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2021年11月7日 (日) 08:11時点における版
ファイル:SH Lee 1995 stamp of Nicaragua.jpg LGツインズ時代 (1995年) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 大韓民国 |
出身地 | ソウル特別市 |
生年月日 | 1971年3月11日(53歳) |
身長 体重 |
180 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1992年 KBO1次ドラフト |
初出場 |
KBO / 1993年4月10日 NPB / 1998年5月9日 MLB / 2000年6月29日 |
最終出場 |
KBO / 2004年5月 NPB / 1999年10月5日 MLB / 2000年10月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
この表について
|
イ・サンフン (サムソン・リー) | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: |
이상훈 (삼손 리) |
漢字: | 李尚勲 |
発音: |
イサンフン (サムソンリー) |
英語表記: |
Lee Sang-Hoon (Samson Lee) |
李 尚勲(イ・サンフン、朝鮮語: 이상훈、1971年3月11日 - )は、大韓民国・ソウル特別市出身の元プロ野球選手(投手)、ロック歌手、野球指導者、野球解説者。左投げ左打ち。日本球界での登録名は「サムソン・リー(Samson Lee、朝鮮語: 삼손 리)」。
経歴
ソウル高校から高麗大学を経て、1992年の1次ドラフト1位でLGツインズに入団。大学4年の春、成均館大学との試合で14者連続奪三振を記録して、三振が取れる剛球の左腕として注目を浴びた。入団当時、1億8千8百万ウォン(当時のレートで約2000万円)の契約金で、これは当時の史上最高額の新人契約金であった。プロ入団時に選んだ背番号は47で、これは「(当時の)西武の47番をつける左投手(工藤公康)に憧れて」と本人が明かしている。日本とアメリカではチームの事情で他の背番号をつけたものの、韓国では最後までこの背番号を貫いた。
1年目の1993年は9勝9敗を記録するも、8月の中旬で肩を痛めて途中離脱。その後のチームの失速の一因になる。この肩痛は持病である習慣性脱臼によるもので、左腕の血行障害とあわせて何度も彼を悩ませる原因になる。1994年に18勝、1995年に20勝で2年連続で最多勝。1995年の20勝は韓国プロ野球で5年ぶりの記録であった。1996年は、シーズン序盤で肩痛と腰痛でチームから離れた。このため、チーム成績も振るわなくなり、李廣煥(イ・グァンファン)のシーズン途中での監督解任の一因にもなった。1997年には肩痛の影響で1試合で多く投げられないことを受けて抑えに転向して最優秀救援投手を獲得。
1997年のシーズンオフ、当時メジャーで好成績を挙げ始めた朴賛浩(パク・チャンホ)の影響で、球団承認下でポスティングシステムを使ってメジャー移籍を試みる。しかし、当時は韓国プロ野球のレベルについて認識が低く、少なくとも200万ドルの移籍料を期待していた球団側の思惑とは裏腹にボストン・レッドソックスが60万ドルで落札。これを受け、球団はメジャー移籍を諦めさせて、提携関係にあった中日ドラゴンズへの移籍を勧める。メジャー志向が強く、日本移籍には興味がなかったが、「韓国でやりたくないなら、メジャーでも認められている日本で活躍して、そこからメジャーに移籍すればいいじゃないか」という球団の説得を受けて中日移籍を決心したという。
1998年に中日ドラゴンズに入団。宣銅烈・李鍾範と合わせて3人の韓国人選手が在籍したことから三銃士と呼ばれた。しかし上記のメジャー入り騒動で揉めたため契約したのが4月で、キャンプもろくに行っていなかったため打たれることが多く[1]、移籍初登板となった5月9日の対巨人戦(東京ドーム)で元木大介に1ボール2ストライクから投じた5球目を本塁打にされた。元木にはその後も6月6日の試合で1死満塁から走者一掃の三塁打を打たれた。
星野監督からは途中で二軍行きを命じられ、持病の腰痛と血行障害が再発し、1年目は1勝に留まった[1]。
