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[[バルト・ドイツ人]]の家庭に[[サンクトペテルブルク]]で生まれる。軍歴の最初は[[1854年]]の[[クリミア戦争]]への従軍。[[1863年]]‐64年、[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]反乱([[一月蜂起]])鎮圧に従軍。[[1867年]]から[[中央アジア]]([[トルキスタン]])遠征に従軍、[[ブハラ]]攻略戦に参加。[[1870年]]、第17狙撃兵[[大隊長]]。[[1872年]]、第2近衛狙撃兵大隊長。[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]にモスクワ近衛連隊長として従軍、孤立無援な状況で[[トルコ軍]]の度重なる反撃を撃退して武名を挙げ、受勲多数。[[1888年]]、近衛第1歩兵師団第1[[旅団長]]。[[1890年]]、[[少将]]に昇進し近衛第1歩兵師団長。[[1900年]]、[[中将]]となり第6軍団長。翌年から[[ビリニュス|ヴィレンスク]]軍管区司令官。
[[バルト・ドイツ人]]の家庭に[[サンクトペテルブルク]]で生まれる。軍歴の最初は[[1854年]]の[[クリミア戦争]]への従軍。[[1863年]]‐64年、[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]反乱([[一月蜂起]])鎮圧に従軍。[[1867年]]から[[中央アジア]]([[トルキスタン]])遠征に従軍、[[ブハラ]]攻略戦に参加。[[1870年]]、第17狙撃兵[[大隊長]]。[[1872年]]、第2近衛狙撃兵大隊長。[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]にモスクワ近衛連隊長として従軍、孤立無援な状況で[[トルコ軍]]の度重なる反撃を撃退して武名を挙げ、受勲多数。[[1888年]]、近衛第1歩兵師団第1[[旅団長]]。[[1890年]]、[[少将]]に昇進し近衛第1歩兵師団長。[[1900年]]、[[中将]]となり第6軍団長。翌年から[[ビリニュス|ヴィレンスク]]軍管区司令官。


[[1904年]]に[[日露戦争]]が始まり[[ロシア軍]]が徐々に北方に追われると、ベテランの将軍として反攻を指揮するべく11月に[[満州]]に派遣された。軍を閲兵して自信を深めたグリッペンベルクは「後退は許さない」と訓示して全軍で反転攻勢に転じるつもりであったが、実際はロシア満州軍総司令官[[アレクセイ・クロパトキン]]が依然大きな指揮権を有しており、全軍の一部の第2軍の指揮ができたのみであった。酷寒と補給の不足で戦線が停滞していた中、[[1905年]]1月25日にグリッペンベルクが渋るクロパトキンを押し切って開始した[[攻勢]]([[黒溝台会戦]])は[[日本軍]]を窮地に追い込むが、1月29日になって突然第2軍は退却を命じられた。この戦いの後グリッペンベルクは病気を理由に本国に辞意を打電、皇帝[[ニコライ2世]]に折り返し真意を尋ねられると、無制限の指揮権が与えられなかったことへの憾みを上申した。ニコライはグリッペンベルクに帰国を許し、感謝の意を述べた。折しもロシア本国では[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]が発生して世情が騒然としており、[[共産主義者]]たちは将軍同士の不和を政府の無能の結果として攻撃した。
[[1904年]]に[[日露戦争]]が始まり[[ロシア軍]]が徐々に北方に追われると、ベテランの将軍として反攻を指揮するべく11月に[[満州]]に派遣された。軍を閲兵して自信を深めたグリッペンベルクは「後退は許さない」と訓示して全軍で反転攻勢に転じるつもりであったが、実際はロシア満州軍総司令官[[アレクセイ・クロパトキン]]が依然大きな指揮権を有しており、全軍の一部の第2軍の指揮ができたのみであった。酷寒と補給の不足で戦線が停滞していた中、[[1905年]]1月25日にグリッペンベルクが渋るクロパトキンを押し切って開始した[[攻勢]]([[黒溝台会戦]])は[[日本軍]]を窮地に追い込むが、1月29日になって突然第2軍は退却を命じられた。この戦いの後グリッペンベルクは病気を理由に本国に辞意を打電、皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]に折り返し真意を尋ねられると、無制限の指揮権が与えられなかったことへの憾みを上申した。ニコライはグリッペンベルクに帰国を許し、感謝の意を述べた。折しもロシア本国では[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]が発生して世情が騒然としており、[[共産主義者]]たちは将軍同士の不和を政府の無能の結果として攻撃した。


