「ファラオ」の版間の差分
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[[ファイル:Pharaoh_with_double_crown.svg|右|サムネイル|一般的なファラオの絵画。二重冠をかぶり、手には権力を象徴するウアス杖を持った。]] |
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{{Expand English|Pharaoh|date=2020-11-03}} |
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'''ファラオ'''([[英語|英]]: Pharaoh)とは、[[古代エジプト]]の王を指す称号である。この語は第18王朝の[[トトメス3世]]の時代に使われ始めたものである{{Sfnp|ニッポニカ|2014}}{{Efn|メルエンプタハの治世という説もある。}}が、近代では全ての時代で、エジプトを支配した王を一般的に表す。 |
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{{複数の問題|出典の明記=2011年5月|独自研究=2020年11月<!--|未検証=2021年10月-->}} |
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[[File:Pharaoh.svg|thumb|ファラオ(新王国時代の墓の壁画に基づく画)]] |
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'''ファラオ'''({{lang-en|Pharaoh}}, [[コプト語]]: {{Script/Coptic|ⲡⲣ̅ⲣⲟ}})は、[[古代エジプト]]の[[君主]]の[[称号]]。しばしば[[王]]と和訳される。 |
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ファラオは、古代エジプト人の秩序観で美術・文学・宗教と並んで欠かすことのできない中心的要素を構成しており{{Sfnp|スペンサー|2009|p=90}}、古代エジプトの国家において政治的・宗教的にどちらも最高の権力を有していた{{Sfnp|Mark|2009}}。これは、ファラオの「二つの土地の所有者」と「すべての神殿の最高司祭」という称号に表れている{{Sfnp|Mark|2009}}。 |
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== 概要 == |
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古代エジプトの君主の称号〈[[君主号]]〉。神権皇帝。古代エジプト語の「ペル・アア」が語源である。[[旧約聖書]]では「パロ」([[文語訳聖書]]、[[口語訳聖書]]、[[新改訳聖書]])もしくは「ファラオ」([[新共同訳聖書]])という転写で登場。[[クルアーン]]では「フィルアウン」として出てくる。豊かなナイル川流域を母体とするエジプト文明の頂点に立つ存在がファラオであり、王であると共に現人神としても扱われ、絶大な権力を持つ。 |
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政治的には、名目上エジプトのすべての土地を所有し、法律を制定し、税金を徴収し、軍の最高司令官として国家を侵略者から守る役割を果たしていた{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=24-25}}{{Sfnp|Natgeo|2019}}{{Sfnp|Mark|2009}}。ファラオは上下エジプトの統合の象徴である二重冠をかぶり、全エジプトを代表する存在とされた。 |
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ペル・アア(pr aA)とは、大きな家という意味であり、王宮そのものを表す言葉であったが、転じて王宮に住む者、つまり王を意味するようになった。第18王朝の[[トトメス3世]]が王をさすことばとして用いて以来、それが習慣化した。[[ヘブライ語]]で書かれた[[旧約聖書]]においては「パロ(par‘ōh)」、[[プトレマイオス朝]]などの[[ギリシャ語]]では「ファラオ(pharaō)」で、ギリシャ語を経てヨーロッパ諸語に伝わった。トトメス3世以前の古王国時代や中王国時代の支配者もこの称号で呼ばれている。王は五つの称号(誕生名、即位名、黄金のホルス名、ネブティ名(二女神名)、ホルス名)をもっていて、そのなかの個人に関係する二つの称号(即位名、誕生名)は[[カルトゥーシュ]](楕円形の枠でひもで囲った形をしており、王を霊的に守護する役割がある)の中に記された。 |
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また宗教的には、ファラオは儀式を主催し、神々を祭る神殿を建築した{{Sfnp|Mark|2009}}。また、王は世界を創造し、宇宙の秩序マアトを定め、これを維持してエジプトの繁栄を保証する神ラーの化身とされた。ファラオは現人神として、神と人々の間の仲介者と見なされていた{{Sfnp|Natgeo|2019}}。現世において神の化身であった王は、死後は神々の一員に加わり永遠の生命を得るなど、数々の特権を有していた。 |
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ファラオという地位の概念も時代を追う毎に変化を続け、次第に神格化していきホルス神の化身であるとされるようになった。この考えは[[エジプト第5王朝|第5王朝]]以降には太陽神[[ラー]]の息子であるとされるようになった。 |
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この項目では、「ファラオ」という言葉が指し示す対象である、'''古代エジプトの王'''について包括的に記述する。 |
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{{要出典範囲|date=2020年11月|なお、1世紀頃のローマ帝国では「エジプトの『ファラオ』は初代の王の名前でこれを代々襲名している」という俗説があったらしく}}、ヨセフスはこれについて『ユダヤ古代誌』第VIII巻6章2節で「ファラオはエジプトの言葉で王や王権を意味する」、「即位前は各王は個人名がちゃんとあって即位後にファラオと呼ばれる」、「(初代王の襲名自体は珍しいことではなく)アレクサンドリアの王(プトレマイオス王朝のこと)も即位すれば初代同様プトレマイオス、ローマ皇帝も即位すればカエサルと呼ばれ元の名前では呼ばれなくなる」と説明している<ref>フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌3 旧約時代編[VIII][XI][XI][XI]』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08533-5、P58-59。</ref>。 |
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== 語源 == |
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[[セベクネフェル]]、[[ハトシェプスト]]、[[クレオパトラ7世]]などのわずかな例外を除き、男性である(そのクレオパトラ7世も男性ファラオとの共同統治であり、厳密には単独のファラオではない。なお、ハトシェプストは単独統治を行ったことがはっきりと確認できる唯一の女王である)。基本的に[[王位継承|継承権]]はファラオの娘である第一王女にあり、その夫が次代のファラオとされていたが20世紀初頭の研究により王子に継承権があったと思われる<ref>{{Cite web|title=【女性】古代エジプトの女王と王妃たち(付:年表)|url=https://ch-gender.jp/wp/?page_id=4783|website=比較ジェンダー史研究会|accessdate=2020-11-20|language=ja}}</ref>。通常は第一王子が次代のファラオになる。近親婚が好ましいとされた時期があり第一王子の王位継承を正当化するために、王位継承者である王子は、第一王女を妻に娶った。またこれは[[神話]]に基づく面もあった([[オシリスとイシスの伝説]]参照)。必ずしも[[近親交配]]により子をなした訳ではなく、多くのファラオは側室を娶って子をなした(クレオパトラ7世が正式には弟と結婚していながら、[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]や[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]の愛人であった事も、兄弟婚が形式であった事を裏付けている)。しかしながら本当に近親交配を行い子供を産み、王位を継承した例もある事が、近年の遺伝子研究により解明されている(例:[[エジプト第18王朝]]) |
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{{hiero|ペル・アア<br/><small>翻字</small>:''pr-aA''<br/><small>翻訳</small>:大きな家|<hiero>pr:aA</hiero>|era=nk|align=left}} |
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「ファラオ」という言葉は「大きな家」を意味する語ペル・アアがギリシャ語化したものである{{Sfnp|松本|1994|p=237}}。 |
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初期王朝時代には、王はホルス名で記されたが、その名前はホルスである王が王宮で健康に暮らしていることを示すため、王宮を表す枠(セレク)で囲われた。ここより、王宮そのものも王に敬意をしめすのに都合のよい呼び名とされるようになった。この意義より転じて、王が「ペル・アア」と呼ばれるようになるのは新王国時代だと言われる{{Sfnp|スペンサー|2009|p=90}}。 |
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[[ファイル:Tut cartouche infofocalpoint.svg|200px|サムネイル|ツタンカーメンのカルトゥーシュ]] |
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王の地位は天空の神ホルスによって与えられ、のち太陽神ラーの子と考えられた。王は最高神官であると同時に最高軍司令官でもあり、理念上はすべての人民と土地を所有した。神の地上における化身と看做されたファラオは、この神性をよりどころに、神々と人間社会とを結ぶ存在として人間社会を含む全宇宙の調和ある秩序を保持する任務を課せられ、政治、経済、社会、文化、宗教のすべてを自らの手で動かすことを建前とする高度に組織化された中央集権国家に君臨した<ref>https://kotobank.jp/word/ファラオ-122393</ref>。 |
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時代が下り、ギリシャ人と交流を始めた末期王朝時代以降では、エジプトにおいて王を指す一般的な語が「ペル・アア」であったため、より全時代的な王の名称「ネスウト(nswt. 王そのものを示す){{Efn|なお、王を指す"nswt"はもともと上エジプト王単体を指している言葉である。それが王という一般名称に発展したのは、最初のエジプト全土を統一したのが上エジプト出身の王であったからではないかと、{{Harvtxt|松本|1994}}は推測している{{Sfnp|松本|1994|p=142}}。}}」ではなくペル・アアが輸入されたと考えられる{{Sfnp|松本|1998|p=14}}。 |
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一般的に「[[エジプト古王国|古王国]]時代」「[[エジプト中王国|中王国]]時代」「[[エジプト新王国|新王国]]時代」と呼ばれる期間は比較的王権は安定し、神殿の建造及び[[シリア]]や[[ヌビア]]、[[リビア]]などへの遠征も盛んにおこなわれ、ファラオの権威は高く保たれ、反乱や僭称者も少なかった。しかし、ファラオの王権は時として必ずしも安定的な王位であるとは言えず、古王国時代の後の「[[エジプト第1中間期|第1中間期]]」、中王国時代の後の「[[エジプト第2中間期|第2中間期]]」、新王国時代の後の「[[エジプト第3中間期|第3中間期]]」及び「[[エジプト末期王朝|末期王朝]]」の時代にはファラオの王権は揺らいだ。 |
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== 王権 == |
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古代エジプトにおいて、王とは「良き神{{Efn|翻字は"nfr-nTr"であり、nfrの意味にbeautiful/good/perfectと揺れがあり、「完璧な神」と訳される場合もある{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=169}}}}」として神の化身とされた。この神権をもって王は強力な中央集権国家に君臨し、この「神王理念」は王朝時代を通じて常に維持された{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}が、しかし時代とともに変化が見られた。この節では、主に時代ごとのファラオが持つ王権について解説する。 |
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=== 黎明期 === |
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[[File:Pa Skhemti.png|thumb|プスケント]] |
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[[ファイル:Jar,_Egyptian,_Predynastic_period,_Naqada_II-III_period,_c._3500-3100_BC,_terracotta_-_Middlebury_College_Museum_of_Art_-_Middlebury,_VT_-_DSC08058.jpg|右|サムネイル|ナカダIII期の土器]] |
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{{節スタブ}} |
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上下エジプトでは、ナカダI期に住居の大型化および分業体制の成立、II期に集落から町への発展があった。ナカダII期に形成された集落はその後の州([[ノモス (エジプト)|ノモス]])の原型となるが、このとき交易も活発化しており、メソポタミア方面より文化が流入した。さまざまな証拠により、{{Harvtxt|川村|1969}}は先進的なメソポタミアの文化要素が、ナイル川流域で蓄積された文化に強い刺激を与え、エジプト王朝文化成立に大きな力になったと見ている{{Sfnp|川村|1969|pp=50-53}}。 |
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ファラオは神権により支配した。名前の一部には[[ホルス]]、[[セト]]といった神の名前が含まれ、ファラオの関係している神や、その神官グループとの繋がりを示す。 |
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この文化的素地に加え、ナカダI期末に起こった気候の悪化は権力が町の代表者に集中する要因となった。気候的変化は、気温の上昇とナイル川の水位低下をもたらし、成長した町の大きな脅威となった氾濫後の土地をできるだけ有効活用するためには、大規模な事業を起こし、組織的に水の管理が行わなければならなかった。そのため、広範な共同体が一致して行動し、責任ある王のもとで運河を開通させるなどの対応が必要であったのである{{Sfnp|川村|1969|pp=50-53}}。 |
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ファラオは公式の場では冠をかぶり、普段は[[ネメス (頭巾)|ネメス]]と呼ばれる頭巾をつけていた。ただしネメスは王族以外でも着用されていた。 |
