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== イラン・ロシア関係史 ==
== イラン・ロシア関係史 ==
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[[画像:Shah soleiman safavi.jpg|thumb|left|200px|シャー・ソレイマーン1世と廷臣(エスファハーン, 1670年)。アリー・クリー・ジャッバードゥル画。[[ロシア]]・[[サンクトペテルブルク]]東洋学研究所蔵。[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]帝により収蔵。上左方の名前入り2名の[[ジョージア (国)|グルジア人]]に注目。]]


=== ガージャール朝期(1796~1925年) ===
=== ガージャール朝期(1796~1925年) ===

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イラン・ロシア関係
IranとRussiaの位置を示した地図

イラン

ロシア

イランとロシアの関係ペルシア語: روابط ایران و روسیه‎、ロシア語: Российско-иранские отношения英語: Iran–Russia relations)は、公式には1592年に当時のサファヴィー朝とのあいだで取り結ばれた外交関係に始まる。以降、相互の関係は一時は緊張し、一時は穏やかなものであり、さまざまな変動が見られた。

イラン・ロシア関係史

シャー・ソレイマーン1世と廷臣(エスファハーン, 1670年)。アリー・クリー・ジャッバードゥル画。ロシアサンクトペテルブルク東洋学研究所蔵。ニコライ2世帝により収蔵。上左方の名前入り2名のグルジア人に注目。

ガージャール朝期(1796~1925年)

18世紀半ば、サファヴィー朝が弱体化してガージャール朝に変わるとイラン・ロシア関係は活発化した。ガージャール朝は早期に国内の混乱で消耗し、相互に対抗する植民地勢力がこの地域に対する安定的基盤を求めて急速に浸透するようになる。ポルトガルイギリスオランダペルシア湾においてイラン南部および南東部の覇権を争う一方、ロシアはイラン北部での優位確立のために南下しており、ロシア帝国の北方での地位は挑戦をうけることのないものであった。

内政に苦しむガージャール朝は、北方からせまりくるロシアの脅威に対して立ち向かう困難を認識する。弱体化し破産状態にあるファトフ・アリー・シャー治下のガージャール朝は1813年、有名なゴレスターン条約への調印を強いられた。アッバース・ミールザーペルシア語版英語版の改革もイラン北境を安定させることに失敗、続いてトルコマーンチャーイ条約の締結に至る。

西北国境における2次にわたるイラン・ロシア戦争(第一次第二次)、トルコマーンチャーイ条約およびゴレスターン条約によるロシア帝国の継続的な南下、さらには1823年のアッバース・ミールザーの急逝、大宰相アボルガーセム・ガーエム=マガームペルシア語版英語版暗殺が加わり、イランはロシア帝国のまえに中央アジアにおける伝統的な地盤を喪失した[1]ロシア軍1849年アラル海沿岸を制圧、1864年にはタシュケント1867年ブハラ1868年サマルカンド、そして1873年にはヒヴァを落としてアムダリヤに至った。アーハル条約ペルシア語版英語版におけるガージャール朝によるホラズムの割譲によって、新興大国ロシアのイランへの侵食は完成に達した。

19世紀末までにはロシアの勢力は、タブリーズガズヴィーン、その他多数の都市がロシアに占領されたと言われるほどに伸長。テヘランの中央政府は自国の閣僚を英露領事館の承認なしに選任することさえできない状況に置かれた。たとえばモルガン・シャスターは宮廷に対するイギリス・ロシアの圧力のもとに辞任を余儀なくされている。シャスターの著書『ペルシアの窒息[2]』はこのような状況における諸事件を詳細に述べ、イギリスおよびロシア帝国を厳しく批判する[3]

さらに1911年のロシアによるマシュハドゴハルシャード・モスクペルシア語版英語版への砲撃、ウラディーミル・リアホフ大佐による国民議会砲撃などの諸事件によって、イラン全域での広範な反露感情は最高潮に達した[4]

ウラディーミル・リアホフ大佐は1911年のイラン国民議会に対する砲撃で有名

パフラヴィー朝期(1925~1979年)

イランのいたる所に現れるロシア帝国のプレゼンスに対する広範な抗議活動における1つの結果が、ギーラーン護憲運動ペルシア語版英語版である。ミールザー・クーチェク・ハーンペルシア語版英語版の指導する反乱は最終的対立に至ったが、1917年ロシア10月革命で中断することになる。

しかしロシアのイランに対する関与は継続。1920年に設立された短命のギーラーン共和国、つづくマハーバード共和国のような試みがあった。マハーバード共和国はソヴィエト・ロシアのイランにおける共産主義共和国設立の最後の事例となる。

1941年第二次世界大戦が勃発すると、中立を求めるイランの意向を無視して、ソヴィエト・ロシアおよび英国は侵攻を開始した。

1945年7月6日ソ連ロシア共産党中央委員会はソヴィエト領(北部)アゼルバイジャン現地のソヴィエト軍司令官に電報を発し、次のように指令していることが明らかになっている。

イラン国家内の広範な勢力を結集し民族自治のアゼルバイジャン地域を形成する予備的作業を開始せよ。また同時にギーラーンマーザンダラーンゴルガーンホラーサーンにおいても分離主義運動を立ち上げよ」[5]

この指令に基づいてイラン進駐が行われたが、第二次世界大戦の終結により、イランをとりまく政治的状況におけるアメリカ合衆国が優位にたつ時期がはじまった。冷戦の発生とともに、アメリカはイランの反共ブロックへの引き込みを急いだ。これにより年来の長期にわたるイランに対するロシアの影響力は終焉をみたのである。