[[サンクトペテルブルク]]に帰還直後の[[1905年]]6月に歩兵総監に任命され、歩兵の射撃操典改正に力を入れた。しかし健康状態が悪化したため[[1906年]]3月23日をもって退役。[[1908年]]にクロパトキンが出版した日露戦争についての回顧録の内容に関して、責任の所在をめぐって彼と紙上で論争を繰り広げた。[[1914年]]7月まで枢密院議員を務める。1915年、サンクトペテルブルクで死去し、[[ツァールスコエ・セロー]](現[[プーシキン_(サンクトペテルブルク)|プーシキン]]市。サンクトペテルブルク近郊)の墓地に埋葬された。
[[サンクトペテルブルク]]に帰還直後の[[1905年]]6月に歩兵総監に任命され、歩兵の射撃操典改正に力を入れた。しかし健康状態が悪化したため[[1906年]]3月23日をもって退役。[[1908年]]にクロパトキンが出版した日露戦争についての回顧録の内容に関して、責任の所在をめぐって彼と紙上で論争を繰り広げた。[[1914年]]7月まで枢密院議員を務める。1915年、サンクトペテルブルクで死去し、[[ツァールスコエ・セロー]](現[[プーシキン_(サンクトペテルブルク)|プーシキン]]市。サンクトペテルブルク近郊)の墓地に埋葬された。

2021年6月13日 (日) 10:10時点における版

オスカル・フェルディナント・グリッペンベルク
Оскар-Фердинанд Гриппенберг
グリッペンベルク大将
生誕 1838年1月1日
フィンランド大公国の旗 フィンランド大公国イカーリネン
死没 1915年12月25日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ペテルブルク
所属組織 ロシア帝国陸軍
軍歴 1854 - 1906
最終階級 大将
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オスカル・フェルディナント・カジミーロヴィチ・グリッペンベルクロシア語: Оскар-Фердинанд Казимирович Гриппенбергオースカル・フィルヂナーント・カズィミーラヴィチュ・グリッピンビェールク, ロシア語ラテン翻字: Oskar-Ferdinand Kazimirovich Grippenberg, 1838年1月1日 - 1915年12月25日)は、ロシア帝国軍人トルキスタン遠征、露土戦争に従軍したほか、日露戦争では黒溝台会戦での攻勢で日本軍を窮地に追い込んだ。

経歴

バルト・ドイツ人の家庭にサンクトペテルブルクで生まれる。軍歴の最初は1854年クリミア戦争への従軍。1863年‐64年、ポーランド反乱(一月蜂起)鎮圧に従軍。1867年から中央アジアトルキスタン)遠征に従軍、ブハラ攻略戦に参加。1870年、第17狙撃兵大隊長1872年、第2近衛狙撃兵大隊長。1877年露土戦争にモスクワ近衛連隊長として従軍、孤立無援な状況でトルコ軍の度重なる反撃を撃退して武名を挙げ、受勲多数。1888年、近衛第1歩兵師団第1旅団長1890年少将に昇進し近衛第1歩兵師団長。1900年中将となり第6軍団長。翌年からヴィレンスク軍管区司令官。

1904年日露戦争が始まりロシア軍が徐々に北方に追われると、ベテランの将軍として反攻を指揮するべく11月に満州に派遣された。軍を閲兵して自信を深めたグリッペンベルクは「後退は許さない」と訓示して全軍で反転攻勢に転じるつもりであったが、実際はロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキンが依然大きな指揮権を有しており、全軍の一部の第2軍の指揮ができたのみであった。酷寒と補給の不足で戦線が停滞していた中、1905年1月25日にグリッペンベルクが渋るクロパトキンを押し切って開始した攻勢黒溝台会戦)は日本軍を窮地に追い込むが、1月29日になって突然第2軍は退却を命じられた。この戦いの後グリッペンベルクは病気を理由に本国に辞意を打電、皇帝ニコライ2世に折り返し真意を尋ねられると、無制限の指揮権が与えられなかったことへの憾みを上申した。ニコライはグリッペンベルクに帰国を許し、感謝の意を述べた。折しもロシア本国では血の日曜日事件が発生して世情が騒然としており、共産主義者たちは将軍同士の不和を政府の無能の結果として攻撃した。

サンクトペテルブルクに帰還直後の1905年6月に歩兵総監に任命され、歩兵の射撃操典改正に力を入れた。しかし健康状態が悪化したため1906年3月23日をもって退役。1908年にクロパトキンが出版した日露戦争についての回顧録の内容に関して、責任の所在をめぐって彼と紙上で論争を繰り広げた。1914年7月まで枢密院議員を務める。1915年、サンクトペテルブルクで死去し、ツァールスコエ・セロー(現プーシキン市。サンクトペテルブルク近郊)の墓地に埋葬された。