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表の要目は主に『横須賀海軍船廠史』『帝国海軍機関史』『日本近世造船史明治時代』による。
表の要目は主に『横須賀海軍船廠史』『帝国海軍機関史』『日本近世造船史明治時代』による。
その他の文献による要目は以下の通り。
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*『海軍省報告書』:排水量1,450.46[[英トン]]、垂線間長{{Ft in to m|249|3|precision=2|abbr=on|wiki=on}}<!--m-->、最大幅{{Ft in to m|31|5|precision=2|abbr=on}}<!--m-->、吃水前部{{Ft in to m|13|10|precision=2|abbr=on}}<!--m-->、後部{{Ft in to m|15|1|precision=2|abbr=on}}<!--m-->、速力9.5[[ノット]]、燃料[[石炭]]252英トン<ref name="M14.7-M15.6海軍省報告p31">[[#M14.7-M15.6海軍省報告書]]画像20、艦船製造31頁</ref>
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2021年9月18日 (土) 07:19時点における版

迅鯨
基本情報
建造所 横須賀造船所[1]
艦種 快走御召船[1]
建造費 563,976.168円[2]
母港 横浜(東海鎮守府[3])
艦歴
計画 明治5年工部省計画[4]
起工 1873年9月26日[1]
進水 1876年9月4日[5]
竣工 1881年8月5日[2]
除籍 1893年12月2日第五種編入[4]
その後 1909年1月25日廃船[4]、同年売却[6]
要目(計画)
排水量 1,364.3英トン[7]
または1,450トン[8]
長さ 82.04m[9]
垂線間長 75m[7]
または249 ftin (76.00 m)[8]
最大幅 9.69m[7]
または31 ftin (9.47 m)[8]
深さ 22 ftin (6.81 m)[8]
吃水 平均:4.40m[7]
または13 ft 1+12 in (4.001 m)[10]
あるいは14 ftin (4.45 m)[8]
主機 斜置2気筒レシプロ 1基[11]
推進 外輪[7]
直径:26 ftin (8.15 m)[12]
幅:8 ft 2 in (2.49 m)[12]
車板の数:48枚[12]
車板の面積:200平方フィート
出力 1,450実馬力[7]
または1,400馬力[13]
速力 13ノット[7]
竣工時計画:12ノット[10]
燃料 炭団:252.5英トン[11]
航続距離 燃料消費:30英トン/日、12ノットで45英トン/日[11]
乗員 准士官以上19名、下士29名、火水夫76名[11]
1877年4月10日定員:108名[14]
1883年8月定員:153名[15]
兵装 7.5cmクルップ砲 2門[11]
その他 船材:[1]
艦番号:29(1878年5月8日-)[16]
信号符字:GQCV(1878年5月28日-)[17]
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迅鯨(じんげい)は、日本海軍軍艦[1](ジン)は訓読みで「すみやか」と読み、(ゲイ)は「くじら」と読むが特に雄のくじらを指し、迅鯨は海の王者くじらが疾走するさまを表現したもの[18] [注釈 1]

概要

フランス人技師レオンス・ヴェルニーの設計[19]で、 横須賀造船所で建造、竣工まで8年近くの歳月を要した[18]。 外海用御召艦として設計され室内設備が豪華であり、建造費も高額であった[18]。 例えば御座などで14,490円がかかっている[20]

艦型

2スクーナー型の(木造[1])外輪船[7]、 外海用御召艦[18](快走御召船[1])になる。 艦種は『日本近世造船史』ではヨット[8]、 『Conway』では外輪コルベット(paddle corvette)としている[21]

当初計画では3檣だったが、1876年(明治9年)にチボジエーの進言により2檣に改められた[22]。 見た目の悪さ、中央檣の網具取り付けに外輪が邪魔になる、御座のある部屋の真上に檣がかかる、というのが理由だった[23]

機関

主機は斜置2気筒機械1基[11]。 横置機関とする文献もある[24]シリンダーの直径は58+2/8インチ(1,480mm)、行程は63インチ(1,600mm)[12]。 触面復水器を装備した[12]ボイラーは高円缶4基、蒸気圧力は45ポンド/平方インチだった[11]

