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[[1897年]]、ルイビンスクからプスコフ、リガを経てヴェンツピルス港へと結ぶ鉄道が開通した。同時に駅の周りに集落が誕生し、[[1904年]]にはサンクトペテルブルクからの鉄道も開通して集落は大きくなり、[[1925年]]に市となった。
[[1897年]]、ルイビンスクからプスコフ、リガを経てヴェンツピルス港へと結ぶ鉄道が開通した。同時に駅の周りに集落が誕生し、[[1904年]]にはサンクトペテルブルクからの鉄道も開通して集落は大きくなり、[[1925年]]に市となった。


ドノーの駅は、ロシア最後の皇帝[[ニコライ2世]]が、[[2月革命 (1917年)|二月革命]]の最中の[[1917年]][[3月15日]](露暦3月2日)に退位の証書を書いた場所でもある。
ドノーの駅は、ロシア最後の皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が、[[2月革命 (1917年)|二月革命]]の最中の[[1917年]][[3月15日]](露暦3月2日)に退位の証書を書いた場所でもある。


[[第二次世界大戦]]では[[1941年]][[7月18日]]から[[1944年]][[2月24日]]まで[[ドイツ国防軍]]の占領下にあり、[[赤軍]]のレニングラード戦線および第2バルト戦線により奪回された。
[[第二次世界大戦]]では[[1941年]][[7月18日]]から[[1944年]][[2月24日]]まで[[ドイツ国防軍]]の占領下にあり、[[赤軍]]のレニングラード戦線および第2バルト戦線により奪回された。

2021年6月13日 (日) 10:14時点における版

座標: 北緯57度49分 東経29度58分 / 北緯57.817度 東経29.967度 / 57.817; 29.967

ドノー市の紋章

ドノー(ドノ、ドゥノー、ロシア語: Дно, Dno)は、ロシアプスコフ州東部にある町。州都プスコフからは東へ113kmの位置にある。プスコフボロゴエを結ぶ鉄道(ヴェンツピルス-リガ-プスコフ-ルイビンスク-ヤロスラヴリと結ぶ鉄道の一部)およびサンクトペテルブルク-ソリツイ-ネヴェリを結ぶ鉄道(その先はヴィチェプスクを経てキエフへつながる)がこの地で交わる鉄道の町で、市の紋章もこれを表している。人口は2002年全ロシア国勢調査で10,049人。1979年の調査では12,406人であったが、2005年の見積もりでは1万人を切っているとみられる。

歴史

15世紀はじめごろの記録にはドノー(Дно Большое , Донце Меньшое)と名乗る村々が既に登場する。

1897年、ルイビンスクからプスコフ、リガを経てヴェンツピルス港へと結ぶ鉄道が開通した。同時に駅の周りに集落が誕生し、1904年にはサンクトペテルブルクからの鉄道も開通して集落は大きくなり、1925年に市となった。

ドノーの駅は、ロシア最後の皇帝ニコライ2世が、二月革命の最中の1917年3月15日(露暦3月2日)に退位の証書を書いた場所でもある。

第二次世界大戦では1941年7月18日から1944年2月24日までドイツ国防軍の占領下にあり、赤軍のレニングラード戦線および第2バルト戦線により奪回された。

経済

建材工場や繊維工場などが立地するが、現在も市の経済活動は鉄道工場など鉄道関係に大きく依存している。ドノーを行政中心地とする周囲のドノフスキー地区は食肉や乳製品生産などのほか、ピートの採掘で知られる。

外部リンク