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*1939年夏、渡日。[[日本大学]][[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|専門部芸術科]]映画専攻科に編入学し、中退。[[中央大学]][[中央大学法学部|法学部]]卒業。[[アテネフランセ]]、[[太平洋美術学校]]などでも学ぶ。 |
2021年12月14日 (火) 09:29時点における版
許 南麒(허남기、ホ・ナムギ、きょ・なんき、1918年6月24日 - 1988年11月)は、在日韓国・朝鮮人の詩人。朝鮮語と日本語の両方で作品を発表。日本語で書いた叙事詩「火縄銃のうた」で有名。在日本朝鮮文学芸術家同盟委員長、朝鮮総聯中央副議長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員。
来歴
- 1918年6月24日、慶尚南道東萊郡亀浦面で生まれた。
- 1931年、亀浦普通学校卒業、釜山第二商業学校入学。
- 1939年夏、渡日。日本大学専門部芸術科映画専攻科に編入学し、中退。中央大学法学部卒業。アテネフランセ、太平洋美術学校などでも学ぶ。
- 1942年、証券会社に就職。
- 1945年秋から1960年頃までの間、朝鮮語とともに日本語の詩作を並行してやっていた。日本語における詩作は、文学的な観点よりも、日本人に対するメッセージを主たる目的としていた。
- 1946年、川口の朝聯学園(川口朝聯小学校)校長に就任。
- 1951年、神奈川朝鮮人中学校教務主任に就任。
- 1952年5月、血のメーデー事件で死亡した近藤巨士のために「近藤君にささげる五月のうた」を作る。
- 1952年、関根弘、長谷川龍生、黒田喜夫、菅原克己らの詩誌『列島』創刊時に編集委員として参画。
- 1956年、朝鮮大学校講師に就任。
- 1959年6月、在日本朝鮮文学芸術家作家同盟(文芸同)初代委員長に就任。
- 1960年代以降、日本語での執筆は殆どなくなる。
- 1965年、総聯中央文化部長に就任。
- 1966年、総聯中央常任委員会副議長に就任。
- 1977年、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員に当選。
- 1988年11月、死去。
主な著書
詩集
- 『日本時事詩集』(朝日書房、1952年)
- 『詩集 朝鮮冬物語』(青木書店、1952年)
- 『火縄銃の歌』(青木書店:1951年、青木文庫:1952年)
- 『巨済島』(理論社、1952年9月)
- 『許南麒詩集』(東京書林、1955年7月)
- 『朝鮮海峡』(国文社、1959年)
- 『許南麒の詩』(同成社、1979年10月)
- 「誓い――故イォシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリン首相に捧ぐ」『スターリン讃歌』(理論社、1954年3月)所収
翻訳
- 『朝鮮はいま戦いのさ中にある』(三一書房、1952年2月)
- 趙基天『長篇叙事詩集 白頭山』(ハト書房、1952年4月)
- 『春香伝』(岩波文庫、1956年7月)
- 『現代朝鮮詩選』(朝鮮文化社、1960年9月)
- 趙基天『長篇叙事詩集 白頭山』(太平出版、1974年2月)
参考書
- 『新日本文学』2003年5・6月号 特集〈在日〉作家の全貌―94人全紹介
- 川村湊『生まれたらそこがふるさと』(平凡社、1999年9月)
- 『在日コリアン詩選集』(土曜美術社出版販売、2005年5月)
- 孫志遠『鶏は鳴かずにはいられない』(朝鮮青年社、1993年10月)