改造

1877年(明治10年)12月から試運転が開始されたが[25]、 試運転の際はいつも軸が焼損しており[26]、 軸の過熱を抑えるために回転数は14から15rpm、速力は7から7.5ノット程度しか出せなかった[27]1880年(明治13年)1月23日(または22日[28])には遂にクランクシャフトが切断した[26]。 また機械類の振動が激しく[28]、 艦の動揺が激しい、石炭を260英トン(ほぼ満載)搭載した場合に吃水が計画より500mm以上超過し、外輪が水中に沈むことが多いなどの問題があった[29]。 その他にボイラーで圧力30ポンド/平方インチ(計画は45ポンド/平方インチ)に堪えられる程度の強度しかない部分があるということも判った[11]

吃水の問題は石炭搭載量を180英トン(6昼夜分)に減らし、外輪の幅を減少させることが提案された[29]。 当時イギリスから招いていた造船家フランシス・エルガーや扶桑に同乗して来日していた機関士A・ウィグソル(ウキッゼル)に助言を求めた[26]。 振動などの主な原因は船体強度が弱いことで、その他の改造は費用、年月が掛かる割に効果が少ないと述べた[29]。 そこで船体フレームの改造、機器据え付け部分の補強が行われ[29]、 11月12日に試運転が行われた[30]。 この時は逆風にも関わらず、回転数19から20rpm、速力10.5ノットを出し、一時的には回転数21rpm、速力11.5ノットを出した[30]。 吃水は前部13 ft 9 in (4.191 m)、後部14 ft 6 in (4.42 m)、平均14 ft 1+12 in (4.305 m)で計画の13 ft 1+12 in (4.00 m)より1ft(305mm)深く、排水量を矯正すれば予定の12ノットは達成可能と判断された[10]。 エルガーは更なる改造が必要とし、11月22日に機関の改造命令が出された[31]

1881年(明治14年)2月4日にエルガー立ち会いの元に試運転を行い、前部吃水13 ft 10 in (4.22 m)、同後部14 ft 5 in (4.39 m)で回転数19から20rpm、速力11ノットを測定した[32]。 また帰航のさいは前部吃水13.5ft(4.115m)、後部:14.5ft(4.420m)で回転数23rpm、速力12.5ノットを出したという[33]

要目

表の要目は主に『横須賀海軍船廠史』『帝国海軍機関史』『日本近世造船史明治時代』による。 その他の文献による要目は以下の通り。

  • 『海軍省報告書』:排水量1,450.46英トン、垂線間長249 ftin (75.97 m)、最大幅31 ft 5 in (9.58 m)、吃水前部13 ft 10 in (4.22 m)、後部15 ft 1 in (4.60 m)、速力9.5ノット、燃料石炭252英トン[34]
  • 『Conway』:常備排水量1,465英トン、水線長76m、幅9.75m、吃水4.42m、速力14ノット[21]
  • 『艦船名考』:排水量1,450トン、速力12ノット、馬力1400[1]
  • 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』:小砲4門[18]

艦歴

建造

明治5年4月(1872年5月頃)より設計に着手[35]1873年(明治6年) 9月26日起工[1]。 10月25日、横須賀造船所で新造の300馬力艦を迅鯨と命名[36]1875年(明治8年)6月から翌年4月までは担当フランス人が帰省したため工事が中断した[35]1876年(明治9年) 9月4日進水[37]進水式には東伏見宮彰仁親王が名代とし臨席した[5]。 9月から10月にボイラー、主機等を据え付けた[35]1877年(明治10年)4月から試運転を開始した[35]1878年(明治11年) 2月12日、迅鯨の艦位は4等、定員は107人、員外に2人と定められた[38]1880年(明治13年)1月に函館回航を命じられたため、石炭200英トンを搭載したところ、右舷前部フレームに破損を生じた[39]

改造

#改造を参照。
1881年(明治14年) 3月に艤装工事完了[40]