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前40世紀末ごろには、ナイル川流域の上エジプト王国とデルタ地帯の下エジプト王国による国土二分状態が発生する{{Sfnp|屋形|1969|p=57}}。なお、一貫的に統一しやすい条件を持った上エジプトに比べ、分散的なデルタ地帯(下エジプト)は統一が遅れていたようである{{Sfnp|川村|1969|pp=50-53}}。しかしながら、紀元前31世紀ごろ、ナルメル王によって上下エジプトが統一され、統一国家が成立した{{Sfnp|松本|1994|p=152}}{{Sfnp|川村|1969|pp=50-53}}。 |
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肘を曲げ手首を胸に置いて腕を交叉させるのがファラオを象徴するポーズであり、通常ファラオの[[ミイラ]]はこの格好をしている。 |
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結論として、エジプトでは農耕を始めた時より常にナイル川の氾濫が生活に密接に関係しており、労働力を集中的に行使するため、強大な権力と責任のある王のもとでの統一国家の成立が必要であったと考えられている{{Sfnp|川村|1969|pp=50-53}}。 |
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なお、ファラオの被る冠([[プスケント]])あるいは頭巾([[ネメス (頭巾)|ネメス]])は上下エジプト統一の象徴であり、コブラが下エジプト、ハゲタカが上エジプトを意味する二重冠である。また、王の称号としては、ホルス名、ネブティ名、太陽の子名、上下エジプトの王名、黄金のホルス名があり,ファラオは上エジプトの白冠、下エジプトの赤冠、両者を組合せた二重王冠、青冠、ネメスという独特のかぶりものをつけ、手には上下エジプトを象徴する王笏を持った。 |
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=== 初期王朝 === |
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==前近代のイスラーム教徒のファラオ観== |
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[[ファイル:Narmer_Palette,_Egypt,_c._3100_BC_-_Royal_Ontario_Museum_-_DSC09728.JPG|左|サムネイル|292x292ピクセル|ナルメルのパレット。]] |
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[[ナルメル]]王によって上エジプト王国による下エジプト王国の征服が完了する。なお、有名なナルメルのパレットはこのことを記念して奉納されたものとみられている。パレットには、上エジプトを象徴する白冠と下エジプトの赤冠をそれぞれ着用したナルメルが描かれ、ナルメルが両国の王となったことを表している。ところで、{{仮リンク|アビドス王名表|en|Abydos King List}}の一番目に書かれている王名は「メニ{{Efn|翻字ではmn:n-iで、「永続する者」と訳される{{Sfnp|Lundström|2011}}。ギリシャ名メネス。}}」であるが、これをナルメルに推定する説が主流である。よって以下ではメニとナルメルは同一人物として記述する{{Efn|メニをアハ王に推定する説もある。}}。ナルメルは統一王国の首都として、上下エジプトの境界にある[[メンフィス (エジプト)#古王国|イネブ・ヘジュ]](白い壁とも。現メンフィス)を建設した。 |
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このような連合国家においては前述した灌漑水路の統制権力を通じて、王権が形成されたと言えるが、実際には主として宗教的権威が強かったようである{{Sfnp|屋形|1969|pp=57-60}}。すなわち王は王家の出身地ティニス地方の守護神である鷹神[[ホルス]]の化身とされていた{{Sfnp|松本|1994|p=91}}。同様の鷹神は下エジプトにおいても信仰されていたため、征服された側の下エジプトにも容易に受けいれられたようである{{Sfnp|屋形|1969|pp=57-60}}。 |
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[[File:Flickr - schmuela - Serekh.jpg|thumb|200x200px|セレクとその上に止まるホルス]] |
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この鷹を王は宮殿を模した枠であるセレクの上に配置した。これが「[[ホルス名]]」である。 |
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[[File:Nebty hieroglifo.jpg|thumb|150x150px|壁に刻まれたネブティ名の冒頭]] |
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さらに、王国の統一を記念して王の第二名である「[[ネブティ名]]」が加えられる。これは二柱動物化した女神からなり、それぞれが上下エジプトの象徴となっているため、王が両方の土地の守護神の化身であることを示したものである{{Sfnp|屋形|1969|pp=57-60}}。 |
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しかしながら、[[エジプト第1王朝|第1王朝]]5代[[デン|デン王]]の時に「上下エジプト王名(即位名)」が王の称号に加えられたことにより王権は一度強く変革する。ここでは、王はすでに神の化身とはみなされていない{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。ここでは、王は上エジプトと下エジプトの「所有主」とされており、ここにて王は神の化身としての宗教的権威に加え、国土の所有者であるというより現実的な「政治的権威」をも持ち合わせた{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。さらに、王位更新祭({{仮リンク|セド祭|en|Sed Festival}})を慣例に反して{{Efn|もともとは王の在位期間は30年に限られ、それが過ぎるとこのセド祭において殺されていたようである。しかし、神王理念により王はここで新たに戴冠式を行い、王としての新たな活力を得て再生するとされた。なお、慣例に反して30年未満の治世でセド祭を実行することはのちの王にも見られる。}}王主導で実行するなど、王の現実的権威が確立され、神王の理念が発展したと言える{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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この後王朝は[[エジプト第2王朝|第2王朝]]へと推移するが、ここで一つの王権にまつわる出来事が発生する。[[セト・ペルイブセン]]王の登場である。 |
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[[ファイル:Peribsen.png|左|サムネイル|211x211ピクセル|セト・ペルイブセン王の名前。ホルスではなくセトが配置されている。]] |
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この王は、初期段階はホルス名セケムイブを用いていたが、治世の途中にホルスではなく、戦神[[セト]]をセレクの上に置き(いわゆる「セト名」)ペルイブセンと名乗った。この理由については推測の域を出ないが、現実的な王権に対する上エジプトの伝統主義者による反動と見做せる。なぜならば、セトはもともと上エジプトのオムボスの神であり、上エジプトの首長たちがペルイブセン王を擁立して前時代的王権への復帰を画策したものと考えられる。しかしながら次王のカァセケムウィはホルスとセトを同時にセレクの上におき、セトの優位性が薄れた{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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その後古代エジプト文明を通じて、セト名を用いた王は一人もいないことより、王権の変化を目指す試みは失敗したようである{{Efn|セト名を用いた王はいないが、セトを守護神にしたり、セトを名前の要素に用いた王家は存在する。例えば、第20王朝にはセティと言う名の王が2名存在し{{Sfnp|松本|1998|p=228}}、第21王朝の始祖はセトナクト(セト神は力強い)である{{Sfnp|松本|1998|p=255}}。}}。 |
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=== 古王国 === |
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==== 前期 ==== |
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第2王朝末期のセト信仰とホルス信仰の争いはホルス信仰が勝利をおさめ、神王理念はほとんど確立される。[[エジプト第3王朝|第3王朝]]初代王[[ジェセル]]が王の称号に加えた「[[黄金のホルス名]]」はこのホルス信仰の勝利を記念したものであると見られている{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}{{Efn|黄金のホルス名について詳しくは[[五重称号_(古代エジプト)#黄金のホルス名]]を参照せよ}}。ここで王をホルスの化身とみる考え方が復活するが、これは階段ピラミッドの出現に象徴されている。このような王個人のためだけの大葬祭建築物を建造するためには、当然強大な王権の確立が予想される。なお、このピラミッド建設事業は[[エジプト第4王朝|第4王朝]]においても継続される{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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[[ファイル:Sneferu_Wadi_Maghara.png|右|サムネイル|スネフェル王の石碑。上部のカルトゥーシュには即位名・ネブティ名・黄金のホルス名の冒頭文字が単なる称号として扱われており、[[五重称号 (古代エジプト)|五重称号]]の形成過程であることがわかる{{Sfnp|松本|1998|p=13}}。]] |
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第4王朝初代王[[スネフェル]]は王権をまたも変革させうる、太陽神[[ラー]]の要素を導入した。王は太陽神ラーの化身とされ、死するとラーとなって神々の玉座に就き、毎日太陽とともに大空を航行するとされた。[[三大ピラミッド|ギザの三大ピラミッド]]を建造したクフ、カフラー、メンカウラーの時代は巨大な王墓(ピラミッドに象徴されるように王権は最大化され、名実とともに完成した{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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しかしながら、このヘリオポリス出身の神ラー信仰の興隆により、神王理念に基づく王権は挑戦を受ける。第5の称号「サア・ラー名(誕生名){{Efn|翻字は"zA-ra"で、「ラーの息子」を示す。}}」の登場により、王の神としての性格は神に直接由来することが示されたが、ラーを王の上位に置いているのだから王権は後退したともとれる。このラー信仰が王権に影響を及ぼした最も顕著な例は[[エジプト第5王朝|第5王朝]]であり、そもそも開祖は太陽神ラーとヘリオポリス神官の妻との息子とされている。以降"ラー"の文言は規則的に王の誕生名を示し、そののちはほとんど必ずと言っていいほど王の即位名に登場する{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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ラーと、神王理念に基づく王権との力関係の逆転を示すのは、ピラミッドの大きさである。最大のクフ王の146.5mと比べて、第6第[[ニウセルラー|ニィウセルラー]]王のピラミッドは約50mであり、太陽神殿のオベリスクの高さは55mなのである。これを見るとラーに比べての王権の後退は明瞭である{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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==== 後期 ==== |
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古王国時代末期の第5王朝後期から[[エジプト第6王朝|第6王朝]]になると、王は依然として「良き神」と呼びかけられているとはいえ、臣民と王との距離感は次第に埋められていった。官僚制度の発展とともに、役職は王からの直接委任であるという形が薄らぎ、官僚はみずからの力で現在の地位を勝ち取ったという意識を持ち始めた。こうした王権からの独立心は役職の世襲に表れ、特に王都から離れた地方においては州知事は赴任地に土着し、自らの宮殿さえ築くようになった。このような独立傾向を強めた州知事は「州侯」と呼ばれる{{Sfnp|屋形|1969|pp=71-74}}。 |
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この州侯の権力増大に対し、王権の側より対抗措置が試みられた。その一つに、王家に忠誠心を持つ人物を「上エジプト総督」職に任命する行動である。しかしながら、この職も州知事に与えられ始め、この地位も実権を失い強大な州侯に対する名誉称号と化してしまった。第6王朝末期[[ペピ2世]]の長い治世{{Efn|一説によると、6歳で即位し、94年間の在位ののち100歳前後で死去したという。しかしながらこれはヒエラティックで書かれたトリノ王名表による記載で、ヒエラティックでは9と6の数字がよく似ているため、64年の間違いの可能性もある。いずれにせよ長期政権であったことには変わりはない{{Sfnp|松本|1998|p=94}}。}}になると、王の無気力さとも相まって王権は地方分権化を抑制する手段を失い、州侯の割拠状態が決定的になった{{Sfnp|屋形|1969|pp=71-74}}。この王権の弱体化として、{{Harvtxt|屋形|1969}}は四つの原因を上げる。 |
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[[ファイル:Pyramids_of_Nyuserre_Ini_and_Neferirkare.jpg|左|サムネイル|第5王朝3代ネフェルイルカアラー王と第5代ニィウセルラー王のピラミッド。表面の石は崩落し、土台構造が見えてしまっている。]] |
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第一に、ピラミッドの建造である。王個人のための壮大なピラミッド及び付属神殿を王の代替わりごとに建造することは、国富を著しく浪費させた。クフ王などに挙げられる完全な石造建築技術を示す第4王朝の大型ピラミッドと、小型で建築水準も劣る第5王朝・第6王朝のものを比べれば、その差は一目瞭然である{{Sfnp|屋形|1969|pp=71-74}}。 |
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第二に、葬祭財団の増加である。これは、一定面積の土地を指定し、その収入を持ち主の死後の供養のために確保するものであり、この土地は租税などが免除されたり、官僚などから保護された。よって、時代が進むにつれて多くの土地が葬祭財団の所有物になったため、租税が減少し、その代わり残りの土地にはより重い租税がのしかかる結果となった。加えて、神殿もこのような租税免除の特権を保証する権利があり、州侯が「神官長」の称号を獲得し地方神殿の管理権を得るにつれ、州侯の不輸・不入権の拡大に利用された{{Sfnp|屋形|1969|pp=71-74}}{{Efn|不輸・不入権とは、不輸の権と不入の権からなり、不輸は国家による租税を免除する権利、不入は領域内に国や役人が立ち入ることができない権利である{{Sfnp|ニッポニカ|2014}}}}。 |
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第三に、貴族が私的に所有地を持ち、整然とした分業体制を整えてものを生産していたことである。これは、高官貴族の独立心の経済的基盤となった{{Sfnp|屋形|1969|pp=71-74}}。 |
