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「幌別郡」の版間の差分

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2021年9月6日 (月) 10:34時点における版

北海道幌別郡の位置(濃桃:明治期)

幌別郡(ほろべつぐん)は、北海道胆振国胆振支庁にあった

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の登別市にあたる。

歴史

郡発足までの沿革

登別にある刈田神社の歴史は古く、由緒では平安朝のころまで遡ると言われ、当時この地を往来する和人が地元人とともに衣食住の守護神として保食神を奉斎したと伝わる。

江戸時代の幌別郡域は東蝦夷地に属し、松前藩によってホロベツ場所が開かれていた。郡域内の登別温泉は古くから知られ、最上徳内の『蝦夷草紙』にも記されている。陸上交通は、渡島国箱館を基点とし道東千島国方面に至る陸路(札幌本道国道36号の前身)が東西に通じていた。

江戸時代後期、国防のため寛政11年幌別郡域は天領とされたが、文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり南部藩が警固をおこなった。安政4年には近江商人・岡田半兵衛が登別温泉までの道路を開削し、翌5年には滝本金蔵が第一滝本館の前身の温泉宿を建てている。安政6年の6藩分領以降、幌別郡は南部藩領となっていた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年8月15日大宝律令国郡里制を踏襲して幌別郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

北海道一・二級町村制施行時の幌別郡の町村(7.幌別村 青:区域が発足時と同じ町村)

参考文献

関連項目