神戸回航

桂宮病気見舞として東久世議官と山口侍従長が京都出張を命じられたため、(紀伊大島までの[41])試運転を予定していた迅鯨神戸港に回航することになった[42]。 3月7日横須賀港から横浜港に回航、同地で試験官の赤松少将などが乗艦し3月8日横浜を出港した[40]。 9日午後5時頃、紀州沖で機械フレームが損傷しているのが見つかり[40]、 同日(午後9時[43])神戸港に到着[42]、 同地で修理が行われた[40]。 3月22日午前11時30分兵庫を出港したが、翌23日午前8時に左シリンダー内部から異音を発し[43]、 23日急遽鳥羽港に寄港した[40]。 24日同地出港、25日午後2時26分横浜港に帰港[40]、 同日横須賀港に回航した[42]

6月13日横浜から横須賀に回航し[44]、 同地で修理を行った。 7月3日(または7月4日[3])に東北巡幸の御召予備艦に指定されたため[45]迅鯨は8月5日に東海鎮守府へ引渡された[2](竣工[1])。

1881年

東北巡幸

1881年(明治14年) 7月7日、迅鯨は修理出来次第回航と決められた[46]。 7月29日、航海中の実地演習として兵学校の機関生徒13名が迅鯨に乗艦した[47]迅鯨は8月13日横浜港を出港し、8月16日函館港に到着した[48]。 8月22日午後3時[49] 函館を出港し青森港に回航、29日同地を出港し、30日小樽港に入港した[48]。 8月31日小樽発、9月1日函館港着、翌2日室蘭港に回航した[48]。 9月5日青森港に回航、更に函館港に回航した[48]。 9月7日明治天皇を乗せて函館発、青森に到着した[48]。 9月17日青森発、20日横浜港に帰港した[48]

9月29日機関の試運転のために横浜港を出港、10月1日兵庫港に入港した[48]。 10月4日同港を出港し、6日横浜港に帰港した[48]

12月27日迅鯨を御召艦とし、東海鎮守府所轄とした[3]

1882年

沖縄航海

1882年(明治15年) 3月15日横浜港から横須賀港に回航し[48]横須賀造船所で修理を行った[50]。 4月17日横須賀港を出港、翌18日外輪の一部が破損し暫く漂泊した[48]。 また同日夜に米艦と衝突した[48]。 4月19日兵庫港に到着し[48]、 兵庫工作分局で21日から5月3日まで修理を行った[50]。 5月6日兵庫港発、翌7日門司浦着、8日博多湾へ回航、10日長崎港に回航した[48]。 5月13日同港発、15日那覇港に入港した[48]。 5月18日同港発、19日名瀬港に入港した[48]。 5月20日同港発、21日鹿児島に到着した[48]。 5月24日同地発、26日左舷外輪の一部が破損し一時漂泊、5月27日品海に帰着した[48]

迅鯨横須賀造船所1882年(明治15年)8月4日から8月16日まで修理を行った[51]

京城事変

迅鯨は8月20日横須賀港を出港し[52][53]、 8月24日下関に寄港、8月28日仁川港に到着した[52]京城事変に参加[4]。 8月31日仁川を出港し[52]、 9月2日馬関に帰着した[53]。翌3日同地出港、4日兵庫港に入港[52]、 兵庫工作分局で修理を行った[51]。 9月20日同地を出港し、22日横浜港に帰港した[52]

12月7日迅鯨は予備艦とされた[54]

練習艦

1886年(明治19年) 2月25日(1月29日[18])に水雷術練習艦と定められ[11]、 11月に機関を撤去した[11]

1890年(明治23年) 8月23日第三種に定められた[4]

1893年(明治26年) 12月海軍水雷術練習所に充当[11]、 12月2日第五種に編入された[4]

その後

1894年(明治27年) 海軍水雷術練習所付属となる[11] 1896年(明治29年) 4月1日に雑役船に編入された[4]1909年(明治42年) 1月25日に廃船となり[18][4]、 5月12日売却済みの報告が出された[6]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

