田中綱常
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田中 綱常(たなか つなつね、天保13年11月21日(1842年12月22日) - 明治36年(1903年)3月25日)は、幕末期の薩摩藩士、黎明期の軍人、政治家。栄典は正四位勲三等。最終階級は海軍少将。
経歴
[編集]薩摩藩出身。維新後陸軍に出仕し、1872年(明治5年)準大尉、台湾出兵にて参軍谷干城に随行。
1877年(明治10年)海軍に転じ、大尉。海軍兵学校教務副総裁、海軍省調度局長、兵器製造所長、造兵廠長、技術会議議員、石炭調査員[1]、比叡、迅鯨艦長、呉鎮守府兵営部長をつとめ、1893年(明治26年)少将に至る。
比叡艦長時代、樫野崎にて遭難したオスマン帝国海軍軍艦エルトゥールル乗組員を母国まで送り届け、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世より勲章を下賜された(後述)。
1894年(明治27年)日清戦争にて大本営附。戦後、台湾総督府民生局事務官となり、1895年3月より澎湖列島行政庁長官、1895年5月13日台北県知事を務める。1896年(明治29年)9月11日、貴族院議員に勅選され(貴族院勅選議員)[2]、死去するまで在任した[3]。
日露戦争勃発前の1903年3月25日卒去。享年62歳。墓所は青山霊園1-ロ14-10。正面に右から田中家之墓と書かれた納骨堂の形をした墓で、大正11年に建立された。墓誌はなく綱常以外の被葬者は不明である[4]。
その他
[編集]台湾屏東県枋寮郷にある「東龍宮」には田中が祭神として祀られており、乃木希典、北川直征らとともに、現地住民の信仰の対象となっている。
親族
[編集]• 長女:田中富久 - 1867年~1929年6月30日
樺山喜平次(栃木県足利郡長)妻
- 次女:田中訓 - 1871年9月
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ 『官報』第1393号、明治21年2月24日
- ^ 『官報』第3964号、明治29年9月12日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』135頁。
- ^ 田中綱常から田中将軍への人神変質-日本台湾学会 P53
- ^ 人事興信録第8版
- ^ 「申3号大日記 式部寮達 赤松大丞外5名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09110142400
- ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
- ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
- ^ 『官報』第3861号「叙任及辞令」1896年5月15日。
- ^ 『官報』第3751号「叙任及辞令」1895年12月27日。
参考文献
[編集]- 日本図書センター『明治人名事典Ⅱ上巻』1993年、た-60頁、ISBN 4-8205-2002-4
- 大植四郎編『明治過去帳』第4版、東京美術、1991年。ISBN 4-8087-0119-7。678ページ。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
[編集]軍職 | ||
---|---|---|
先代 松村正命 |
比叡艦長 第14代:1890年2月28日 - 1891年6月17日 |
次代 森又七郎 |
先代 森又七郎 |
迅鯨艦長 第6代:1891年6月17日 - 12月14日 |
次代 諸岡頼之 |
公職 | ||
先代 なし |
澎湖列島行政庁長官 初代:1895年3月-1895年6月5日 |
次代 宮内盛高 (澎湖島庁島司) |
先代 なし |
台北県知事 初代:1895年5月13日 - 1896年4月1日 |
次代 橋口文蔵 |