コンテンツにスキップ

「イリヤ・オストログスキ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
34行目: 34行目:
1523年、父[[コンスタンティ・オストログスキ|コンスタンティ]]は13歳の息子イリヤの妻に[[イェジ・ラジヴィウ]]の娘アンナ・エルジュビェタを迎えることを決めた。しかしイリヤの許嫁はアンナの妹[[バルバラ・ラジヴィウヴナ|バルバラ]]に変えられ、最後にはイリヤが[[:pl:Beata Łaska z Kościeleckich|ベアタ・コシチェレツカ]]と恋に落ちたため、[[ラジヴィウ家]]との縁組は王の認可のもとに解消された。ベアタは、表向きは国王[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]の愛妾カタジナ・テルニチャンカと夫アンジェイ・コシチェレツキとの間に生まれた娘だが、実の父親は国王ジグムント1世本人だったと言われる。
1523年、父[[コンスタンティ・オストログスキ|コンスタンティ]]は13歳の息子イリヤの妻に[[イェジ・ラジヴィウ]]の娘アンナ・エルジュビェタを迎えることを決めた。しかしイリヤの許嫁はアンナの妹[[バルバラ・ラジヴィウヴナ|バルバラ]]に変えられ、最後にはイリヤが[[:pl:Beata Łaska z Kościeleckich|ベアタ・コシチェレツカ]]と恋に落ちたため、[[ラジヴィウ家]]との縁組は王の認可のもとに解消された。ベアタは、表向きは国王[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]の愛妾カタジナ・テルニチャンカと夫アンジェイ・コシチェレツキとの間に生まれた娘だが、実の父親は国王ジグムント1世本人だったと言われる。


1539年、王女[[イザベラ・ヤギェロンカ|イザベラ]]がハンガリー王[[サポヤイ・ヤーノシュ]]と結婚式を挙げた翌日、イリヤはベアタと[[ヴァヴェル]]で結婚した。この結婚にさいし、イリヤは一族が伝統的に信仰してきた[[正教]]から、[[カトリック教会|カトリック]]に改宗している。結婚式は贅を尽くした豪華なものであり、式次第に則って開かれた[[馬上槍試合]]では、花婿イリヤは皇太子[[ジグムント2世|ジグムント・アウグスト]]と対戦するという栄誉にあずかった。ところがイリヤは落馬して試合に負けてしまい、打ちどころが悪く体は半年も持たなかった。彼は同年の8月15日、この試合で受けた怪我のために没した。結婚してすぐに未亡人となったベアタは、夫の死後に一人娘[[エルジュビェタ・オストログスカ|エルジュビェタ]]を出産した。イリヤの遺言によって、エルジュビェタは皇太子ジグムント・アウグストを後見人とした。
1539年、王女[[イザベラ・ヤギェロンカ|イザベラ]]がハンガリー王[[サポヤイ・ヤーノシュ]]と結婚式を挙げた翌日、イリヤはベアタと[[ヴァヴェル]]で結婚した。この結婚にさいし、イリヤは一族が伝統的に信仰してきた[[正教]]から、[[カトリック教会|カトリック]]に改宗している。結婚式は贅を尽くした豪華なものであり、式次第に則って開かれた[[馬上槍試合]]では、花婿イリヤは皇太子[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント・アウグスト]]と対戦するという栄誉にあずかった。ところがイリヤは落馬して試合に負けてしまい、打ちどころが悪く体は半年も持たなかった。彼は同年の8月15日、この試合で受けた怪我のために没した。結婚してすぐに未亡人となったベアタは、夫の死後に一人娘[[エルジュビェタ・オストログスカ|エルジュビェタ]]を出産した。イリヤの遺言によって、エルジュビェタは皇太子ジグムント・アウグストを後見人とした。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2021年7月17日 (土) 22:02時点における最新版

イリヤ・オストログスキ
Ilia Ostrogski

出生 1510年
死去 1539年8月15日
配偶者 ベアタ・コシチェレツカ
子女 エルジュビェタ
家名 オストログスキ家
父親 コンスタンティ・オストログスキ
母親 タチアナ・アンナ・ホルシャンスカ
宗教 キリスト教正教会カトリック
テンプレートを表示
妻ベアタの肖像

イリヤ・アレクサンデル・コンスタンティノヴィチ・オストログスキウクライナ語: Ілля Костянтинович Острозький; ポーランド語: Ilia Aleksander Konstantynovich Ostrogski1510年 - 1539年8月15日)は、リトアニアルーシ系の大貴族。ブラツラフヴィーンヌィツャ代官を務めた。

生涯[編集]

1523年、父コンスタンティは13歳の息子イリヤの妻にイェジ・ラジヴィウの娘アンナ・エルジュビェタを迎えることを決めた。しかしイリヤの許嫁はアンナの妹バルバラに変えられ、最後にはイリヤがベアタ・コシチェレツカと恋に落ちたため、ラジヴィウ家との縁組は王の認可のもとに解消された。ベアタは、表向きは国王ジグムント1世の愛妾カタジナ・テルニチャンカと夫アンジェイ・コシチェレツキとの間に生まれた娘だが、実の父親は国王ジグムント1世本人だったと言われる。

1539年、王女イザベラがハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュと結婚式を挙げた翌日、イリヤはベアタとヴァヴェルで結婚した。この結婚にさいし、イリヤは一族が伝統的に信仰してきた正教から、カトリックに改宗している。結婚式は贅を尽くした豪華なものであり、式次第に則って開かれた馬上槍試合では、花婿イリヤは皇太子ジグムント・アウグストと対戦するという栄誉にあずかった。ところがイリヤは落馬して試合に負けてしまい、打ちどころが悪く体は半年も持たなかった。彼は同年の8月15日、この試合で受けた怪我のために没した。結婚してすぐに未亡人となったベアタは、夫の死後に一人娘エルジュビェタを出産した。イリヤの遺言によって、エルジュビェタは皇太子ジグムント・アウグストを後見人とした。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]