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第四に、外国貿易の停滞がある。従来、外国貿易は王に独占されていた。エジプトは砂漠によって周辺地域から相対的に孤立しているため、国内から産出されない東部砂漠の金、[[シナイ半島]]の銅、[[レバノン]]スギなどは軍隊に護衛されて搬送されることが必要であった。この中で特にシナイ鉱山から得られる銅の独占の影響は大きかった。銅は鉄が普及するまで主要な金属であり{{Efn|鉄は王朝時代には王でさえめったに入手できなかった金属であり、主に儀礼用に使用されていたのみであった{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=235-237}}。例として、[[ツタンカーメン]]の墓からはエジプト史上最古の鉄剣が発見されているが、[[ヒッタイト]]からアジアを経由し伝わってきたとみられている{{Sfnp|松本|1997|pp=188-189}}。本格的に鉄がエジプトにおいて使用されるのは[[エジプト第3中間期|第3中間期]]からで、鉄が家庭用品の原材料となったのはローマ時代であった{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=235-237}}}}、銅製の道具が[[サッカラ]]の王墓より発見されている。シナイ鉱山の独占が王家の経済的基盤を固め、軍事上の優越的地位を保証していたのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=64}}。しかしながら、第6王朝末になると、これまで貿易関係にあった地方との軋轢が生じ始めた。例えば、ペピ2世はしばしばヌビアの反乱を鎮圧しなければならなかったようである。シナイ鉱山への砂漠路は[[ベドウィン]]らによって脅かされ、西ではリビア人の活動が活発となった{{Sfnp|屋形|1969|pp=71-74}}。 |
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これらの様々な外的要因により、エジプトの対外的な優越は失われ、主要交易路の断絶により王権は経済的・政治的に打撃を受けたのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=71-74}}。 |
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なお、ペピ2世の後はメルエンラー2世、ネチェルイルカアラー、ネチェリカアラー(通称ニトクリス)が継ぐがいずれも極めて短期の治世であり、業績も全く分かっていない。しかしながら、最後のニトクリスは女性であることが分かっており、これは後継者が絶えたことを示している。詳細は不明だが、ニトクリスをもって約500年にわたる古王国時代に終止符が打たれた{{Sfnp|松本|1998|p=97}}。 |
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=== 第1中間期 === |
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以上のような理由により、エジプトは国土分裂期である[[エジプト第1中間期|第1中間期]]に入った。この時期では、第6王朝の下で強まった地方分権化が決定的になり、メンフィス第7・第8王朝の王権は非常に弱体化し、各地に州侯が割拠した。第1中間期については資料が大変少なく推測の域を出ないが、{{Harvtxt|屋形|1969}}によると、古王国の没落と第一中間期に際して、一種の社会革命が起こったという。以下は主に王権の視点より記述する。 |
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==== 社会革命 ==== |
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{{See also|エジプト第1中間期#文学作品が伝えるエジプトの思想上の「革命」}} |
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革命の主体は門番、洗濯人、パン・ビール職人などの古王国時代の下層民衆であった{{Sfnp|屋形|1969|pp=74-76}}。革命においては、官吏が殺害され、官庁は公開され、公文書は破り捨てられた。加えて国家の穀倉は解放され、王の陵墓も貴族の墓も破壊され略奪された。このように革命は旧来の司法・行政機構を廃棄し、社会的身分秩序を崩壊させた{{Sfnp|屋形|1969|pp=74-76}}。革命の結果、一種の寡頭政府が成立し、この政府は古王国末期の官僚体制に対する反省より権力によるあらゆる強制手段の放棄を基本方針としたという。しかしながら、これにより治安状況は極度に悪化し、殺人が横行した。王権の元となった灌漑水路の管理が放棄された結果、農業は停滞し食糧不足から飢饉が広がった{{Sfnp|屋形|1969|pp=74-76}}。この結果は、王権が社会秩序の安定に寄与していた役割の大きさを示しているといえる。 |
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しかしながら、上エジプトでは世襲化した州侯の支配体制が確立しており、州侯は自らの支配領域の繁栄のために民衆の福祉にも力を入れたため、王権が低下しても州内の秩序は完全に維持できていた{{Sfnp|屋形|1969|pp=74-76}}。 |
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この状況を打破しようとするメンフィス[[エジプト第8王朝|第8王朝]]は、州侯と王家との姻戚関係を強化しようとする弱い王権の姿を示しており、第8王朝の支配地域は2つの国土までは及ばず、メンフィス周辺のみに限られていた{{Sfnp|屋形|1969|pp=74-76}}。 |
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混乱の中、独立した州侯が建てたヘラクレオポリスの[[エジプト第10王朝|第10王朝]]とテーベの[[エジプト第11王朝|第11王朝]]による、国土二分状態が発生した。およそ100年間両者は争い続けるが、この内戦はテーベ側の第11王朝第5代、[[メンチュヘテプ2世|メンチュホテプ2世]]の手によって終結し、2つの国土は再び統一された{{Sfnp|屋形|1969|pp=74-76}}。 |
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=== 中王国時代 === |
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古王国時代を「神権国家」とするならば、中王国時代は「庶民国家」であると[[杉勇]]は提唱する。一部の教育を受けた庶民層は王によって登用され、門閥貴族に対する勢力として、[[センウセレト3世]]の時代の王権強化につながった。しかしながら、庶民の地位向上も中央集権的国家体制を目指す王権側の意図と合致したから実現したのであり、中王国国家の本質はあくまでも「神王理念」である{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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==== 王権観の変化 ==== |
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第1中間期の社会革命と神王の権威の失墜は、王権観の上に大きな影響をもたらした。王も人間であり、誤りやすい存在であることが認識され、批判の対象にすらなった。つまり、王の地位は権利のみならず、義務と責任を持つものであると考えられるようになった。具体的には、古王国時代には王には、「権威」と「悟性」に加えて、「正義」が要求されるようになった{{Efn|それぞれ、原語の翻字・意味は、Hw(権威), siA(動詞:知る・分かる・悟る/名詞:認識), mAat(真理・真実・正義・秩序){{Sfnp|吉成|1999|p=182, 185, 188}}}}。特に、「正義」の価値は永遠であるとされ、王は「造物主が彼に監督を委ねた全人類を油断なく見張るよき牧人」であるとの王権観が成立した。この第1中間期後期に成立した「王=よき牧人」とする新しい王権観は、中央集権国家に君臨する神王の理念が復活した中王国時代においても存続した{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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このような王権観の形成理由の1つとして、世襲貴族に対抗して中央集権化しようと試みる王権が「庶民」の支持を獲得しようとしたことである。治安状態が極めて悪かった第1中間期においては、庶民はみずからの安全確保のために防御システムが存在する町に集住するようになった。王はその民たちに一定の法的地位を与え、同業組合を組織させることによって国家の直接統制下におく政策を実行した。この民たちは財力を蓄え、文字を習得する者も現れた{{Efn|文字を習得することは、当時極めて困難な行為であった。帳簿の計算などに使われるヒエラティックを自由に操ることができる書記は、ほんの一握りしかおらず、「ドゥアケティの教訓」や「ケティの教訓」をはじめ、書記になれと勧める教訓文学は非常に多い{{Sfnp|松本|1994|pp=23-28}}{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=166-168}}}}。そのような文字の知識を獲得し、王を主人と仰ぐ庶民を積極的に官吏に登用することにより、王は世襲的な貴族に対抗する自らの支持勢力を育成したのである。この点で中王国時代は「庶民国家」と呼ぶことができると{{Harvtxt|屋形|1969}}は言う{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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==== 前期 ==== |
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[[ファイル:Mentuhotep_II_(detail).jpg|右|サムネイル|白冠を被ったメンチュホテプ2世]] |
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中王国時代初期、再統一を果たした第11王朝の王権にとっての最大の課題は、地方諸侯の独立精神を抑え、王の下での協力な中央集権体制を構築することであった。[[メンチュヘテプ2世|メンチュホテプ2世]]は、内戦の終結に決定的な役割を果たした中エジプトの諸侯(例えば上エジプト第15州・第16州など)を無碍にできず、彼らを改めて州知事に任命し、旧来の特権の多くを認めざるを得なかった。しかしながら、そのほかの州においては、統一王権の実力を背景に州侯をほぼ完全に排除した。加えて、宰相をはじめとした中央政府の要職にはテーベ出身者を任命し、都から遠く離れた下エジプトを管理する「下エジプト総督」の地位には王族を任命し協力に全国を統制した。以上のような策が成功したことは、この時代の地方墳墓数が非常に減少したことにより示されている{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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==== 後期 ==== |
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しかしながら、このような急速な中央集権化は当然のことながら地方の世襲貴族の反発を招いた。メンチュホテプ2世の後を継いだメンチュホテプ3世、メンチュホテプ4世はそれぞれ12年、7年ほどしか統治しておらず、王位相続において混乱があったことを示している。メンチュホテプ4世の後には[[アメンエムハト1世]]が即位するが、この王より第12王朝に区分される。王朝は単一の家系及び重要な出来事の如何で区分されるが、アメンエムハト1世は、クーデターを起こして王権を奪取した可能性が高いとみられているからである{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}{{Efn|アメンエムハト1世がクーデターを起こしたかどうかについては、{{Harvtxt|スペンサー|2009}}は懐疑的にみている{{Sfnp|スペンサー|2009|p=45}}。}}。 |
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[[ファイル:Lintel_of_Amenemhat_I_and_Deities_MET_DP322055.jpg|左|サムネイル|セホテプイブラー・アメンエムハト1世。]] |
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第12王朝初代アメンエムハト1世は、[[イチ・タウィ|イチィ・タアウィ]]に遷都するとともにクーデターの支持者とみられる世襲貴族の特権の多くを復活させた。中エジプトを中心に、「州の大首長」の称号が復活し、地方の有力貴族の多くが州知事に任命され、世襲化の特権も大幅に認められることとなった。なお、州知事相互の軋轢や、州統治領域の拡大を防ぐために、州の境界は明確に決められた模様である{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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しかしながら、このような貴族の特権は王権が力を蓄えるにつれ再び重荷となり、第12王朝第5代[[センウセレト3世]]の治世に、詳細は分かっていないが、王は行政改革を断行し世襲貴族を政治的にほとんど無力化することに成功した。以降は、地方の大型墓は姿を消し、「大首長」の称号も消滅した{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}} |
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改革の成功要因として、「庶民」の登用や、灌漑水路統制法の成立のほかに、[[ファイユーム]]の大規模な組織的開墾と対外貿易の振興があげられる。 |
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===== 開墾 ===== |
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ファイユームは最初のエジプト農耕文化発祥の地であったにも拘わらず、大部分が湿地帯であったため麦作には適さず、長らく不毛の土地であった{{Sfnp|屋形|1998|pp=433-444}}。ここで、第4代[[センウセレト2世]]はファイユーム付近の土地El Lahun([[:en:El Lahun|en]])に水門や堤防を築き流水量を調節するとともに、灌漑水路の整備に乗り出した。復活した統一王権の元行われた大事業は第6代[[アメンエムハト3世]]の時代に完成し、中王国の繁栄は絶頂期を迎えた。耕地は飛躍的に増加し、ファイユームはエジプトの穀倉の地位を占めるに至った。開発は王の私的な努力の賜物とみなされたためファイユームは王領地となり、大いに国庫を潤し王権の基盤強化に貢献したのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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===== 征服・貿易 ===== |
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第12王朝の前にも、第11王朝第5代メンチュホテプ2世は、国内の統一とともに国境線の安定化に乗り出し、下ヌビアや西部砂漠のヌビア人、砂漠のベドウィンなどを撃ち採石場・鉱山、貿易路の確保に努めていた。 |
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[[File:Ancient Egypt old and middle kingdom-en.svg|thumb|right|250px|エジプト中王国時代の領域。第3急湍は"III"と表されている。なお、ファイユームはヘラクレオポリスの左上。]] |
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[[ファイル:Statue_Head_of_Pharaoh_Sesostris_III_-_12th_Dynasty_-_ÄS_7110.jpg|左|サムネイル|センウセレト3世像の頭。]] |
