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セルゲイ・ウィッテによる内閣は[[ロシアの歴史]]において初めての内閣であった。ウィッテが首相就任時に際して皇帝[[ニコライ2世]]に対して示した改革案は、民主的な選挙権の行使を通じて選ばれた立法議会(「{{仮リンク|帝国ドゥーマ|en|State Duma (Russian Empire)}}」)の創設、市民的自由の付与、 内閣政府と「憲法秩序」の樹立という内容であった<ref name="fig191">[[#Figes|Figes(2014)p.191]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|ウィッテは、[[ポーツマス条約]]交渉から帰国したのち、1905年10月ゼネストなど現下の大混乱のもとでは、ひとつには改革を実行すること、さもなくば、軍人に独裁権をあたえて革命に徹底的な弾圧を加えること、どちらかしかないとニコライ2世に二者択一を迫った<ref name="takada366">[[#高田|高田(1994)pp.366-369]]</ref><ref name="yasuda192">[[#保田|保田(2009)pp.192-196]]</ref>。後者は実際にロシア国内の極右勢力が主張していた見解だったが、ウィッテ自身は前者を好しと判断していた<ref name="takada366"/>。ウィッテがこうした思い切った行動に出たのは、複数の政府高官に同調者がいたためであり、なかにはウィッテに改革のための出馬を要請した人物もいたからであった<ref name="takada366"/>。皇帝は、ウィッテの進言に対して態度を明らかにせず、ウィッテを大臣会議議長(首相)に任命したいという希望を述べた<ref name="yasuda192"/>。軍事独裁に関しては、皇帝の従叔父にあたる[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ・ニコラエヴィチ大公]]が唯一と言ってよい独裁者候補であったが、革命の動乱を軍事的に鎮圧するには兵力不足であると明言し、候補から降りた<ref name="takada366"/>。ウィッテは、自分の政治プログラムが承認されるのであれば首相に就任することもやぶさかではないとして、事前に自身の案を審議するための御前会議を開いてほしいと要請し、御前会議ではウィッテの改革案が採択された<ref name="yasuda192"/>。しかし、ニコライ2世は裁可せず、当日の夜に皇帝から相談を受けた保守政治家の[[イワン・ゴレムイキン]]と{{仮リンク|アレクサンドル・ブドベルク|ru|Будберг, Александр Андреевич}}は若干の修正を加えるよう進言した<ref name="yasuda192"/>。それを聞いたウィッテは、無修正での承認でなければ首相就任を引き受けないと宣言した<ref name="yasuda192"/>。ニコライ・ニコラエヴィチ大公もまたウィッテ案に賛成し、これに署名しなければ自死すると半ば脅して、署名するようニコライ2世を説得した<ref name="yasuda192"/><ref name="wortman398">[https://books.google.com/books?id=wGp4M2DzfMQC&pg=PA398&lpg=PA398&dq=Grand+Duke+nicholas+1905+dictatorship&source=bl&ots=gAm0vKgQ4_&sig=xSiYejTyzLitKsvmeed5I5dgh-8&hl=en&ei=F92kTZP4CMT2rAGXx_CHCw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CCkQ6AEwAw#v=onepage&q=Grand%20Duke%20nicholas%201905%20dictatorship&f=false ''Scenarios of Power, From Alexander II to the Abdication of Nicholas II''], by Richard Wortman, pg. 398</ref>。こうした経緯で、ウィッテがロシア最初の首相となったのである。}}。イギリスの歴史家、[[オーランドー・ファイジズ]]によれば、自由主義改革の政治プログラムを基本に含むこれらの要求は、自由主義者を宥めることによって政治的左翼を孤立させようとする試みであった<ref name="fig191"/>。ウィッテは弾圧が一時的な解決方法にすぎず、危険なものであることを強調した。というのも、彼は軍隊が、その忠誠心がまさに今問われているのであり、その軍が大衆に向けて使用されたとき、すべてが崩壊する事態さえありうると信じたからであった<ref name="fig191"/>。皇帝の軍事顧問もほとんどはウィッテに同意した。こうして、ウィッテと{{仮リンク|アレクセイ・ドミトリエヴィチ・オボレンスキー|ru|Оболенский, Алексей Дмитриевич}}によって[[十月詔書]]が起草された<ref name="yasuda196">[[#保田|保田(2009)pp.196-199]]</ref>。しかし、皇帝は、元「鉄道書記官」で「実業家」出身の官僚にすぎないセルゲイ・ウィッテによって専制的な統治を放棄するよう強いられたことを恥辱に感じていた<ref name="fig191"/>。 |
