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[[靖康の変]]の際に、潘氏は側室の身分ではなかったため、[[金 (王朝)|金]]軍の連行を免れ、戦火を逃れて避難した。[[靖康]]2年([[1127年]])5月、高宗が即位すると、皇后に立てようとも考えられたが、[[呂好問]]の諫言のため沙汰やみとなり、賢妃となった。翌月、[[商丘市|商丘]]で[[趙旉]](元懿太子)を産んだ。 |
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太子の薨去後、潘賢妃は[[元祐皇后|元祐太后]]を奉仕することを理由に退かされた。後年、皇宮に召還された。[[紹興 (宋)|紹興]]18年(1148年)、薨去した。 |
太子の薨去後、潘賢妃は[[元祐皇后|元祐太后]]を奉仕することを理由に退かされた。後年、皇宮に召還された。[[紹興 (宋)|紹興]]18年(1148年)、薨去した。 |
2021年7月12日 (月) 20:16時点における版
賢妃潘氏(けんひ はんし、? - 1148年)は、南宋の高宗の妃嬪。
生涯
開封府の人。医師の潘永寿の娘。初め、康王趙構(後の高宗)の側女を務めた。
靖康の変の際に、潘氏は側室の身分ではなかったため、金軍の連行を免れ、戦火を逃れて避難した。靖康2年(1127年)5月、高宗が即位すると、皇后に立てようとも考えられたが、呂好問の諫言のため沙汰やみとなり、賢妃となった。翌月、商丘で趙旉(元懿太子)を産んだ。
太子の薨去後、潘賢妃は元祐太后を奉仕することを理由に退かされた。後年、皇宮に召還された。紹興18年(1148年)、薨去した。
伝記資料
- 『宋史』
- 『靖康稗史箋證』
- 『三朝北盟会編』
- 『宋史記事本末』