1999年当初は先発だったが、血行障害と大学時代からの持病である習慣性脱臼の影響で、後半から中継ぎに転向し、岩瀬仁紀、落合英二とともに活躍。6勝を挙げてチームのリーグ優勝に貢献。しかし、日本シリーズではひじの故障で出場選手登録から外された。日本シリーズを前にしてマスコミの前で翌年のメジャー挑戦の意向を明らかにした。同年オフに中日を退団し、ボストン・レッドソックスに入団。これで、韓国、日本、アメリカの3か国のプロリーグを経験する選手となった。尚、李より前にスコット・クールボー、後にフリオ・フランコ、具臺晟、高津臣吾らも経験している。
2000年に、中継ぎとしてメジャー昇格を果たして登板機会も得るが結果が出せず、2002年シーズン開幕前、同チームからウェイバー公示にかけられてオークランド・アスレチックスの3Aチームに移籍。だが、当時のアスレチックスはメジャーでも1・2を争う強力投手陣を擁しており、メジャーへの昇格がほぼ絶望的な状況で、古巣のLGツインズからの要請を受けて復帰した。最初から韓国復帰の時には無条件で元の所属チームに復帰することを前提として海外移籍を容認したことで他のチームに行くことはできなかった。
同年はシーズン途中からの出場でありながら、7勝2敗18セーブ、防御率1.68でチームの韓国シリーズ進出の立役者になるも、2勝3敗で迎えたシリーズの第6戦、3点リードの9回裏に登板して、李承燁に同点の3ランホームランを打たれ降板。そして、彼の後を継いで登板した崔元豪(チェ・ウォンホ)がすぐさま馬海泳(マ・ヘヨン)にサヨナラホームランを打たれ、チームはそのまま敗退。韓国シリーズでのサヨナラ負けは史上初の出来事でもあった。
翌2003年4勝4敗30セーブの成績を挙げたが、球威の低下によって、救援失敗も増えてきて防御率は3.34と昔のような安定感は失っていた。このような危惧の中で迎えた2004年のキャンプで、趣味である音楽活動(正確にはキャンプへのギターの持ち込み)を巡って監督と対立。その結果としてSKワイバーンズにトレードされるも、不調によりシーズン途中の6月7日に引退してロック歌手へ転向し、「WHAT!」というバンドのギタリストとして韓国で活動していた[1]。またソウルで理髪店などを経営していた。
金髪と長髪が特徴だったが、2012年秋、LG在籍時の監督だった金星根の誘いで独立球団高陽ワンダーズの投手コーチに就任した際に剃った。ワンダーズの解散に伴い、2015年は斗山ベアーズの二軍投手コーチを務め、2016年より古巣LGツインズの二軍・三軍の投手アカデミーの担当となり、2018年に退任した。
2019年より韓国のスポーツテレビ局の野球解説委員として活動している。
「サムソン(Samson)」という彼のニックネームは、投手陣の大黒柱としてチームを支えてきたのが、旧約聖書の登場人物の一人である長髪の士師のサムソンを連想させることで韓国のスポーツ紙によりつけられた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 | LG | 28 | 24 | 7 | 3 | -- | 9 | 9 | 0 | -- | .500 | 635 | 150.2 | 129 | 10 | 75 | 1 | 3 | 131 | 3 | 2 | 65 | 63 | 3.76 | 1.35 |
1994 | 27 | 27 | 6 | 2 | -- | 18 | 8 | 0 | -- | .692 | 754 | 189.2 | 140 | 9 | 57 | 1 | 7 | 148 | 2 | 2 | 58 | 52 | 2.47 | 1.04 | |
1995 | 30 | 29 | 12 | 3 | -- | 20 | 5 | 0 | -- | .800 | 867 | 228.1 | 150 | 12 | 48 | 1 | 3 | 142 | 4 | 2 | 61 | 51 | 2.01 | 0.87 | |
1996 | 41 | 4 | 0 | 0 | -- | 3 | 3 | 10 | -- | .500 | 401 | 99.1 | 70 | 8 | 37 | 4 | 5 | 95 | 2 | 1 | 32 | 28 | 2.54 | 1.08 | |
1997 | 57 | 0 | 0 | 0 | -- | 10 | 6 | 37 | -- | .625 | 336 | 85.1 | 56 | 6 | 25 | 5 | 2 | 103 | 0 | 0 | 23 | 20 | 2.11 | 0.95 | |
1998 | 中日 | 11 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 143 | 32.2 | 32 | 6 | 12 | 0 | 1 | 33 | 0 | 1 | 22 | 17 | 4.68 | 1.35 |