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しかしながら、第12王朝においてはより積極的な安定化が図られた。特に[[センウセレト3世]]は、治世の前半[[ヌビア]]に親征しナイル川第2{{ruby|急湍|きゅうたん}}地方まで征服し、要塞を建造して征服地の安定化に努め、「征服者」と呼称された。この親征の成功による王の威信の向上は、前述の行政改革にも好影響を及ぼしたであろうことが推察される{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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このようにセンウセレト3世の治世には、中王国前半にも追求された中央集権的国家体制の回復が、完全に実現されたのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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=== 第2中間期 === |
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第2中間期、エジプトは異民族である[[ヒクソス]]の支配を受けた。それに至るまで中王国の崩壊があったが、その詳細に関しては謎に包まれている。一つ分かっていることは、中王国第12王朝最後の王はセベクネフェルウという女王であったことだ。これは、後継者の不在、男系の断絶という事実を示している。 |
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==== 第13・14王朝 ==== |
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マネトはセベクネフェルウまでを第12王朝とし、それ以降を第13王朝と区分しているが、この第13王朝自体も単一の家系ではない非常に多数の王で構成されていた。一説によると、70~80年の間に約50人もの王が即位したと言われているが、一応は王位の継承は続いていたようである{{Sfnp|松本|1998|p=138, 143-150}}。中王国時代、センウセレト3世に確立された優れた官僚機構のおかげで、職人集団も引き続いて活躍を続けているなどその生活には余裕すらあったのである{{Sfnp|松本|1998|p=138, 143-150}}。しかしながら王権の弱体化に伴い官僚機構にも乱れが生じ、デルタ地帯の東側が王国より分離し、第14王朝が成立した。しかしながら第14王朝は非常に限られた支配領域しか持たず、弱小であったようである。 |
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==== 第15・16王朝 ==== |
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[[ファイル:Hyksos_dagger_handle.jpg|右|サムネイル|200x200ピクセル|ヒクソスの代表的な王、[[アペピ1世|アペピ]]の剣の柄]] |
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ここで、[[ヒクソス]]と呼ばれる人々がエジプトに流入した。彼らは国力が弱体化しつつあった中王国時代末期より、徐々にエジプトに定住しはじめ、しだいに大きな集団になった模様である。なお、ヒクソスというのは単一の民族ではなく、アジア人・ヘブライ人など多種にわたっていた{{Efn|ヒクソスという言葉は"Hqa.w-xAs.t"(外国の支配者)に由来する{{Sfnp|松本|1998|p=138, 143-150}}。}}。 |
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===== 王権 ===== |
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{{仮リンク|アヴァリス|en|Avaris}}を首都に構えたヒクソスは次第に南下を始め、第13王朝の首都[[イチ・タウィ|イチィ・タアウィ]]を掌握し、王家を上エジプトに追いやるが、しかし官僚たちはとどまってヒクソスに仕えたようである{{Sfnp|松本|1998|p=138, 143-150}}。ここでも、官僚機構が引き続き王権の一助となったことが推察できる。第3代[[キアン (ファラオ)|キアン]]王は一時的に上エジプト全体を掌握したが、これを直接の統治することはなく、各地に分立した州侯に貢納を義務付ける一種の封建体制を敷き、宗主権を行使した{{Sfnp|屋形|1969|pp=199-201}}。 |
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この権力の源は、馬・戦車・複合弓・青銅製の剣など従来エジプトで知られていなかった武器の使用を背景とする圧倒的な軍事力と、少数の戦士階級による支配体制であった{{Sfnp|屋形|1969|pp=199-201}}。 |
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==== 独立戦争 ==== |
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しかしながら、[[エジプト第17王朝|第17王朝]]のテーベの支配者たちはヒクソスを駆逐してテーベを再び国土の中心に据えようとする野望に燃える。彼らは、高い軍事力を持つヒクソスに対抗するため、十分に養成された戦士階級による軍隊を編成する必要を痛感し、軍事力の増強に努めた。こうして、第17王朝の下に、のちにエジプト史上最大の繁栄を誇る帝国を築き上げるための根幹をなす、軍事国家体制が構築されていったのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=199-201}}。 |
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[[ファイル:Head_of_Ahmose_I_MET_DP140854.jpg|右|サムネイル|267x267ピクセル|イアフメス1世像の頭部]] |
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ここでは王権という観点で見るため独立戦争の詳細にはあまり触れないが、第17王朝第8代[[セケンエンラー・タア]]王はヒクソスに対して独立戦争を挑んだ。王は戦争の途中で斃れるが、遺志を継いだ[[カーメス|カアメス]]・[[イアフメス1世]]両王は解放戦争を続け、ついにイアフメス1世によってアヴァリスが占領され国土の再統一が完成する。それだけにとどまらず、王はさらに進軍し、南パレスチナのヒクソス最後の拠点シャルヘンをも占領し、ヒクソス勢力を完全に粉砕する。このイアフメス1世による再統一をもって、新王国時代第18王朝の開始とする{{Sfnp|屋形|1969|pp=199-201}}。 |
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=== 新王国 === |
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==== 第18王朝 ==== |
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新王国時代、特に[[エジプト第18王朝|第18王朝]]における国家の根幹は、前述したように圧倒的な軍事力であった。特に、[[トトメス3世]]は王自身が錬成された軍隊を率いて精力的に親征に赴いた結果、史上最大の帝国を築き上げることになる。 |
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===== アメン神と王権 ===== |
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[[ファイル:Amun-Ra.jpg|左|サムネイル|210x210ピクセル|アメン神のレリーフ(浮き彫り)]] |
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[[アメン]]神はもともとはテーベの一地方神であった{{Sfnp|屋形|1998|pp=472-474}}が、王朝がメンフィスではなくテーベに都をおき、中王国時代アメン神を奉るアメンエムハト1世の系統が王位に就いたことも相まって、メンチュ神に代わり急激にその地位を高めた{{Sfnp|松本|2020|pp=15-19}}。太陽神ラーと習合してアメン=ラーとなり、王朝神から国家神へと格が上昇し{{Sfnp|屋形|1998|pp=472-474}}厚く祀られるようになった{{Sfnp|松本|2020|pp=15-19}}。 |
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第18王朝王家は、アメン神官団と密接なかかわりがあった。宗教的地位の例としては、初代王イアフメス1世の妻、[[イアフメス=ネフェルタリ|イアフメス・ネフェルトイリ]]{{Efn|ネフェルタリとも。なお、翻字"nfr.t-iry"に従い忠実にカタカナ化すると、ネフェレトイリィになる。}}の家柄は「アメン第2司祭」を世襲しており、その権利を婚姻に伴いイアフメス1世に譲渡したことが知られている{{Sfnp|屋形|1998|pp=472-474}}。 |
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実際にも、アメン神の加護は度重なる遠征の勝利と大帝国の建設をもたらしてくれた存在だと信じられていた。よって、王たちはその感謝を目に見える形で表明せねばならなかった。例えば、カルナック神殿の増築や捧げられた豪華な供物をはじめとした莫大な量の寄進は、そのための最良の手段とされた{{Sfnp|屋形|1998|pp=472-474}}。少し時代は下るが、新王国[[エジプト第19王朝|第19王朝]]、[[ラムセス3世|ラメセス3世]]の時代にはテーベのアメン神殿群の奴隷の所有率は全神殿群の80.36%、土地保有率は全神殿群の80.73%とアメン神殿がもつ財力が突出して著しいのがわかる{{Sfnp|中山|1969|pp=227-228}}{{Efn|具体的には、テーベ神殿群、合計の順に、奴隷が86486-107615(単位はおそらく人)、土地が864168-1070419(単位はarouraで1arouraは2735<math>m^2</math>)であった{{Sfnp|中山|1969|pp=244-245}}。}}。 |
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これらの財力に加え、アメン神官団は王に対して強い影響力を持っていた。例えば、[[トトメス3世]]は、アメン神殿に勤務していた時、ある祝祭において神輿の行列が自分の前に止まったことで、次代の王に選任するという神の意志が表明されたとしている{{Sfnp|屋形|1998|pp=472-474}}。これは、神官団が王位継承をも左右する力を有していたことを示唆している{{Sfnp|屋形|1998|pp=472-474}}。 |
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===== 王権の反発 ===== |
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しかしながら、このような強大な権力に対して王権より反発する論理が生まれた。 |
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[[ファイル:TuthmosisIII-2.JPG|右|サムネイル|300x300ピクセル|トトメス3世像]] |
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トトメス3世のように、第18王朝前半の諸王はいずれも勇敢な戦士であり、すぐれた軍事指導者であった。帝国の拡大はこの王の資質を生かした度重なる親征によって実現されたものであった{{Sfnp|屋形|1969|pp=208-211}}。しかし、新王国においても神王理念は重んじられ、王はファラオという地位の所有者であるとみなされており、伝統的には「人性」よりも「地位」が優先されている状況であった{{Sfnp|屋形|1969|pp=208-211}}。それでも、従来の伝統的な王権観が要求する慣例に従っていては軍事作戦などは臨機応変に対応できない状況が生まれたことにより、やはり王はまた有能な将軍でもなければならないという新しい理念が帝国の拡大に伴い加わった結果、価値観が逆転し王の人格が全面に押し出された{{Sfnp|屋形|1969|pp=208-211}}。 |
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こうして、王の自負心は増大し、やがて伝統や慣例よりも、王の意思が優越する専制君主観が現実の権威に支えられて急激に成長したのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=208-211}}{{Sfnp|屋形|1998|pp=472-474}}。 |
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===== 王権側の対抗措置 ===== |
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王は政治的・宗教的に最大の権力を持つものであるから、当然宰相に匹敵するほど大きな権限をもっているアメン大司祭{{Efn|エジプト語では、"Hm-nTr-tpy.n-imn"(アメン神第一の神のしもべ)}}の任命権も例外なく王が保有していた。しかし、この地位は祭司というよりもむしろ神殿の行政官としての役割が大きかったため、慣例として神殿行政にかかわりのある人物を選ぶことになっていた。かつては王権もこれに従い、婚姻関係を通じて王や宮廷と結びつけることで妥協していた。しかしながら、アメン神官団の権力伸長とともに、[[トトメス4世]]時代のアメンエムハトや[[アメンホテプ3世]]時代のメリィプタハのように、王権と全く私的な関係がなく、ただアメン神殿内において昇進し地位に就いた者が現れてきた{{Sfnp|屋形|1969|pp=211—214}}。 |
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王権はこれに対抗し、アメンホテプ3世時代の宰相プタハメス(メリィプタハの先任者)のようにアメン神殿と無関係な者をアメン大司祭につけることに成功している。これらは、アメン大司祭の任命をめぐって王権と神官団に非常に激しい政治闘争があったことを示している{{Sfnp|屋形|1969|pp=211—214}}。 |
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この他にも、アメン大司祭に慣例として与えられた、全国の神官全体に対する監督権を持つ「上下エジプト神官長」の役職を全くアメン神殿と関係ないものに与えるなど対抗措置をとるなどしたが、その中でも特徴的なのが「アテン信仰」を始めとする他信仰の養成である{{Sfnp|屋形|1969|pp=211—214}}。 |
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===== ラー信仰 ===== |
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[[ファイル:Giseh_Traumstele_(Lepsius)_01.jpg|サムネイル|トトメス4世の夢の碑文]] |
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トトメス4世が残した「夢の石碑」に、太陽神信仰の片鱗を見て取ることができる。トトメス4世が皇太子ですらなく一介の王子であったとき、当時太陽神像とみなされていたスフィンクスの陰で昼寝をし、その夢の中に太陽神ラーが現れ、砂に埋もれている自分の像から砂を除いてくれれば王位を与えると約束したとの記述があるのである。これは、トトメス3世やハトシェプストの場合のアメンではなく、太陽神ラーなのである。これより、トトメス4世がアメン神官団の影響からの脱却を意識的に試みていることがわかる{{Sfnp|屋形|1969|pp=211—214}}。 |
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===== アテン信仰 ===== |
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[[ファイル:Aten.svg|左|サムネイル|200x200ピクセル|アテン神]] |
