コンテンツにスキップ

「コンスタンティン・スミルノフ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎経歴: 修正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
23行目: 23行目:
[[ミンスク]]出身の小貴族の家に[[オデッサ]]で生まれ、ミハイロフスキー砲兵学校とニコライ参謀本部アカデミーを卒業した。戦術家として頭角を現し、[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]で武勲を上げ「七人の悪魔」の異名をとったという<ref name="柘植">柘植「コンスタンティン・スミルノフ陸軍中将」</ref>。[[1896年]]から[[1898年]]までオデッサ歩兵士官学校長を、[[1899年]]には[[ワルシャワ]]要塞の[[参謀長]]を歴任した。[[1900年]]、歩兵第2旅団を指揮するため[[極東]]に移った<ref name= Kowner>Kowner, '' Historical Dictionary of the Russo-Japanese War'', p. 359-360.</ref>。
[[ミンスク]]出身の小貴族の家に[[オデッサ]]で生まれ、ミハイロフスキー砲兵学校とニコライ参謀本部アカデミーを卒業した。戦術家として頭角を現し、[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]で武勲を上げ「七人の悪魔」の異名をとったという<ref name="柘植">柘植「コンスタンティン・スミルノフ陸軍中将」</ref>。[[1896年]]から[[1898年]]までオデッサ歩兵士官学校長を、[[1899年]]には[[ワルシャワ]]要塞の[[参謀長]]を歴任した。[[1900年]]、歩兵第2旅団を指揮するため[[極東]]に移った<ref name= Kowner>Kowner, '' Historical Dictionary of the Russo-Japanese War'', p. 359-360.</ref>。


[[日露戦争]]が始まると、[[1904年]][[5月3日]]、5万人以上の兵を擁する[[旅順要塞]]の司令官に任命された。[[1897年]]のロシアによる占領以来、旅順の防備は大強化されて近代化が進んでおり、世界で最も堅固な要塞の一つであると考えられていた。しかし前司令官である[[アナトーリイ・ステッセリ]]は命令を曲解し、スミルノフは自分の指揮下にあるして旅順に居残り、スミルノフの命令を取り消したり軍需品や援軍の要求を拒否し、さらに皇帝[[ニコライ2世]]にスミルノフを讒言する電報を送ったりした。ステッセリは[[7月3日]]に[[駆逐艦]]で旅順を退去するようにという満洲軍総司令官[[アレクセイ・クロパトキン]]の命令も無視した<ref name= Kowner/>。ステッセリの旅順防衛指揮は拙く、結局旅順はスミルノフ始め多くの将校に諮られる事なく、ステッセリとその派閥の[[アレクサンドル・フォーク]]によって[[1905年]][[1月1日]]に日本軍に降伏した。
[[日露戦争]]が始まると、[[1904年]][[5月3日]]、5万人以上の兵を擁する[[旅順要塞]]の司令官に任命された。[[1897年]]のロシアによる占領以来、旅順の防備は大強化されて近代化が進んでおり、世界で最も堅固な要塞の一つであると考えられていた。しかし前司令官である[[アナトーリイ・ステッセリ]]は命令を曲解し、スミルノフは自分の指揮下にあるして旅順に居残り、スミルノフの命令を取り消したり軍需品や援軍の要求を拒否し、さらに皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]にスミルノフを讒言する電報を送ったりした。ステッセリは[[7月3日]]に[[駆逐艦]]で旅順を退去するようにという満洲軍総司令官[[アレクセイ・クロパトキン]]の命令も無視した<ref name= Kowner/>。ステッセリの旅順防衛指揮は拙く、結局旅順はスミルノフ始め多くの将校に諮られる事なく、ステッセリとその派閥の[[アレクサンドル・フォーク]]によって[[1905年]][[1月1日]]に日本軍に降伏した。


終戦後、ステッセリやフォークらの臆病と職務怠慢を告発する非難文を発表した。また[[1908年]][[2月7日]]に開かれた[[軍法会議]]では彼らを死刑にするように主張した<ref name= Kowner/>が、結局懲役10年に減刑された。これらの言動によってフォークに恨まれて決闘を挑まれ、腹部を負傷した。
終戦後、ステッセリやフォークらの臆病と職務怠慢を告発する非難文を発表した。また[[1908年]][[2月7日]]に開かれた[[軍法会議]]では彼らを死刑にするように主張した<ref name= Kowner/>が、結局懲役10年に減刑された。これらの言動によってフォークに恨まれて決闘を挑まれ、腹部を負傷した。

2021年6月13日 (日) 10:24時点における版

コンスタンティン・ニコラエヴィチ・スミルノフ
Константин Николаевич Смирнов
コンスタンティン・スミルノフ
渾名 七人の悪魔
生誕 (1854-05-19) 1854年5月19日
ロシア帝国 オデッサ
死没 1930年11月9日(1930-11-09)
ユーゴスラビア王国の旗 ユーゴスラビア王国 パンチェヴォ
所属組織 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

コンスタンティン・ニコラエヴィチ・スミルノフКонстантин Николаевич Смирнов, Konstantin Nikolaevich Smirnov)は、ロシア帝国陸軍軍人。日露戦争時、陸軍中将だった。

経歴

ミンスク出身の小貴族の家にオデッサで生まれ、ミハイロフスキー砲兵学校とニコライ参謀本部アカデミーを卒業した。戦術家として頭角を現し、1877年露土戦争で武勲を上げ「七人の悪魔」の異名をとったという[1]1896年から1898年までオデッサ歩兵士官学校長を、1899年にはワルシャワ要塞の参謀長を歴任した。1900年、歩兵第2旅団を指揮するため極東に移った[2]

日露戦争が始まると、1904年5月3日、5万人以上の兵を擁する旅順要塞の司令官に任命された。1897年のロシアによる占領以来、旅順の防備は大強化されて近代化が進んでおり、世界で最も堅固な要塞の一つであると考えられていた。しかし前司令官であるアナトーリイ・ステッセリは命令を曲解し、スミルノフは自分の指揮下にあるして旅順に居残り、スミルノフの命令を取り消したり軍需品や援軍の要求を拒否し、さらに皇帝ニコライ2世にスミルノフを讒言する電報を送ったりした。ステッセリは7月3日駆逐艦で旅順を退去するようにという満洲軍総司令官アレクセイ・クロパトキンの命令も無視した[2]。ステッセリの旅順防衛指揮は拙く、結局旅順はスミルノフ始め多くの将校に諮られる事なく、ステッセリとその派閥のアレクサンドル・フォークによって1905年1月1日に日本軍に降伏した。

終戦後、ステッセリやフォークらの臆病と職務怠慢を告発する非難文を発表した。また1908年2月7日に開かれた軍法会議では彼らを死刑にするように主張した[2]が、結局懲役10年に減刑された。これらの言動によってフォークに恨まれて決闘を挑まれ、腹部を負傷した。

十月革命の後、ユーゴスラビアへ移住し、最後はセルビアパンチェヴォにて肺炎で死去した。

栄典

  • 聖スタニスラーフ勲章第1等級:1904年4月8日
  • 聖アンナ勲章第1等級:1904年10月24日
  • 聖ヴラディーミル勲章第2等級:1904年10月24日

参考文献

  1. ^ 柘植「コンスタンティン・スミルノフ陸軍中将」
  2. ^ a b c Kowner, Historical Dictionary of the Russo-Japanese War, p. 359-360.