  • 坪井航三 少佐:1879年2月21日[55] - 8月19日
  • 磯辺包義 中佐:1882年8月3日 - 8月6日
  • 福島敬典 大佐:1882年8月19日 - 12月7日
  • (心得)角田秀松 少佐:1886年2月15日 - 5月10日
  • 森又七郎 大佐:1890年5月13日 - 1891年6月17日
  • 田中綱常 大佐:1891年6月17日 - 12月14日
  • 諸岡頼之 大佐:1891年12月14日 - 1892年11月7日
  • 森又七郎 大佐:1892年11月7日 - 1893年12月2日

脚注

注釈

  1. ^ #M6公文類纂15/迅鯨艦艦号御定では「迅鯨 今般製造ノ三百馬力艦号ニ被定候条相達候事」とあり、 迅の説明で「疾也」「狼子絶有力者曰迅」、 鯨の説明で「雄曰鯨、雌曰鯢、大者長千里眼如(二)名-月珠(一)」 と書かれている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j #浅井(1928)p.48、迅鯨
  2. ^ a b c #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.183
  3. ^ a b c #M14.7-M15.6海軍省報告書画像18、艦船所轄並在任附改称及等級
  4. ^ a b c d e f g h 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史(1994)資料篇p.10、迅鯨
  5. ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.69
  6. ^ a b #M42公文備考20/売却其他処分(3)画像18、横鎮第876号
  7. ^ a b c d e f g h #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.70
  8. ^ a b c d e f #日本近世造船史明治(1973)352-355頁、「艦艇表(計画要領)」
  9. ^ #M10公文類纂前編12/天城艦明細表并入費画像11
  10. ^ a b c #機関史(1975)上巻p.496
  11. ^ a b c d e f g h i j k l #機関史(1975)上巻p.492
  12. ^ a b c d e #機関史(1975)上巻p.493
  13. ^ #日本近世造船史明治(1973)364頁。
  14. ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像26-29、明治10年4月
  15. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.159-161、明治16年8月18日(丙71)迅鯨艦外四艘ノ乗員
  16. ^ #M11公文類纂16/金剛外6艦番号の件他画像1-3
  17. ^ #M11公文類纂前編9/石川丸外5艘信号符字附点の件他画像7
  18. ^ a b c d e f g #銘銘伝(2014)pp.171-172、迅鯨
  19. ^ #日本近世造船史明治(1973)294頁
  20. ^ #M10公文類纂前編12/迅鯨玉座外総額画像4
  21. ^ a b #Conway(1860-1905)p.232
  22. ^ #M9公文類纂11/迅鯨2檣上申画像1
  23. ^ #M9公文類纂11/迅鯨2檣上申画像3
  24. ^ #日本近世造船史明治(1973)p.428
  25. ^ #M10公文類纂後編14/迅鯨艦試運転画像1
  26. ^ a b c #機関史(1975)上巻p.494
  27. ^ #機関史(1975)上巻p.495
  28. ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻pp.146-147
  29. ^ a b c d #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.148
  30. ^ a b #機関史(1975)上巻pp.495-496
  31. ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.170
  32. ^ #M14公文類纂前10/迅鯨艦修復見込画像1-2
  33. ^ #M14公文類纂前10/迅鯨号試運転の結果画像1-2「迅鯨艦試運転乃結果上申」
  34. ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像20、艦船製造31頁
  35. ^ a b c d #M13公文類纂前編12/迅鯨艦履歴調書画像3
  36. ^ #M1-M9海軍省報告書画像43-44、明治6年10月。
  37. ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像4-7、明治9年9月
  38. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像23-26、明治11年2月沿革
  39. ^ #M13公文類纂前編12/迅鯨艦履歴調書画像3-4
  40. ^ a b c d e f #M13.7-M14.6海軍省報告書画像28、艦船航泊表、迅鯨艦
  41. ^ #M14公文類纂前8/往出242迅鯨紀州大島へ画像1
  42. ^ a b c #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.177
  43. ^ a b #M14公文類纂前10/迅鯨艦試運転の件画像3-4、迅鯨艦兵庫港ヘ試航之報告
  44. ^ #M14公文類纂前編9/迅鯨艦入渠画像1、「迅鯨艦入湾乃届」
  45. ^ #M14公文類纂後編8/清輝受取済画像5「東海鎮守府 御巡幸ニ付迅鯨艦 御召豫備艦ニ御定メ相成候ニ付同艦其府所轄ニ附シ候条造船所ヨリ受取方可取計此旨相達候事 明治十四年七月三日 海軍卿」
  46. ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像9、庶務9頁
  47. ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像50-51、学術備考
  48. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #M14.7-M15.6海軍省報告書画像28-29、艦船航海 迅鯨艦
  49. ^ #M14公文類纂後編8/迅鯨艦出艦画像1、明治14年8月22日電報「ジンゲイカンホンジツゴゴサンジシツカンセリ」
  50. ^ a b #M14.7-M15.6海軍省報告書画像21-23、部内艦船修復
  51. ^ a b #M15.7-12海軍省報告書画像17、部内艦船修復
  52. ^ a b c d e #M15.7-12海軍省報告書画像19、艦船航海 迅鯨艦
  53. ^ a b #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/軍艦(4)画像6、舊迅鯨
  54. ^ #M15.7-12海軍省報告書画像11、庶務13頁
  55. ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.128