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このような太陽神信仰に加えて、頻繁に碑文に名が挙がるようになるのが[[アテン]]である。アテンとは、太陽信仰において中王国時代より「天体としての太陽」とされており、太陽神としての性質の一部とみられていた{{Sfnp|屋形|1969|pp=211—214}}。しかし、アメンホテプ2世の時代、王はカルナックのアメン神殿神官の横暴に不満を持つ中で、古くより信仰の対象であったヘリオポリスのラー神官団と交流し、信仰の対象として独立した神格であるアテン神が形作られていった{{Sfnp|松本|2020|pp=30-31}}。すでにトトメス4世のスカラベにおいてはアテンは独自の祭祀を受け、王はアテンの名においてアジア諸国を征服したと記されている{{Sfnp|屋形|1969|pp=211—214}}。 |
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===== 「宗教改革」 ===== |
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[[ファイル:Akhenaten_statue.jpg|左|サムネイル|240x240ピクセル|アクエンアテン像]] |
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王権とアメン神官団との緊張関係がまさに頂点に達しようとするときに即位したのが、アメンホテプ4世(のちのアクエンアテン)である。専制君主の道をたどった父王アメンホテプ3世の宮廷に育てられたアメンホテプ4世は、王の意志は絶対であり、これに対抗する勢力の存在は容認できなかった。4世は対立状態を、アメン神をきっぱり捨て新たなる太陽神アメンに切り替えるという極端な形で解決しようと試みる。しかし、そのための手段としてはアテン神に対する狂信という極めて非政治的手段を用いた。このような非政治的手段を強行できる専制君主観こそが、改革の礎であったのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}。 |
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アメンホテプ4世の治世については資料が乏しい部分が多いが、以下は「王権」という視点でとらえている{{Harvtxt|屋形|1969}}を主体にし、加えて同一著者の1998年の記述、{{Harvtxt|松本|1998}}を参考にした。 |
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====== 前半 ====== |
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この王の治世前半については不明な点が多いが、王はすでに初年よりアテンを神々の首位につけようとする試みをしていた。 |
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[[File:The former name of Aten.png|thumb|アテン前期名]] |
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王は碑文に「アテン前期名」を刻むとともに、「アテンの第一預言者」{{Efn|おそらく「アメン大司祭」と同意義か。}}を称し、王の宮殿も「地平線の光輝」と名付けられた。アテン前期名は、「アンク・ラー=ホルアクティー・ハイ・エム・アケト」および「エム・レン=エフ・エム・シュウ・ヌティ・エム・アテン」の二つより構成されており、双方合わせて「アテンであるところのシュウの名において、地平線で歓喜するラー=ホルアクティは生きる」との意をもつ{{Efn|王の治世9年以降、新たに一般的に「アテン後期名」と呼ばれる名が制定されたが、ここでは詳しくは触れない。}}。そこでは、ラー=ホルアクティー及び大気の神シュウと太陽神アテンは、同一の太陽神の違った名称に過ぎないことが表現されており、ヘリオポリスのラー神官団の影響が顕著に表れている。ここにおいては、王の関心は宗教面にのみ注がれていたため、この点でこの「改革」を「宗教改革」と呼ぶことができる。しかしながら、王の治世の前半においては、アテンを神々の中の第一人者に据える試みにすぎず、伝統的な多神教の範囲内に収まっていた{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}。 |
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王の治世4年を超えると、おそらくアメン神官団との対立が決定的になり、王はアメン神と決別する。王は、自身の誕生名アメンホテプ(アメン神は満足し給う)を捨て、アクエンアテン(アテン神に有益なる者)と改名し、都もテーベから「アテンの地平線」の名を持つアケトアテンへと遷した。この遷都では、テーベの神アテンと王との関係は完全に断ち切られ、『神であるファラオが自らの責任において自由に政を行う』という王権観の完全なる実現の一歩となった。これ以降、王アクエンアテンはひたすらに自己意志に基づき宗教改革を実行していくようになっていった{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}。 |
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====== 改革の意義 ====== |
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新しいアテン信仰においては、非常に一神教的傾向が強くなっている。アテンは万物の創造者とされ、唯一の真なる神であった。神の太陽光線によって注がれる生物への「愛」を受け取る者の信仰告白は、王自らが起草した「アテン賛歌」に表れている{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}。 |
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[[ファイル:HouseAltar-AkhenatenNefertitiAndThreeOfTheirDaughters.png|左|サムネイル|アテン賛美]] |
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このような信仰の最大の特色たる排他性は、一神教的傾向による副産物ではなく、むしろ王権の対抗勢力であるアメン神官団の権力を封殺する政治的意図が軸にあったものと考えられる。アメンの信仰は禁止され、神殿は封鎖され、名はあらゆる碑文から削除された。しかしこの迫害は他の神にも及ぶのであり、ただラー神のみがこの措置をまぬかれた。こうして神殿に国庫の補助金などが供給されることはなくなり、国土全体が宗教的統一を通して王権の絶対的統制下におかれることになったのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}。 |
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しかし、王の宗教的狂信及び革命の原因などについては王権の強化を目的とした政治的意図で説明できない部分もあるため、異論も存在することに留意されたい。 |
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====== 改革の破綻 ====== |
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このような熱狂的な崇拝にも拘わらず、アクエンアテンの改革は王の死とともに廃される。その失敗の原因として{{Harvtxt|屋形|1998}}は2つの例を挙げている。一つは後のツタンカーメンが建立した「信仰復興碑」が述べているような国内の行政・経済の完全な無秩序状態であり、もう一つは「アマルナ文書」が伝えるような外交の破綻である{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}。 |
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アメンホテプ3世の治世末期、王は外交的に無関心になっており、加えてその子アクエンアテンもアテン信仰に力を注いだためアジア植民地への軍事的介入がほとんどなかった。エジプトの敵国の脅威にさらされているアジア人の首長がアクエンアテンに来ることが叶わぬ救援要請を送り続けていたが、王はほとんど応えなかったのである。そもそも、アジア植民地はトトメス3世が築き上げたものを歴代王が維持してきたものであるが、これは王の積極的軍事介入によって維持されてきたものであり、より強い権力であるヒッタイト及びその属国ミタンニの存在に植民地は容易に屈してしまった。アメンホテプ3世治世末期以降4代の王の治世、およそ30年間余りでエジプトはシリア・パレスチナを含む広大な植民地を失ったのである{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}{{Efn|なおヌビアだけは直接統治の仕組みが確立されていたため、喪失をまぬかれたようである。}}。 |
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なお、エジプトの政治情勢が非常に混乱していたにも拘わらずエジプト本国に侵入がなかった理由として、将軍ホルエムヘブが強固に防衛していたからであると{{Harvtxt|屋形|1998}}は述べている{{Sfnp|屋形|1969|pp=215-219}}。 |
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====== 復興 ====== |
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{{Main|[[ツタンカーメン#古き信仰への回帰]]}} |
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[[ファイル:StatueOfHoremhebAndTheGodHorus-DetailOfHoremheb02_KunsthistorischesMuseum_Nov13-10.jpg|サムネイル|234x234ピクセル|ホルエムヘブ王像頭部]] |
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アクエンアテンは即位およそ17~18年で没した。この後には[[スメンクカーラー|スメンクカアラー]]、[[ネフェルネフェルウアトン|ネフェルネフェルウアテン]]という正体不明の王が即位しているが、これに関しては謎が多い。両王に引き続いて即位するのが少年王として知られる[[ツタンカーメン]]であり、この時家臣[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]と将軍[[ホルエムヘブ]]の補佐により王は信仰復興を遂行する。しかし王は若年で亡くなり、後継者のアイも治世4年で死去するため、完全な復興に関しては将軍ホルエムヘブに託される。 |
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ホルエムヘブはその後のおよそ27年の在位の間に国内秩序の回復に努め、後の第19、20王朝時代にエジプトに最後の繁栄をもたらす、帝国の再建の礎となった。 |
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==== 第19王朝 ==== |
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ホルエムヘブは子無くして死去するが、自身の将軍パラメセスを後継者に指名した{{Efn|パラメセスは王になるにあたり、ラメセスと改名した。}}。彼も老年であったため在位2~3年で死去するが、王位は子供の[[セティ1世]]に引き継がれ、ツタンカーメン以降途切れていた血統による王位継承を果たす。 |
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===== 王の在り方の変化 ===== |
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第18王朝以前では王は神として崇められたが、18王朝末期になると、後継者問題のため宰相のアイ、将軍のホルエムヘブ・ラメセス1世など、明らかに王の血筋ではなかった人物が王として君臨するようになった。そのため、王であるからという理由では強権を振るえず、遠征・貿易などにより国民生活を豊かにするという保証をもって初めて王として権力を持つことができるような認識が広まった{{Sfnp|松本|1998|pp=230-236}}。国民生活を確かに豊かにしたセティ1世・ラメセス2世両王はともに神格化されている{{Sfnp|屋形|1998|pp=504, 510}}。 |
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[[ファイル:Seti_I,_Abydos.jpg|左|サムネイル|セティ1世を描いたレリーフ]] |
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例えば、第19王朝第2代セティ1世は、アマルナ時代に破壊された各地の神殿などを修復し、アメン神官団と良好な関係を築いた{{Efn|しかしながら宗教改革の事件は記憶に新しく、一定の距離はおいた模様である{{Sfnp|松本|1998|pp=230-236}}。}}。加えて、18王朝までは王都はメンフィスにあり、ここよりアジア遠征などをしていたが、対外情勢の変化に対応する必要性を痛感したセティ1世は、よりデルタ地帯に近い場所に新たな都ペル・ラメセスを建設し、遷都した。これを足掛かりにしてアジア方面に度々遠征したが、それだけでなくヌビアにも遠征するなど活発な活動を行った。このことが国民に認められたかどうかは定かではないが、自身の死後にセティ1世葬祭殿を築き、自身を神格化し祀っている{{Sfnp|松本|1998|pp=230-236}}。ここでは、アメン=ラー神を合わせて神格化されたセティ1世を含む7柱が同格に祀られており、アメン神だけの優遇は回避されている{{Sfnp|屋形|1998|pp=504-505}}。 |
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===== 英主・大建築家 ラメセス2世 ===== |
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[[ラムセス2世|ラメセス2世]]{{Efn|しばしばラメセス大王と呼ばれる{{Sfnp|屋形|1998|p=505}}。}}の時代は、エジプトがトトメス3世からアメンホテプ3世の時代に次いでエジプトが最も繁栄した時代である。王は即位5年にカデシュの戦いでヒッタイトと争った{{Efn|{{Harvtxt|松本|1998}}によれば、危うく負けそうになったところを立て直し、互角の勝負で終わったという。}}{{Sfnp|松本|1998|pp=237-246, 248}}。ここにおいては、ラメセス2世は「戦神メンチュのようにただ一人で戦車を駆って奮戦し、ヒッタイトをさんざんに打ち破った」とされており、この業績を幾度となく神殿に刻ませている{{Sfnp|屋形|1998|p=507}}。 |
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以後においては数回アジア遠征を試みているが、大勢は変わらなかった模様である{{Sfnp|屋形|1998|p=508}}。ここで、エジプトとヒッタイトは長年の対立を捨て、[[エジプト・ヒッタイト平和条約|講和条約]]を治世21年に結び、結果としてアジアにおけるエジプトの領土を明確化させることに成功した{{Sfnp|松本|1998|pp=237-246, 248}}{{Sfnp|屋形|1998|p=508}}。これ以降ヌビアやリビア地方へ小規模な軍隊を派遣し、国境を確認するのみで、目立った軍事行動はしていないようである{{Sfnp|松本|1998|pp=237-246, 248}}。 |
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[[ファイル:LuxorTemple03.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|ルクソール神殿の柱に見られる、ラメセス2世の名前]] |
