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「ボリス・フィチンゴフ=シェーリ」の版間の差分

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1880年代後半以降、[[マリインスキー劇場|ロシア帝室劇場]]の支配人[[:en:Ivan Vsevolozhsky|イワン・フセヴォロシスキー]]の依頼により、[[オペラ]]を数曲と、[[マリインスキー・バレエ|帝室バレエ団]]向けに 『[[:en:The Haarlem Tulip|ハーレムのチューリップ]]』、『[[シンデレラ (フィチンゴフ=シェーリ)|シンデレラ]]』 の2つバレエ音楽を作曲した。後者は今日上演されるシンデレラとは全く別の音楽だが、イタリア人[[バレリーナ]]の[[ピエリーナ・レニャーニ]]が32回連続のフェッテ(回転)を世界で初めて披露した作品として知られる。
1880年代後半以降、[[マリインスキー劇場|ロシア帝室劇場]]の支配人[[:en:Ivan Vsevolozhsky|イワン・フセヴォロシスキー]]の依頼により、[[オペラ]]を数曲と、[[マリインスキー・バレエ|帝室バレエ団]]向けに 『[[:en:The Haarlem Tulip|ハーレムのチューリップ]]』、『[[シンデレラ (フィチンゴフ=シェーリ)|シンデレラ]]』 の2つバレエ音楽を作曲した。後者は今日上演されるシンデレラとは全く別の音楽だが、イタリア人[[バレリーナ]]の[[ピエリーナ・レニャーニ]]が32回連続のフェッテ(回転)を世界で初めて披露した作品として知られる。


1895年には皇帝[[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]の成婚に合わせて 『結婚行進曲』 を作曲し、こちらは現在でも時折演奏されている。
1895年には皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]の成婚に合わせて 『結婚行進曲』 を作曲し、こちらは現在でも時折演奏されている。
[[1901年]]に[[サンクトペテルブルク]]で没した。
[[1901年]]に[[サンクトペテルブルク]]で没した。

2021年6月13日 (日) 10:15時点における版

ボリス・アレクサンドロヴィチ・フィチンゴフ=シェーリ: Борис Александрович Фитингоф-Шель, 1829年 - 1901年10月8日[1], 男爵) は、19世紀に活躍したロシア作曲家である。

来歴

ロシア帝国ラトヴィアのドイツ系上流貴族の家に生まれた。当初は砲兵将校として軍役についていたが[2]、音楽家としての道を歩むためモスクワ音楽院に入学した。

音楽院ではA・ゲンゼルトにフォルテピアノを、作曲法をフォフトに学んだ。ピョートル・チャイコフスキーはこのときの同期生の一人である。

1880年代後半以降、ロシア帝室劇場の支配人イワン・フセヴォロシスキーの依頼により、オペラを数曲と、帝室バレエ団向けに 『ハーレムのチューリップ』、『シンデレラ』 の2つバレエ音楽を作曲した。後者は今日上演されるシンデレラとは全く別の音楽だが、イタリア人バレリーナピエリーナ・レニャーニが32回連続のフェッテ(回転)を世界で初めて披露した作品として知られる。

1895年には皇帝ニコライ2世アレクサンドラ・フョードロヴナの成婚に合わせて 『結婚行進曲』 を作曲し、こちらは現在でも時折演奏されている。

1901年サンクトペテルブルクで没した。

エピソード

フィチンゴフ=シェーリはオペラ『マゼッパ』(Мазепа, 1859年)の序曲で全音音階をふんだんに使用したことでも有名である。フランツ・リストはこの曲を評価して以下のように記している。

「全てのそばだてた耳を怯えさせる…」

リスト自身も、彼の作品『ダンテ交響曲』において、全音音階の効果を焦熱地獄の描写のために活用している。

主な作品

オペラ

  • マゼッパ(1859年)
  • タマーラ(1886年)
  • Don Juan de Tenorio(1888年)
  • メアリー・ステュアート(未上演)
  • ヘリオドーラ (未上演)

バレエ

  • ハーレムのチューリップ(Гарлемский тюльпан, 1887年
  • シンデレラ(Золушка, 1893年)

脚注

参考文献

外部リンク