参考文献

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    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091900。  自明治13年7月至明治14年6月。(国立公文書館)
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    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092300。  自明治15年7月至明治15年12月。(国立公文書館)
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    • 「往入774 天城艦明細表并入費調等の件横須賀造船所進達」『公文類纂 明治10年 前編 巻12 本省公文 艦船部2』、Ref.C09112323200。 
    • 「往入3324 迅鯨艦試運転の件 横須賀造船所届」『公文類纂 明治10年 後編 巻14 本省公文 艦船部』、Ref.C09112510300。 
    • 「往入1421 金剛外6艦番号の件軍務局上申他1件」『公文類纂 明治11年 前編 巻16 本省公文 艦船部1』、Ref.C09112803800。 
    • 「往入1546 石川丸外5艘信号符字附点の件軍務局上申他3件」『公文類纂 明治11年 前編 巻19 本省公文 艦船部4止』、Ref.C09112815000。 
    • 「往入655 迅鯨艦履歴調書造船所進達」『公文類纂 明治13年 前編 巻12 本省公文 艦船部2』、Ref.C09114141300。 
    • 「往出242 造船所達 迅鯨艦試運転として紀州大島へ航行」『公文類纂 明治14年 前編 巻8 本省公文 艦船部1』、Ref.C09114966600。 
    • 「往入1521 造船所届 迅鯨艦入渠」『公文類纂 明治14年 前編 巻9 本省公文 艦船部2』、Ref.C09114997200。 
    • 「往入291 造船所上申 迅鯨号試運転の結果」『公文類纂 明治14年 前編 巻10 本省公文 艦船部3止』、Ref.C09115007000。 
    • 「往入370 ヱルガ-氏通知 迅鯨艦修復見込」『公文類纂 明治14年 前編 巻10 本省公文 艦船部3止』、Ref.C09115007100。 
    • 「往入800 造船所届 迅鯨艦試運転の件」『公文類纂 明治14年 前編 巻10 本省公文 艦船部3止』、Ref.C09115008500。 
    • 「往入1735 鎮守府届 清輝艦造船所より受取済」『公文類纂 明治14年 後編 巻8 本省公文 艦船部』、Ref.C09115247600。 
    • 「往入2128 鎮守府電報 迅鯨艦出艦」『公文類纂 明治14年 後編 巻8 本省公文 艦船部』、Ref.C09115253300。 
    • 「売却其他処分(3)」『明治42年 公文備考 艦船5 巻20』、Ref.C06092165600。 
    • 「除籍艦艇/軍艦(4)」『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日』、Ref.C14010005800。 
  • Rober Gardiner, Roger Chesneau, Eugene Kolesnik ed. (1979). Conway's All The World's Fighting Ships, 1860-1905. (first American ed.). Mayflower Books. ISBN 0-8317-0302-4 
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 横須賀海軍工廠/編『横須賀海軍船廠史』 明治百年史叢書 第170巻、原書房、1973年3月(原著1915年)。 

関連項目