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国際情勢により戦争ができなくなったラメセス2世の余りある精力は、建築の分野に昇華された{{Sfnp|屋形|1998|pp=509-510}}。現在でもエジプトではラメセス2世の即位名 ウセルマアトラー・セテプエンラー、誕生名ラメセス・メリィアメン が刻まれた遺物を驚くほど確認できる{{Efn|しかし、すでにあった建築物にラメセス2世の名前を刻んだものも多い{{Sfnp|屋形|1998|pp=509-510}}{{Sfnp|松本|1998|pp=237-246, 248}}。}}が、これには彼の自己顕示欲によるものではなく、むしろ政治的・宗教的意図が少なからず関わっていたと推測されている{{Sfnp|松本|1998|pp=237-246, 248}}。 |
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政治的には、特にヌビア方面に多くの壮麗な神殿を建設することで、南からの異民族を威圧する働きがあったようである{{Sfnp|松本|1998|pp=237-246, 248}}。 |
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宗教的には、ラメセス2世はテーベを国政とは関係のないアメン=ラー神の信仰地と位置付けた。このことによりアメン神の影響力は削がれ、他の神々の信仰が活発になったという{{Sfnp|松本|1998|pp=237-246, 248}}。 |
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===== 終焉 ===== |
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ラメセス2世はエジプト史上まれにみる即位67年を数え、90歳を超えて没した。このため、王位は第13皇子[[メルエンプタハ]]が継ぐこととなるが、この後は長期政権によくみられる後継者問題が発生した。メルエンプタハも10年ほどで死去してしまった{{Efn|{{Harvtxt|屋形|1998}}は20年の平和な治世と言及している{{Sfnp|屋形|1998|pp=510}}が、von Beckerath, Shaw, Dodson, Malek, Arnold, Grimalなどは10年との言及をしており、主な説は10年である模様である。}}ため、普通ならば息子のセティ2世が継ぐものであるが、なぜか王位はラメセス2世の娘の一人であるタカトの息子[[アメンメセス]]が継ぐ。にも拘わらずアメンメセスも3~5年ほどで死去。王位は正当な後継者である[[セティ2世]]にわたる{{Sfnp|松本|1998|pp=250-254}}。 |
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しかしながらセティ2世も6年、その第2皇子[[サプタハ|サアプタハ]]が継ぐも6年で死去。サアプタハの死後はセティ2世第2王妃{{仮リンク|タアウセレト|en|Twosret}}女王が即位するが、彼女の治世も2年ほどで終わっている。メルエンプタハの即位からわずか27年ほどで第19王朝は途絶えたのである{{Sfnp|松本|1998|pp=250-254}}。 |
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==== 第20王朝 ==== |
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タアウセレトの後即位したのは[[セトナクト]]という人物であった。この人物の出自については不明であるが、大ハリス・パピルスによると、第19王朝末期から第20王朝にかけては王位継承問題が紛糾し、公に認められない王イリウスウが即位したが、神々に選ばれた者セトナクトがイリウスウを追放し、真の王としてエジプトを収めるようになったとのことである{{Sfnp|松本|1998|pp=255-256}}。セトナクトの治世はわずかに2~3年だっため、周囲より推戴されて王になったときにはすでに老齢であった可能性もある。いずれにせよ、セトナクト王の即位はスムーズに行われたようである{{Sfnp|屋形|1998|p=513}}。 |
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===== 最後の栄光 ===== |
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[[ファイル:KhonsuTemple-Karnak-RamessesIII-2.jpg|サムネイル|ラメセス3世のレリーフ]] |
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セトナクトの後を継いだのは、エジプトに最後の繁栄をもたらしたとされる王、[[ラムセス3世|ラメセス3世]]であった。王はカルカッタを始め国内各地に神殿を建設したり、王家の谷に自身の王墓、王妃の谷に数人の王子の墓を築くなどの公共事業を行ったことによって国民生活に豊かさをもたらしたのであった{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}。 |
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====== 「海の民」との戦争 ====== |
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ラメセス3世は、治世5, 11年にリビア人と、治世8年に[[海の民]]{{Efn|海の民とは飢饉のため地中海付近に定住できなかった、武装した難民集団を総称する語である{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}。}}と戦った。 |
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治世5年にはリビア人が、王朝が交代し王権が弱体化したのを見て北アフリカの民族を率い、エジプトへ侵攻した。しかしエジプトはこの戦いに圧勝し、12500人を殺害し1000人余りを捕虜とし凱旋した{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}{{Sfnp|屋形|1998|pp=514-521}}。 |
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治世8年には、海・陸同時に海の民が攻めてきたが、陸戦に際してはアジアに駐留させていた軍を向かわせ、海に対しては船団をもって迎撃し、打ち破ることに成功した{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}{{Sfnp|屋形|1998|pp=514-521}}。 |
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このように、ラメセス3世はいずれの戦いにも勝利したが、そもそもこの戦いはエジプト側の防衛戦であり、パレスチナ方面には一部海の民を定住させてしまうなど、実は何とか守り抜いたといった状況であった可能性がある。{{Harvtxt|松本|1998}}は、この時エジプトはすでに第18王朝のような大国ではなくなってしまっていたため、侵攻されてしまったという考え方を示している{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}。 |
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しかし、エジプトはこの3度の戦争の後、一時平和な時代を迎えたようである。大ハリス・パピルスに記されているラメセス3世自身が語ったと言われている言葉によると、「歩兵も戦車兵も自分たちの町で体を十分に伸ばして眠れるようになった。彼らの弓も武器も、倉庫に収められたままであった」という{{Sfnp|屋形|1998|pp=514-521}}。 |
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====== 官僚の腐敗 ====== |
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しかしこのような平和な時代も、ラメセス3世の治世の晩年になると終末を迎え始める。内政の綻びが生じてきたことの好例として、「人類史上最初のストライキ」があげられる。 |
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王墓造営に従事する職人たちの給与は、現物(エンマー小麦・大麦など)で、宰相の責任によって毎月28日に次月の分が支給されることとなっていた。しかし、支給日より20日遅れたり、時には2カ月分が一機に支給されるなど、配給の仕組みが杜撰になってしまったのである。このことに対して当然不満を持った職人たちは仕事を放棄してトトメス3世葬祭殿の背後に座り込み、速やかな支給を要求した{{Sfnp|屋形|1998|pp=514-521}}。 |
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この事態の原因は、国庫の収入が不足したことではなく、官僚の腐敗によるものだとされる{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}{{Sfnp|屋形|1998|pp=514-521}}。通常宰相は上下エジプトにそれぞれ一人置かれるが、この時は宰相タアがどちらも兼ねていたのである{{Sfnp|屋形|1998|pp=514-521}}。老齢となったラメセス3世は体力の衰えにより政治面に気を配ることができず、役人の中で汚職が横行したのであった{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}。 |
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====== 暗殺 ====== |
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ラメセス3世治世末期は、官僚だけでなく王宮まで統率できなくなっていた{{Sfnp|松本|1998|pp=256-263}}。妃の一人ティイは自身の息子を次王に就けようとし、王の暗殺を計画。王は首の付け根を鋭利な刃物で傷つけられ即死し<ref>{{Cite web |title=Egyptologist: Ramses III assassinated in coup attempt |url=https://www.usatoday.com/story/tech/sciencefair/2012/12/17/ramses-ramesses-murdered-bmj/1775159/ |website=USA TODAY |accessdate=2022-03-19 |language=en-US |first=Dan|last=Vergano}}</ref>、その30年余りの治世に終止符が打たれた{{Efn|従来(参考文献が執筆された1998年ごろ)はこれはミイラに目立った外傷がないことを根拠に暗殺未遂だと言われていた{{Sfnp|屋形|1998|pp=523-525}}{{Sfnp|松本|1998|p=269}}が、CTスキャンにより喉まで達する致死傷が発見され、歴史は塗り替えられたのである。}}。ラメセス3世の死をもって新王国の栄光あった時代は終わり、国は急速に衰えてゆく{{Sfnp|屋形|1998|pp=514-521}}。 |
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===== 衰退 ===== |
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ラメセス4世以降、ラメセス11世までの80年間で、ラメセスの名を持つ王が8人も即位した{{Sfnp|屋形|1998|pp=523-525}}。そのうち、9世と11世を除けばいずれも在位は10年未満であり、国内は官僚の不正・基金・物価高騰・リビア人の襲撃などで大いに混乱していた{{Sfnp|屋形|1998|pp=523-525}}。政府の信用は失墜し、国民は自分の利益のみを追求するようになった{{Sfnp|松本|1998|p=269}}。 |
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====== 墓泥棒の横行 ====== |
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このころになると、王権は厳重に警備されているはずの王家の墓泥棒すら抑えられないほどに弱体化してしまっていた。王への尊敬の念を持たなくなった国民は盗賊行為について罪悪感を覚えなくなっていたようである{{Sfnp|松本|1998|p=269}}。略奪者は警備員を買収し、盗掘を行うようになった。ラメセス9世治世17年には、たった40年前ほどのラメセス3世妃の墓すら荒らされてしまっていたのである{{Sfnp|屋形|1998|pp=523-525}}。 |
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====== 権力の移行 ====== |
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しかしながら、社会情勢が混乱しているにも拘わらずラメセス9世はデルタ地帯(ペル・ラメセス)にあって平和に暮らしていたのではないかと考えられている。王自身は下エジプトに建築物を残しているが、実際の権力はテーベのアメン大司祭が握っていたようである{{Sfnp|松本|1998|p=270-271}}。 |
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[[ファイル:Karnak15 b.jpg|right|thumb|アメン大司祭アメンホテプ(左)と、ラメセス9世のレリーフ。アメン大司祭が王とほぼ同じ大きさで書かれていることに注目。]] |
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右の図のように、アメン大司祭が王と同じ大きさで描かれることも黙認されるようになった。この原因として、実際にはアメン大司祭の方が大きな権力を持っていたからだと考えられる{{Sfnp|松本|1998|p=270-271}}。 |
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ラメセス11世の死去とともに、イアフメス1世より480年余り続いたエジプト新王国時代は終焉を迎えた。 |
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=== 第3中間期以降 === |
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==== アメン大司祭国家 ==== |
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[[ラムセス11世|ラメセス11世]]の治世19年、アメン大司祭{{仮リンク|ヘリホル|en|Herihor}}はテーベを自身が支配できていると確信。ヘリホルは、ラメセス11世の兄妹{{仮リンク|ネジェメト|en|Nodjmet}}を妻に迎え、王家とのかかわりも持っていたのであった。彼は王権の形骸化にかこつけ、ラメセス11世を無視して新たな年号「ウェヘム・メスウト」{{Efn|1=翻字:wHm=mswt, 直訳:repeating births(誕生の更新)}}を制定。さらに、テーベの再建にも取り組み、先の時代に盗掘された墓のミイラを集めてセティ1世墓に改めて葬りなおし、盗掘者も逮捕し厳しい刑を科した{{Sfnp|松本|1998|p=274-277}}。 |
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また、王と同等の権限を持ったヘリホルは、儀式で用いるためのレバノンスギを調達してくるようウェンアメンという者に命じた。ウェンアメンは幾多の困難を乗り越え、何とか目的を果たすことができたようだが、その道中では外国人に対等に接してもらうことができなかった{{Efn|なお、これらの事実は「ウェンアメン航海記([[:en:Story of Wenamun|en]])」に記されている。}}。このことより、エジプトの国力の低下が対外的にも現れており、この後のエジプトへの外国人による侵入の兆候を見ることができる{{Sfnp|松本|1998|p=274-277}}。 |
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ヘリホルは新紀元(ウェヘム・メスウト)7年までには亡くなるが、上エジプトはアメン大司祭が治めるという仕組みを作り上げた。テーベ王朝・[[アメン大司祭国家]](アメン神権国家)の成立である{{Sfnp|松本|1998|p=274-277}}。 |
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==== 第21王朝 ==== |