1999 | 36 | 9 | 2 | 0 | 0 | 6 | 5 | 3 | -- | .545 | 377 | 95.1 | 75 | 8 | 30 | 1 | 4 | 65 | 2 | 1 | 30 | 30 | 2.83 | 1.10 | |
2000 | BOS | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 49 | 11.2 | 11 | 4 | 5 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3.09 | 1.37 |
2002 | LG | 52 | 0 | 0 | 0 | -- | 7 | 2 | 18 | 0 | .778 | 343 | 85.2 | 53 | 8 | 30 | 9 | 3 | 92 | 2 | 0 | 18 | 16 | 1.68 | 0.97 |
2003 | 55 | 0 | 0 | 0 | -- | 4 | 4 | 30 | 0 | .500 | 233 | 56.2 | 42 | 4 | 21 | 4 | 0 | 55 | 1 | 0 | 22 | 21 | 3.34 | 1.11 | |
2004 | SK | 18 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 3 | 3 | 1 | .000 | 61 | 14.0 | 11 | 2 | 9 | 1 | 0 | 15 | 0 | 0 | 8 | 8 | 5.14 | 1.43 |
KBO:8年 | 308 | 84 | 25 | 8 | -- | 71 | 40 | 98 | 1 | .640 | 3630 | 909.2 | 651 | 59 | 302 | 26 | 23 | 781 | 14 | 7 | 287 | 259 | 2.56 | 1.05 | |
NPB:2年 | 47 | 14 | 2 | 0 | 0 | 7 | 5 | 3 | -- | .583 | 520 | 128.0 | 107 | 14 | 42 | 1 | 5 | 98 | 2 | 2 | 52 | 47 | 3.30 | 1.16 | |
MLB:1年 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 49 | 11.2 | 11 | 4 | 5 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3.09 | 1.37 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
2000 | BOS | 9 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1.000 |
MLB | 9 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1.000 |
タイトル
- KBO
- 最多勝:2回 (1994年、1995年)
- 最多セーブ:1回 (1997年)
表彰
- KBO
- ゴールデングラブ賞:1回 (1995年)
記録
- NPB
- 初登板:1998年5月9日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回裏に3番手で救援登板・完了、1回1失点
- 初奪三振:1998年5月16日、対横浜ベイスターズ5回戦(ナゴヤドーム)、9回表に進藤達哉から
- 初先発・初勝利:1998年8月12日、対阪神タイガース22回戦(ナゴヤドーム)、6回無失点
- 初完投:1999年5月8日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、8回4失点で敗戦投手
- 初セーブ:1999年7月7日、対読売ジャイアンツ15回戦(札幌市円山球場)、9回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初登板で対戦した第1打者に被本塁打:1998年5月9日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回裏無死に元木大介に左越ソロ ※史上45人目(セ・リーグ19人目)
背番号
- 47 (1993年 - 1997年、2002年 - 2004年、2013年 - 2014年、2016年 - 2018年)
- 17 (1998年 - 1999年)
- 40 (2000年)
- 85 (2015年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 〔インタビュー〕元中日の李尚勲 ロッカーとして5年(中央日報)