校教育]]におけるロシア語教育の徹底を指令した。さらに[[1901年]]には[[フィンランド軍]]を廃止、フィンランドにおける募兵をロシア全土に赴任させることを強制可能にした。さらに[[1905年]]フィンランドにおける徴兵は廃止された。
[[1900年]]、ボブリコフ総督はフィンランドの官庁に対して全[[公文書]]のロシア語化と、[[学校教育]]におけるロシア語教育の徹底を指令した。さらに[[1901年]]には[[フィンランド軍]]を廃止、フィンランドにおける募兵をロシア全土に赴任させることを強制可能にした。さらに[[1905年]]フィンランドにおける徴兵は廃止された。

2021年6月13日 (日) 10:04時点における最新版

ニコライ・ボブリコフ

ニコライ・イワノヴィチ・ボブリコフロシア語: Николай Иванович Бобриков、ラテン文字転写の例:Nikolai Ivanovich Bobrikovユリウス暦1839年1月15日グレゴリオ暦1月27日) – 1904年6月17日)は、帝政ロシア軍人政治家[1]フィンランド総督としてロシア化を推進するが、暗殺された。

経歴[編集]

サンクトペテルブルク生まれ。1858年ロシア帝国軍に入り将校となる。カザン軍管区ではノヴゴロド師団参謀長を務める。1869年大佐となり、翌1870年近衛連隊勤務となり、サンクトペテルブルクに転出する。近衛連隊勤務は、結果として、ボブリコフに宮廷との接触の機会を与えることとなった。1878年少将に昇進する。

1898年ニコライ2世によってフィンランド総督に任命される。ボブリコフはフィンランド国民から恐怖と憎悪をもって迎えられた。1899年、ニコライ2世は二月詔書に署名した。フィンランドの自治権廃止宣言フィンランド語版は、高揚するロシア・ナショナリズムを背景に、ロシア帝国の法律がフィンランドの法律に優先するという内容で、1809年にロシアの保護国としてではあったが、フィンランドが有していた一定の内政自治を崩すものであった。フィンランド人は二月詔書に反発し、50万人の署名を集め、ニコライ2世に対して詔書の撤回を請願したが、皇帝の専制権力を絶対視するニコライ2世は嘆願書を持参した使節団に謁見することを拒否した。

1900年、ボブリコフ総督はフィンランドの官庁に対して全公文書のロシア語化と、学校教育におけるロシア語教育の徹底を指令した。さらに1901年にはフィンランド軍を廃止、フィンランドにおける募兵をロシア全土に赴任させることを強制可能にした。さらに1905年フィンランドにおける徴兵は廃止された。

1903年、ボブリコフはフィンランドにおける独裁的権限(官吏人事権、新聞停止権)を付与された。1904年6月16日、ボブリコフはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマンフィンランド語版によって暗殺された。ボブリコフはシャウマンによって3発の銃弾を浴び、病院に運ばれたものの、その日の夜になって死亡した。シャウマン自身は銃撃の後自決した。

脚注[編集]

  1. ^ Kauffman, George B.; Niinistö, Lauri (1998). “Chemistry and Politics: Edvard Immanuel Hjelt (1855–1921)”. The Chemical Educator 3 (5): 1–15. doi:10.1007/s00897980247a. http://chemeducator.org/bibs/0003003/00030208.htm. 

外部リンク[編集]

先代
フョードル・ゲイデン
フレデリック・ファン・ヘイデン
フィンランド総督
1898年 - 1904年
次代
イワン・オボレンスキー