セルゲイ・ウィッテによる内閣は[[ロシアの歴史]]において初めての内閣であった。ウィッテが首相就任時に際して皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]に対して示した改革案は、民主的な選挙権の行使を通じて選ばれた立法議会(「{{仮リンク|帝国ドゥーマ|en|State Duma (Russian Empire)}}」)の創設、市民的自由の付与、 内閣政府と「憲法秩序」の樹立という内容であった<ref name="fig191">[[#Figes|Figes(2014)p.191]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|ウィッテは、[[ポーツマス条約]]交渉から帰国したのち、1905年10月ゼネストなど現下の大混乱のもとでは、ひとつには改革を実行すること、さもなくば、軍人に独裁権をあたえて革命に徹底的な弾圧を加えること、どちらかしかないとニコライ2世に二者択一を迫った<ref name="takada366">[[#高田|高田(1994)pp.366-369]]</ref><ref name="yasuda192">[[#保田|保田(2009)pp.192-196]]</ref>。後者は実際にロシア国内の極右勢力が主張していた見解だったが、ウィッテ自身は前者を好しと判断していた<ref name="takada366"/>。ウィッテがこうした思い切った行動に出たのは、複数の政府高官に同調者がいたためであり、なかにはウィッテに改革のための出馬を要請した人物もいたからであった<ref name="takada366"/>。皇帝は、ウィッテの進言に対して態度を明らかにせず、ウィッテを大臣会議議長(首相)に任命したいという希望を述べた<ref name="yasuda192"/>。軍事独裁に関しては、皇帝の従叔父にあたる[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ・ニコラエヴィチ大公]]が唯一と言ってよい独裁者候補であったが、革命の動乱を軍事的に鎮圧するには兵力不足であると明言し、候補から降りた<ref name="takada366"/>。ウィッテは、自分の政治プログラムが承認されるのであれば首相に就任することもやぶさかではないとして、事前に自身の案を審議するための御前会議を開いてほしいと要請し、御前会議ではウィッテの改革案が採択された<ref name="yasuda192"/>。しかし、ニコライ2世は裁可せず、当日の夜に皇帝から相談を受けた保守政治家の[[イワン・ゴレムイキン]]と{{仮リンク|アレクサンドル・ブドベルク|ru|Будберг, Александр Андреевич}}は若干の修正を加えるよう進言した<ref name="yasuda192"/>。それを聞いたウィッテは、無修正での承認でなければ首相就任を引き受けないと宣言した<ref name="yasuda192"/>。ニコライ・ニコラエヴィチ大公もまたウィッテ案に賛成し、これに署名しなければ自死すると半ば脅して、署名するようニコライ2世を説得した<ref name="yasuda192"/><ref name="wortman398">[https://books.google.com/books?id=wGp4M2DzfMQC&pg=PA398&lpg=PA398&dq=Grand+Duke+nicholas+1905+dictatorship&source=bl&ots=gAm0vKgQ4_&sig=xSiYejTyzLitKsvmeed5I5dgh-8&hl=en&ei=F92kTZP4CMT2rAGXx_CHCw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CCkQ6AEwAw#v=onepage&q=Grand%20Duke%20nicholas%201905%20dictatorship&f=false ''Scenarios of Power, From Alexander II to the Abdication of Nicholas II''], by Richard Wortman, pg. 398</ref>。こうした経緯で、ウィッテがロシア最初の首相となったのである。}}。イギリスの歴史家、[[オーランドー・ファイジズ]]によれば、自由主義改革の政治プログラムを基本に含むこれらの要求は、自由主義者を宥めることによって政治的左翼を孤立させようとする試みであった<ref name="fig191"/>。ウィッテは弾圧が一時的な解決方法にすぎず、危険なものであることを強調した。というのも、彼は軍隊が、その忠誠心がまさに今問われているのであり、その軍が大衆に向けて使用されたとき、すべてが崩壊する事態さえありうると信じたからであった<ref name="fig191"/>。皇帝の軍事顧問もほとんどはウィッテに同意した。こうして、ウィッテと{{仮リンク|アレクセイ・ドミトリエヴィチ・オボレンスキー|ru|Оболенский, Алексей Дмитриевич}}によって[[十月詔書]]が起草された<ref name="yasuda196">[[#保田|保田(2009)pp.196-199]]</ref>。しかし、皇帝は、元「鉄道書記官」で「実業家」出身の官僚にすぎないセルゲイ・ウィッテによって専制的な統治を放棄するよう強いられたことを恥辱に感じていた<ref name="fig191"/>。 |