イスラーム革命後(1979年~)

イラン・イラク戦争期にあって、ソヴィエト連邦サッダーム・フセインイラクに大量の通常兵器を供給した。ルーホッラー・ホメイニーはソ連の共産主義の理念をイスラームとは原理的に相容れないものと考えて、世俗的なサッダームをモスクワの盟友とみなしたのである。

イラン・イラク戦争後、特にソ連の没落により、テヘランとモスクワの関係は外交においても経済においても急速に緊密化。時をおかずイランはロシアからの兵器購入さえ始めるようになる。

1990年代半ばまでに、ロシアはイランの核開発計画の作業を継続し、20年近く遅延していたブーシェフル原子炉プラント完成を計画に同意している。

この見返りとして、レバノンパレスチナに見るようにイスラーム諸国民の擁護者を自任するイランは、両次チェチェン戦争におけるチェチェン人へのロシアの暴力非難については、大部分沈黙を守っている[6]

現在の関係

1916年、フランスの雑誌に掲載された「エスファハーンのロシア人」

2005年にロシアはイランの貿易相手国として第7位であり、イランの全輸入の5.33%をロシアが占めた[7]。両国の取引総量は10億米ドルを上回る[8]

アメリカ合衆国および欧州連合とイランの対立が拡大するにつれ、中国ロシア同盟の側に引き寄せられつつあることをイランは自覚している。さらにイランはロシア同様にトルコの地域に対する野心および何らかのかたちでの汎テュルク主義の潜在的拡散に疑いの目を向けている[9]

ロシアとイランは中央アジアにおけるアメリカ合衆国の政治的影響力の拡大を抑制することに共通の利害を持つ。この結果、イランは2005年には上海協力機構オブザーバー国となった。中国とロシアの主導する上海協力機構への参加は、1979年以来イランが有した外交関係でももっとも広範なものといえる。

しかしながらテヘランとモスクワの絆の固さはいまだに試されたことはない。ロシアは西側との経済関係への依存傾向をますます強めており、テヘランとの関係を抑制しようとする西側の圧力に対して脆くなっている。またイランもブーシェフルの原子炉建設計画終了の際にロシア側の度重なる作業遅滞に不満を表明、またカスピ海論争の際のロシアの姿勢にも不快感を示している。専門家の多くはロシア・イラン関係は互恵的ではないと考えている。

「ロシア・イラン関係は双方共通の目的によって構築されているというより、むしろロシアの利益によって導かれている」[10]

軍事的には、イラン空軍が完全に西側諸国機から構成された革命前とは異なり、欧米の経済制裁継続により、現在イラン空軍、民間航空機ともにロシア製航空機の割合が増している[11][12]

外交使節

在イラン・ロシア大使

在イラン・ソビエト連邦大使
在イラン・ロシア連邦大使

在ロシア・イラン大使

在ソビエト・イラン大使


在ロシア・イラン大使

参考

  1. ^ همایون, ناصر تکمیل (2004) (Farsi). خوارزم. از ایران چه می دانم؟ ; 50. ISBN 964-379-023-1 
  2. ^ Morgan Shuster, The Strangling of Persia: Story of the European Diplomacy and Oriental Intrigue That Resulted in the Denationalization of Twelve Million Mohammedans. ISBN 0-934211-06-X
  3. ^ Shuster, William Morgan (1987) [1912] (English). The strangling of Persia : story of the European diplomacy and oriental intrique that resulted in the denationalization of twelve million Mohammedans, a personal narrative (Reprint Edition ed.). Washington, D.C.: Mage Publishers. ISBN 0-934211-06-X 
  4. ^ ガズヴィーンにあるロシア人飛行士の墓の写真を参照せよ。[1]
  5. ^ Decree of the CC CPSU Politburo to Mir Bagirov, CC Secretary of the Communist Party of Azerbaijan, on "measures to Organize a Separatist Movement in Southern Azerbaijan and Other Provinces of Northern Iran". Translation provided by The Cold War International History Project at The Woodrow Wilson International Center for Scholars.
  6. ^ Iran Press Service (2001年12月6日). “Iran Reiterates Chechnya War is Russia's Internal Affair” (English). 2007年7月8日閲覧。
  7. ^ Habibi, Nader (2006年5月5日). “The Cost of Economic Sanctions on Major Exporters to Iran” (English). 2007年7月8日閲覧。
  8. ^ Iran Daily (2003年12月24日). “Trade with Russia up” (English). 2007年7月8日閲覧。
  9. ^ Herzig, Edmund (1995) (English). Iran and the former Soviet South. Former Soviet south project. London: Royal Institute for International Affairs, Russian and CIS Programme. pp. 9. ISBN 1-899658-04-1 
  10. ^ Tragert, Joseph (2004). Complete Idiot's Guide to Understanding Iran. Indianapolis: Alpha Books. pp. 232. ISBN 1-59257-141-7 
  11. ^ BBC (2005年12月6日). “Iran air safety hit by sanctions” (English). 2007年7月8日閲覧。
  12. ^ IRNA (2004年3月31日). “Iran to buy five TU 100-204 planes from Russia” (English). 2007年7月8日閲覧。

読書案内

  • Kazemzadeh, Firuz, Russia and Britain in Persia, A study in Imperialism, 1968, Yale University Press.

関連項目

外部リンク