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一方北では、軍司令官で下エジプトの宰相であった[[スメンデス1世]]が都をペル・ラメセスから自身の任地、サイスに移し、第21王朝を開いた。このころは第3中間期と、「混乱期」の分類がされているが、実際にはスメンデス1世は、前述のウェンアメンの航海の時にも援助をしているなどアメン大司祭国家と良好な関係を持った。またスメンデス1世が、カルナック神殿の一部が水浸しになったとき、3000人の労働者を派遣している記録も残されている{{Sfnp|松本|1998|p=281-282}}。[[File:Golden Mask of Psusennes I.jpg|thumb|プスセンネス1世の黄金のマスク。なお、彼の墓はエジプトの王で唯一完全未盗掘であった{{Sfnp|松本|1998|p=288}}{{Efn|有名なツタンカーメンの墓は2度第20王朝ごろに盗掘に入られている。}}。]]これらの政治的つながりに加え、婚姻でも関係を結んだ。スメンデス1世の死後はヘリホルの息子、[[アメンエムニスウ]]が継ぎ、アメン大司祭職はパネジェム1世が得る。しかし、このパネジェム1世の息子が次の第21王朝ファラオ、プスセンネス1世である説もあるほど、密な婚姻関係が結ばれていたようである{{Efn|アメン大司祭国家は第21王朝と複雑な婚姻関係を結んでおり、その全容は明らかになっていない{{Sfnp|松本|1998|p=282}。}}}}。 |
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==== 第22王朝 ==== |
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[[ファイル:Karnak_Tempel_19.jpg|左|サムネイル|シェションク1世がパレスティナ遠征によって征服した都市・部族のリストのレリーフ{{Sfnp|松本|1998|pp=293}}。]] |
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第21王朝のプスセンネス2世の後は、リビア人傭兵の[[シェションク1世]]が継いだ。ここで、彼は革新的な政治的行動をする。息子イウプト{{Efn|第23王朝の[[イウプト1世]]とは別人である。}}をアメン大司祭につけ、アメン神殿の仕組みを通してエジプト全土を一人の支配下に置こうと画策したのである。さらに、イプウトは「軍の最高司令官」の称号を併せ持ち、軍をも統率した。加えて、アメン第3司祭・第4司祭、ヘラクレオポリス軍司令官にも血族を任命するなど、確固たる政治的基盤を築いた{{Sfnp|松本|1998|p=292-293}}。これは第18王朝などの王がしたような、王自身が専制的な君主として絶大な権力を持った方法と対照的であり、シェションク1世はアメン神殿や軍の力を借りて王権を維持したのである。 |
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シェションク1世には旧約聖書 歴代誌12:2, 12:9や列王記14:25-26に、王[[シシャク]]として記録されてあるようにエルサレムに攻め上り、数々の宝物と至宝「ソロモン王の金の盾」を奪い取るほど余裕があったのである{{Sfnp|松本|1998|p=292-293}}。 |
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以降はシェションク1世の息子[[オソルコン1世]]が後を継ぎ、王位が継承されてゆくがその中でもアメン大司祭は重要な職であり続けた。例えば、オソルコン2世に対してテーベのアメン大司祭ホルスィエセ{{Efn|翻字:Hr-zA-Ast, 意味:イシス女神の子ホルス{{Sfnp|松本|1998|p=301}}}}も王権を主張し、カルトゥーシュを使用するなどの事件もあった{{Sfnp|松本|1998|p=292-293}}。 |
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==== 第23・24王朝 ==== |
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その後、シェションク3世の治世8年、リビア人[[ペディバステト1世|パディバステト1世]]がデルタ地帯中部、レオントポリスに都をおき、王権を主張。第23王朝を興す。それに加え、第24王朝(記録されている王は2王だけである)も並立し、後の第25王朝と合わせて、エジプト本土に第22・23・24・25王朝が並立する時期が12年間存在するなど政治的に不安定な時代{{Sfnp|松本|1998|p=278}}であり、史実はつまびらかではない。 |
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==== 第25王朝 ==== |
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[[ファイル:Stele_Piye_Mariette.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|ピアンキの戦勝記念碑。中央に腰掛けるピアンキが、4つに分裂していた下エジプトの王権をそれぞれの支配者から受け取り、エジプト全土を統一したことを示している{{Sfnp|松本|1998|pp=308-309}}。]] |
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この状況を打開するのは、ヌビア人クシュ王国の[[ピイ (ファラオ)|ピアンキ]]であった。このころのヌビア人はアメン=ラー神を崇拝しており、外国人でありながらエジプトの文化・宗教を否定しなかったためごく短期間でテーベの政治・軍事・宗教の実権を握ることに成功した{{Sfnp|松本|1998|pp=306-312}}。第25王朝時代より、末期王朝時代に分類される。加えて、ピアンキは妹のアメンイルディス1世を在任中のアメンの聖妻の養女にし{{Efn|アメンの聖妻は生涯婚姻しなかっため、養女による継承が行われた{{Sfnp|松本|2020|p=20}}。次文の婚姻はおそらく例外である。}}、大司祭オソルコン3世に代わりアメン神殿の最高権力を手中に収めた。この後はシャバカア・シャバタアカア・タハルカ王の治世を通して安定していた。シャバタアカア王は前述のアメンイルディス1世と婚姻し、シャプエンウェペト2世を儲け、次のアメンの聖妻に就けた。シャバタアカアの弟タハルカ王も、自身の娘アメンイルディス2世をアメンの聖妻に就けることでテーベの支配権を得たのである{{Sfnp|松本|1998|pp=306-312}}。 |
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[[ファイル:El-Kurru_King_Taharqa_XXV_Dynasty.jpg|left|180px|thumb|タハルカ王像の頭部。丸い顔や幅広の大きな鼻などにヌビア人の特徴が表されている{{Sfnp|松本|1998|p=312}}。]] |
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第25王朝は、タハルカの甥、タアネトアメンの治世に崩壊を迎える。タハルカの治世20年、すでに数回エジプトに侵攻を繰り返していたアッシリアがとうとう主要都市メンフィスをも奪い、タハルカは南に退かざるを得なかった。アッシリアは第24王朝の末裔ネコ1世(エジプト語:ニィカアゥ1世)を擁立し、デルタ地帯を治めさせたのである。タハルカの後を継ぎ即位したタアネトアメンはすぐさまデルタ地帯に侵攻、ネコ1世を討ってメンフィスまで奪回する。しかしながら、前664年には[[アッシュルバニパル]]の攻撃でテーベまで墜ち、タアネトアメンは出身国であるクシュに引き下がるのであった{{Sfnp|松本|1998|pp=314-316}}。 |
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==== 第26王朝 ==== |
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アッシュルバニパルは自国が危うくなったため、ネコ1世の後継者、プサメチィク1世(プサメティク1世)にエジプトの管理を任せて撤退する。ここより第26王朝に区分される。しかし、プサメチィク1世はアッシリアからの独立を図る。彼は、娘を在任中のアメンの聖妻の養女にし、上エジプトの実権を握っていたテーベ市長に娘を嫁がせるなどして、やはり政治面より王権を確実にしたのである{{Sfnp|松本|1998|pp=318-326}}。 |
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次代ネコ2世の時代になると、エジプトは一時国力を盛り返す。前609年にはシリア・アッシリアに遠征し、旧約聖書列王記下 23:29 にあるように[[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]]においてヨシア王を殺し、ユダ王国を支配し朝貢を課している{{Efn|しかしながら、歴代誌上 35:20-24によると、ニィカアゥ2世はヨシア王を攻めようとはしておらず、ヨシア王が引き返そうとしなかったのでやむなく応戦したとある。}}。しかし、前605年にはバビロニアの[[ネブカドネザル2世]]がエジプトに臣従していたユダ王国を攻略し(第一回[[バビロン捕囚]])(列王記下 24:12, 歴代誌 36:6-7)、エジプト軍も打ち破ってしまう(エレミヤ書 46:2)。これによりエジプトのシリア・パレスティナ地方の支配はたったの4年で終わってしまった。ネブカドネザルはこれに乗じてエジプトを攻めようとしたが、辛くも防衛したようである{{Sfnp|松本|1998|pp=318-326}}。 |
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これを継いだプサメチィク2世も娘をアメンの聖妻の養女にするなど、アメン神殿との関係を強化することを怠らなかった。次のウアフイブラー(アプリエス)王は将軍イアフメス2世(アマシス)にクーデターを起こされ、幽閉後処刑された。あとを継いだプサメチィク3世も攻め込んできたアケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世を防衛することができずエジプトを征服され、これまた処刑されて第26王朝は終わることとなる{{Sfnp|松本|1998|pp=318-326}}。 |
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==== 第27~30王朝 ==== |
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第27王朝はペルシア支配の時代であり、エジプト人は大いに反発した。この原因として、今までのヌビア人などの外国人支配者たちはすべて「エジプト化」したのに対して、ペルシアはアラム語を広め、エジプト文化を尊重しなかったので国民の自尊心・愛国心を傷つけた。そのため、120年余りの支配で反乱が多発している{{Sfnp|松本|1998|pp=329-330}}。 |
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前404年、[[ダレイオス2世]]が死去するとそれに乗じてエジプト人アミュルタイオス(エジプト語:アメンイルディスウ)が王を名乗る(第28王朝)が、数年のうちにメンデス・第29王朝のネフェリテス1世(エジプト語:ナアイエフアアウルジュ1世)に処刑されてしまう。彼は王位を正当化するために架空の祖先・家系を作り出し、記録したのであった{{Sfnp|松本|1998|pp=332-335}}。 |
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[[ファイル:Nectanebo_I_with_khepresh_crown.jpg|サムネイル|229x229ピクセル|ネクタネボ1世像頭部。]] |
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しかし第29王朝も、前380年に将軍[[ネクタネボ1世]](エジプト語:ナクトネブエフ)がクーデターを起こしたため、20年未満で倒れる。ネクタネボ1世は、同じくクーデターを起こし政権を奪取した中王国のアメンエムハト1世とは違い、むしろ武力によるクーデターを誇った。この背景には、外国人侵攻の危機にさらされていたエジプトでは、すでに武力を持つ者を王として認めざるを得ない状況であったと考えられている{{Sfnp|松本|1998|pp=332-335}}。 |
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加えて、ネクタネボ1世はエジプト風の即位名(ケペルカアラー)を名乗り、エジプト国内で建築事業を盛んに行い、人々に経済的安定をもたらした。彼は、伝統的な信仰を盛んにし、国民の愛国心に訴える方法で支持を得たのである。しかしながら1代後の[[ネクタネボ2世]](エジプト語:ナクトホルヘビィト)の時代、前343年に再びペルシアのアルタクセルクセス3世に支配されてしまうことで、エジプトで2500年以上続いた王朝時代は終焉を迎えたのであった{{Sfnp|松本|1998|pp=332-335}}。 |
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第30王朝以降、エジプトは将校団を率いた[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]が1952年に開放するまで、実に2300年もの間、外国人に支配されることとなる。この2度目のペルシア支配(第31王朝とも)は短く、[[アルゲアス朝]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]が征服し、大王の将軍の一人[[プトレマイオス1世]]が即位。[[プトレマイオス朝]]が300年ほど統治し、[[クレオパトラ7世]]の崩御に伴い、エジプトは[[ローマ帝国|ローマ]]の[[属州]]として編入さるのであった{{Sfnp|屋形|1998|pp=530-531}}。 |
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== 宗教権力 == |
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宗教権力は政治的権力と密接に関係していた。王は「すべての神殿の最高司祭」とされ、神を直接祭祀できるのは王のみとされた。しかしながらこの原則は古代エジプトを通じて当てはまるわけではなく、アメン大司祭国家の成立に見られるように宗教権力が王をしのぐことはたびたびあった。 |
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=== ホルスとオシリス === |
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王の力はホルス神やオシリス神と強いかかわりがあった。現世では王はホルス神の化身であり、死すと冥界の支配者であるオシリスとなると考えられていた。この考えは第5王朝までにはすでに定着していたと考えられている{{Sfnp|松本|2020|p=92-96}}。 |
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初期王朝時代の王は「ホルス名」、例えば「ホル・アハ」のようにしか記されていなかった。この称号により、王は天に由来する力を持つホルスの化身となった{{Sfnp|スペンサー|2009|p=85}}。 |
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また、オシリスは神話において弟セトにより体をはらばらに切り刻まれてしまったが、イシス女神の力を借りてミイラとして復活する。ここから、王はオシリスとなって再生復活し、永遠に富むと考えられた{{Sfnp|松本|2020|p=92-96}}{{Sfnp|スペンサー|2009|p=86}}。なお、オシリスの護符ジェド(Dd)は柱の形をしており、「安定」を表す。王の五重称号にもジェドの言葉は用いられることがあった{{Sfnp|松本|2020|p=92-96}}{{Efn|例えば、ジェドカアラー・イセシ王や、トトメス4世のネブティ名「ジェド ネスィト ミーアトゥム(アトゥム神のように安定なる王権を持つ者)」が挙げられる。}}。 |
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== 装身具 == |
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{{Main|ファラオの装身具}} |
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=== 衣服 === |