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ウィッテ内閣は短期間であったにもかかわらず、[[ドゥーマ]]でつくられた非常に多くの重要な国務が執り行われた<ref>{{cite web|url=http://texts.news/rossii-istoriya-uchebniki/pravitelstvo-vitte-durnovo-31349.html|title=Правительство Витте — Дурново: Революция резко ускорила течение времени. На долю нового, «послеок-|website=texts.news|accessdate=2020-06-06}}</ref>。セルゲイ・ウィッテの首相としての初仕事は、ストーンアイランドにある彼の[[ダーチャ]](別荘)に主だった[[サンクトペテルブルク]]の新聞編集者たちを招き、[[メディア]]に対して[[連立内閣]]の創設をアナウンスすることのはずであった。しかし、彼はあえてそのような危険は避けた。編集者たちはウィッテに対し「政府は信用できない」と述べ、サンクトペテルブルクから[[ロシア帝国軍]]を撤退させることを要求した。 |
ウィッテ内閣は短期間であったにもかかわらず、[[ドゥーマ]]でつくられた非常に多くの重要な国務が執り行われた<ref>{{cite web|url=http://texts.news/rossii-istoriya-uchebniki/pravitelstvo-vitte-durnovo-31349.html|title=Правительство Витте — Дурново: Революция резко ускорила течение времени. На долю нового, «послеок-|website=texts.news|accessdate=2020-06-06}}</ref>。セルゲイ・ウィッテの首相としての初仕事は、ストーンアイランドにある彼の[[ダーチャ]](別荘)に主だった[[サンクトペテルブルク]]の新聞編集者たちを招き、[[メディア]]に対して[[連立内閣]]の創設をアナウンスすることのはずであった。しかし、彼はあえてそのような危険は避けた。編集者たちはウィッテに対し「政府は信用できない」と述べ、サンクトペテルブルクから[[ロシア帝国軍]]を撤退させることを要求した。 |
2021年6月13日 (日) 10:30時点における版
セルゲイ・ウィッテ内閣 | |
---|---|
ロシア 第1(初)代内閣 | |
成立年月日 | 1905年11月6日 |
終了年月日 | 1906年5月5日 |
組織 | |
元首 | ニコライ2世 |
首相 | 伯爵 セルゲイ・ウィッテ |
閣僚数 | 13 |
詳細 | |
次内閣 | 第1次ゴレムイキン内閣 |
セルゲイ・ウィッテ内閣 は、ロシア帝国において ロシア閣僚会議 の名称で機能した内閣で、セルゲイ・ウィッテの指導のもと、1905年11月6日から1906年5月5日まで続いた[1]。
概要
セルゲイ・ウィッテによる内閣はロシアの歴史において初めての内閣であった。ウィッテが首相就任時に際して皇帝ニコライ2世に対して示した改革案は、民主的な選挙権の行使を通じて選ばれた立法議会(「帝国ドゥーマ」)の創設、市民的自由の付与、 内閣政府と「憲法秩序」の樹立という内容であった[2][注釈 1]。イギリスの歴史家、オーランドー・ファイジズによれば、自由主義改革の政治プログラムを基本に含むこれらの要求は、自由主義者を宥めることによって政治的左翼を孤立させようとする試みであった[2]。ウィッテは弾圧が一時的な解決方法にすぎず、危険なものであることを強調した。というのも、彼は軍隊が、その忠誠心がまさに今問われているのであり、その軍が大衆に向けて使用されたとき、すべてが崩壊する事態さえありうると信じたからであった[2]。皇帝の軍事顧問もほとんどはウィッテに同意した。こうして、ウィッテとアレクセイ・ドミトリエヴィチ・オボレンスキーによって十月詔書が起草された[6]。しかし、皇帝は、元「鉄道書記官」で「実業家」出身の官僚にすぎないセルゲイ・ウィッテによって専制的な統治を放棄するよう強いられたことを恥辱に感じていた[2]。
