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'''王 静修'''(おう せいしゅう、{{Lang-zh | t=王靜脩| s=王静修| hp=Wáng Jìngxiū| w=Wang Ching-hsiu| first=t}})は、[[中華民国]]・[[満州国]]の軍人・政治家。別号は'''襄忱'''。 |
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== 事績 == |
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2021年9月28日 (火) 09:30時点における版
王静修 | |
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プロフィール | |
出生: |
1877年3月31日 (清光緒3年2月17日) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府承徳県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王静修 |
簡体字: | 王靜脩 |
拼音: | Wáng Jìngxiū |
ラテン字: | Wang Ching-hsiu |
和名表記: | おう せいしゅう |
発音転記: | ワン ジンシウ |
王 静修(おう せいしゅう、繁体字: 王靜脩; 簡体字: 王静修; 繁体字: 王靜脩; 拼音: Wáng Jìngxiū; ウェード式: Wang Ching-hsiu)は、中華民国・満州国の軍人・政治家。別号は襄忱。
事績
日本に留学して陸軍士官学校第8期を卒業し、帰国後の1914年(民国3年)に保定陸軍軍官学校戦術教官となった。1916年(民国5年)に北京政府で陸軍営長となり、1918年(民国7年)に陸軍参謀、1920年(民国9年)に陸軍第7師長と昇進している。1926年(民国15年)に東三省陸軍講武堂黒竜江分校教育長に任ぜられ、1929年(民国18年)に黒竜江省国防籌備処参謀長となった[1]。
満州事変勃発後、王静修は満州国建国活動に参加し、1932年(民国21年/大同元年)に中央陸軍訓練処処長となった[1]。同年3月9日、満州国が正式に建国されると、翌10日に軍政部次長に任命され[2]、また馬政局局長も兼ねている[3]。1934年(康徳元年)2月28日に軍政部次長を退任し[4]、以後、第5軍管区司令官(1934年11月15日就任)、第1軍管区司令官(1937年6月19日就任)、第6軍管区司令官(1938年12月就任、1939年6月退任)と歴任した[5]。なおこの間の1936年(康徳3年)8月24日には、王殿忠と共に陸軍上将に任命されている[6]。1941年(康徳8年)12月18日に参議府参議に任命され、満州国が崩壊するまでその地位にあった[7]。以後、その行方は不詳である。
注
参考文献
- 『大満洲帝国名鑑』挙国社、1934年。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。