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日蓮滅後に日蓮の遺言として「佛は釈迦立像
日蓮滅後に日蓮の遺言として「佛は釈迦立像
墓所の傍らに立て置くべし云々」{{Sfn |『宗祖御遷化記録』御所持佛教の事(国指定重要文化財指定) | 弘安5年(1282年)10月16日 | 西山本門寺蔵 }}
墓所の傍らに立て置くべし云々」{{Sfn |『宗祖御遷化記録』御所持佛教の事(国指定重要文化財指定) | 弘安5年(1282年)10月16日 | 西山本門寺蔵 }}
と定められ、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、遺言に背き勝手に持ち(奪い)去っている。{{Sfn |『原殿御返事』 | 正応元年(1288年)12月16日 |『日蓮正宗聖典』p = 557 }}{{出典無効|date=2019-08-29 |title=『原殿御返事』には、「日朗が釈迦立像を持ち去った」とは書いていない。}}
と定められ、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、遺言に背き勝手に持ち(奪い)去っている。{{Sfn |『原殿御返事』 | 正応元年(1288年)12月16日 |『日蓮正宗聖典』p = 557 }}
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1282年(弘安5年)[[池上宗仲]]の協力のもと、'''[[池上本門寺]]'''の基礎を築いた<ref>[https://honmonji.jp/outline/engi.html 縁起] 池上本門寺公式ホームページ</ref>。1309年(延慶2年)[[千葉胤貞]]の妻より、土地の寄進を受け、[[本土寺]]を建立する。1320年(元応2年)[[安国論寺]]にて荼毘に付され、[[法性寺 (逗子市)|法性寺]]に葬られた。
1282年(弘安5年)[[池上宗仲]]の協力のもと、'''[[池上本門寺]]'''の基礎を築いた<ref>[https://honmonji.jp/outline/engi.html 縁起] 池上本門寺公式ホームページ</ref>。1309年(延慶2年)[[千葉胤貞]]の妻より、土地の寄進を受け、[[本土寺]]を建立する。1320年(元応2年)[[安国論寺]]にて荼毘に付され、[[法性寺 (逗子市)|法性寺]]に葬られた。

2022年1月22日 (土) 01:19時点における版

日朗
1245年 - 1320年
筑後房
諡号 日朗菩薩(後光厳天皇より)
生地 下総国
没地 武蔵国
宗派 日蓮宗
寺院 池上本門寺
日蓮
弟子 日輪日印日像
安国論寺法性寺
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日朗(にちろう、寛元3年4月8日1245年5月5日(ユリウス暦)) - 元応2年1月21日1320年3月1日(ユリウス暦))は、鎌倉時代日蓮宗法華宗。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国

略歴

1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る[注釈 1]。 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた[2]。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立する。1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。

日朗ゆかりの寺

四長四本(本山)

弟子・日印の開山で山吉氏が建立した青蓮華寺に、初祖となることを承諾し、長久山本成寺という名を与えている。

日朗の弟子

脚注

注釈

  1. ^ 赦免状を携えて渡佐したことに対し、日蓮正宗は、これを伝説と位置付け「公の文書を流罪者の弟子に託すことはありえない。やはり幕府の役人が届けたであろう。」としている。[1]

出典

  1. ^ 阿部日顕 1981, p. 258.
  2. ^ 縁起 池上本門寺公式ホームページ

参考文献

  • 『日蓮大聖人正伝』阿部日顕(監修)(初版)、日蓮正宗総本山大石寺、静岡県富士宮市上条2057、1981年10月13日。ASIN B000J7P05ONCID BA39623027