ウィッテ内閣は短期間であったにもかかわらず、ドゥーマでつくられた非常に多くの重要な国務が執り行われた[7]。セルゲイ・ウィッテの首相としての初仕事は、ストーンアイランドにある彼のダーチャ(別荘)に主だったサンクトペテルブルクの新聞編集者たちを招き、メディアに対して連立内閣の創設をアナウンスすることのはずであった。しかし、彼はあえてそのような危険は避けた。編集者たちはウィッテに対し「政府は信用できない」と述べ、サンクトペテルブルクからロシア帝国軍を撤退させることを要求した。
結果として、ウィッテはロシア社会のリベラルな人びとからの支持と承認を充分に受けることができず、もとよりツァーリからも支持されなかった。ロシア閣僚会議の議長として半年間その職にあったセルゲイ・ウィッテが辞職願を提出したとき、ニコライ2世は簡単にそれを受け取った。
閣僚
役職 | 氏名 |
---|---|
首相 | セルゲイ・ウィッテ |
内務大臣 | ピョートル・ドゥルノヴォ |
大蔵大臣 | イワン・シポフ |
外務大臣 | ウラジーミル・ラムスドルフ |
鉄道大臣 | クラウディ・ネメシャーエフ |
司法大臣 | セルゲイ・マニュキン |
ミハイル・アキモフ | |
軍務大臣 | アレクサンドル・ローデガー |
国家教育大臣 | イワン・トルストイ |
宮廷大臣 | ウラジーミル・フレデリクス |
海洋大臣 | アレクセイ・ビリレフ |
通商産業大臣 | ヴァシーリー・ティミリヤーゼフ |
ミハイル・フェードロフ | |
農業大臣 | ニコライ・クトラー |
アレクサンドル・ニコルスキー | |
国家統制大臣 | ドミトリー・フィロソフォフ |
検察長官 | アレクセイ・オボレンスキー |
脚注
注釈
- ^ ウィッテは、ポーツマス条約交渉から帰国したのち、1905年10月ゼネストなど現下の大混乱のもとでは、ひとつには改革を実行すること、さもなくば、軍人に独裁権をあたえて革命に徹底的な弾圧を加えること、どちらかしかないとニコライ2世に二者択一を迫った[3][4]。後者は実際にロシア国内の極右勢力が主張していた見解だったが、ウィッテ自身は前者を好しと判断していた[3]。ウィッテがこうした思い切った行動に出たのは、複数の政府高官に同調者がいたためであり、なかにはウィッテに改革のための出馬を要請した人物もいたからであった[3]。皇帝は、ウィッテの進言に対して態度を明らかにせず、ウィッテを大臣会議議長(首相)に任命したいという希望を述べた[4]。軍事独裁に関しては、皇帝の従叔父にあたるニコライ・ニコラエヴィチ大公が唯一と言ってよい独裁者候補であったが、革命の動乱を軍事的に鎮圧するには兵力不足であると明言し、候補から降りた[3]。ウィッテは、自分の政治プログラムが承認されるのであれば首相に就任することもやぶさかではないとして、事前に自身の案を審議するための御前会議を開いてほしいと要請し、御前会議ではウィッテの改革案が採択された[4]。しかし、ニコライ2世は裁可せず、当日の夜に皇帝から相談を受けた保守政治家のイワン・ゴレムイキンとアレクサンドル・ブドベルクは若干の修正を加えるよう進言した[4]。それを聞いたウィッテは、無修正での承認でなければ首相就任を引き受けないと宣言した[4]。ニコライ・ニコラエヴィチ大公もまたウィッテ案に賛成し、これに署名しなければ自死すると半ば脅して、署名するようニコライ2世を説得した[4][5]。こうした経緯で、ウィッテがロシア最初の首相となったのである。
出典
- ^ “7 царских председателей Совета министров”. 2020年6月6日閲覧。
- ^ a b c d Figes(2014)p.191
- ^ a b c d 高田(1994)pp.366-369
- ^ a b c d e f 保田(2009)pp.192-196
- ^ Scenarios of Power, From Alexander II to the Abdication of Nicholas II, by Richard Wortman, pg. 398
- ^ 保田(2009)pp.196-199
- ^ “Правительство Витте — Дурново: Революция резко ускорила течение времени. На долю нового, «послеок-”. texts.news. 2020年6月6日閲覧。
参考文献
- 田中陽児・倉持俊一・和田春樹(編) 編『世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)』山川出版社、1994年10月。ISBN 4-06-207533-4。
- 高田和夫 著「第9章 1905年革命」、田中・倉持・和田(編) 編『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社、1994年。
- 保田孝一『最後の皇帝 ニコライ二世の日記』講談社〈講談社学術文庫〉、2009年10月。ISBN 978-4-06-291964-7。
- Figes, Orlando (2014). A People's Tragedy: The Russian Revolution 1891–1924. London: The Bodley Head. ISBN 9781847922915