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一般的な古代エジプト人は、細い糸で織った薄くて柔らかい亜麻布{{Sfnp|松本|1994|p=267}}でできた真っ白な服{{Sfnp|スペンサー|2009|p=268}}を着ていた。しかし、王が着用していた衣服は普通の人とは異なっており、糊付けされた豪華な前垂れや襞などの特別な装飾があったキルトを着用することがあったようである{{Sfnp|スペンサー|2009|p=95}}。 |
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しかし王は亜麻布も使用していたようであり、実際にツタンカーメンの墓からは亜麻布でできた腰布<ref>Carter No. 043f</ref>やショール<ref>Carter No. 101r</ref>、金のスパンコールで飾られた衣服<ref>Carter No. 046gg</ref>などが見つかっている<ref>{{Cite web |title=Griffith Institute: Carter Archives - Main Object List: 001-049 |url=http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/carter/ |website=www.griffith.ox.ac.uk |accessdate=2022-04-09}}</ref>。 |
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そのほかのベルトなどの装身具には色がついていたようである{{Sfnp|スペンサー|2009|p=268}}。 |
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また、王の腰帯「シェスメト」はシェスメテト女神([[:en:Shesmetet|en]])を象徴していた{{Sfnp|スペンサー|2009|p=95}}。 |
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=== 冠 === |
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ファラオは上エジプトを象徴する白冠と、下エジプトの赤冠を複合させた二重冠をつけることにより上下エジプトの支配権を示していた{{Sfnp|松本|1994|pp=142-143}}。しかし、レリーフなどには白冠または赤冠単体で描かれることもあった。この他にも、王はケペレシュ・ネメス・アテフ・シュウティなどの冠を状況に応じて被った{{Sfnp|松本|1994|pp=142-143}}。 |
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=== 杖 === |
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ファラオはさまざまな種類の杖とともに描かれた。ミイラの蓋などでは、両手にそれぞれ上エジプト、下エジプトの象徴である牧民の杖ヘカと農民の竿ネケクを持った姿であった。また、壁画などに描かれる際は支配・統治の象徴であるウアス杖やこん棒であるヘジュを持つ場合もあった{{Sfnp|松本|1998|p=15}}{{Sfnp|松本|1994|pp=142-143}}。 |
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== 葬送習慣 == |
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エジプト人は来世を非常に現実的な形でとらえており、各種の葬送習慣は「現世での暮らしを来世でも続けたい」との思いで発達していった{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=157-160}}。庶民でも新王国時代には手の込んだミイラが作られるようになったが、王の場合はそれ以前より永遠の命を実現させるための試みがされていた。 |
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=== 先王朝時代 === |
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このころ、墓とは地面に穴を掘って埋めるだけの簡素なつくりであったが、先王朝時代末期にはただの砂漠の穴が堅牢なつくりになり、遺体は棺に入れて葬られるようになった{{Sfnp|松本|1994|pp=111-112}}。 |
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エジプトが一つの統一国家となった初期王朝時代には、王の墓はアビドスに造られ、墓穴はレンガで補強されたためより頑強になった。地上には墓の位置を示すマスタバが作られ、王の名前が記されるようになった{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=157-160}}。 |
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=== 古王国時代 === |
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古王国時代には、神である王のみが死後も天空の神々の列に加えられて完全な生命を保持することができ、臣民は王に奉仕することによりこの永生の恩恵にあずかれるとされた{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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第3王朝のはじめ、王墓のデザインは劇的に変化を遂げる。ジェセル王が初めて地上のマスタバを大型化させ、階段ピラミッドを建造した。これにより、地下に広大な場所を確保できることになり、副葬品を納めたり他の王族を同時に埋葬できるようにもなった。ピラミッドには付属神殿があり、王が死したのちも君主としての役割を果たせるように王を祀る目的があった{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=157-160}}。 |
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{{quotation|1=天空への階段が彼(=王)のため設けられる。それによって天空に上るために|2=ピラミッド・テキスト267|3={{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}}} |
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とあるように、ピラミッドとは、王だけが昇天のための手段・特権を持つことを臣民に誇示したものであると言える{{Sfnp|屋形|1969|pp=61-70}}。 |
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[[ファイル:Unas_Pyramidentexte.jpg|サムネイル|ウナス王のピラミッド・テキスト]] |
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第5王朝末になると、王はピラミッドの中に独特の葬送文書を記載するようになった。これはピラミッド・テキストと呼ばれ、ウナス王のものが最も知られる。ピラミッド・テキストは王の再生を保証する呪文の集合体であり、王のピラミッドの内室の壁に刻まれる{{Sfnp|屋形|1969|p=66}}。 |
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ピラミッド・テキストが刻まれるようになった経緯は、王権の弱体化に関係している。それまでは、王は神として永遠の生命を得て死後も天に存在し続けると考えられ、そのために伝統的で複雑な儀式が行われていた。しかし、王権の弱体化にともないそのような儀式がおろそかになっていった。加えて、この時代には先王の墓は盗掘され、永遠の安寧が望めなくもなった。この危機に対処するため、墓に葬儀で唱えられる言葉や呪文を記し、聖なる言葉による呪力で盗掘をも防ぎ、来世での復活を願ったと考えられる{{Sfnp|松本|1998|pp=85-87}}。 |
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=== 中王国時代 === |
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ここにおいては、創造神はすべての人間を平等に作ったという原則が葬祭の場においても適用され、王と臣民の間に存在していた永生の質的相違は解消された。神王のためにのみ作られたピラミッド・テキストに対して、棺柩文は財力さえ許さば身分関係なく使用できたようである{{Sfnp|屋形|1969|pp=77-82}}。 |
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しかしながら、王はその権力を用い、庶民とは一線を画した葬送習慣を行った。例えば、第11王朝のメンチュホテプ2世は、ディール・エル・バハリに独特な葬祭殿を築いた。 |
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[[File:Temple-montouhotep.jpg|left|thumb|メンチュホテプ2世葬祭殿の復元図。{{Harvtxt|スペンサー|2009}}で言及されているような地上建築物はここには描かれていない。]] |
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葬祭殿は一段高くなった場所に築かれ、周囲には地上建築物としての正方形のマスタバが配置された。本当の墓は長い回廊を進んだ先の崖下に築かれたのである。 |
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これに倣い他の王もこのタイプの墓の建造を計画したが、どれも完成には至らなかったようである。この時代は、ピラミッドがエジプト人により最後に建造された時代にあたるが{{Efn|第25王朝には、ヌビア人がナパタやメロエに小規模なピラミッドを築いたが、傾斜はエジプトのものより急であった。ギザのピラミッド群に感銘を受けて建造した可能性が示唆されている{{Sfnp|松本|1998|p=309, 311}}。}}、規模でも建築技術でも古王国時代に劣っていた。しかし、崩れないよう墓室は非常に硬い建材を用いて、細心の注意を払って建造された模様である。 |
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=== 新王国時代 === |
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中王国時代のピラミッドでは、どんなに対策をしても盗掘を防ぐことができなかったため、18王朝の初期にはピラミッドは造られなくなった。代わりに、第18王朝3代トトメス1世より墓は王家の谷に造営されるようになった。墓は地下深くまで掘った複数の回廊と部屋からなり、内部は壮麗な壁画で埋められた。しかしこれは装飾用であったらしく、葬祭の場は墓より少し離れた場所に移された。トトメス3世葬祭殿などが好例である。しかしながら、結果的にKV62のツタンカーメン墓を除いてすべて盗掘されてしまい、王たちの死後の安住の地とはならなかった{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=157-160}}。 |
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=== 第3中間期以降=== |
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新王国時代以降はより費用のかからないよう、ナイル・デルタにある大規模な神殿複合体の中に作られた。例えば、第21, 22王朝の王の一部はタニスにあるアメン神殿の地下室に葬られ、埋葬所の真上にレンガ造りの葬送礼拝所を作らせている。他にも、第26王朝のサイス、第29王朝のメンデスでも同様に埋葬されたようであるが、どれも破壊されてしまった。プトレマイオス朝の王家の墓はアレクサンドリアにあった模様であるが、今もその詳しい場所は特定できていない{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=157-160}}。 |
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== 文化 == |
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=== 称号 === |
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{{Main|五重称号 (古代エジプト)}} |
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ファラオは5種類の称号、ホルス名・ネブティ名・黄金のホルス名・即位名・誕生名を持っており、これらはまとめて[[五重称号 (古代エジプト)|五重称号]]{{Sfnp|スペンサー|2009|p=98}}と呼ばれる。しかし、初期王朝時代より5種類あったわけではなく、王権観の変化に伴い次第に増えていったのであり、5つすべてが同時に用いられるようになるのは中王国時代のことである。もっとも古くからある称号はホルス名であり、最も古いファラオの中にはホルス名でしか知られていない者もいる{{Sfnp|松本|1998|pp=12-13}}。 |
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=== 婚姻 === |
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ファラオは複数の妻を持つことができた。古代エジプトでは、男性は複数の妻を持つことができたが、その記録は少なく、実例はトトメス3世、アメンホテプ3世、ラメセス2世、ラメセス3世など一部にとどまる{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=18-19}}。 |
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=== 王位継承 === |
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古代エジプトでは、基本的に男性のみがファラオになることができた{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=18-19}}。この理由として、王は地上では太陽神としてふるまうが、その太陽が男性名詞であるからだと{{Harvtxt|スペンサー|2009}}は推測している{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=18-19}}。この慣習は非常に強く、ハトシェプストなどのエジプトを実質的に支配した数少ない女王でさえ、女王ではなく王を名乗り、付けひげを付けるなどして男として振舞っている。なお、行政機関や神殿の聖職者の地位もすべて男性が独占した{{Efn|しかしながら、{{Harvtxt|スペンサー|2009}}によると、女性は男性と法的に平等であり、離婚は妻からでも夫からでも言い出すことができた可能性がある。さらに、経済的にも平等であり、第13王朝に織物工場を所有していたセテブティシという女性が存在していたことが分かっている{{Sfnp|スペンサー|2009|pp=19-21}}}}。 |
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エジプトの王位継承権は時代ごとに認識の変化がみられるが、通例王の長男が保有していた。例えば、古王国時代には、フニ→スネフェル→クフ→ジェドエフラーなど、父から息子への王位継承が確認できる{{Sfnp|松本|1998|p=56, 62, 68}}。しかし、シェプスエスカフ(シェプセスカアエフ)王が治世4年で死去し直系が断絶した後は、メンカアウラーの王女であるケントカアウエスに王位継承権が移り、ケントカアウエスとジェドエフラーの孫であるウセルカアフ(ウセルカアエフ)が王位に就いた{{Sfnp|松本|1998|pp=76-77}}。このように、王位継承権を持つ女性と婚姻することにより王位を主張する例は、古王国時代ではウナス王の娘、イプウト1世を娶り王位に就いたテティ{{Sfnp|松本|1998|pp=89}}、新王国時代では、前王アイの娘ムウトネジェメトを娶ったホルエムヘブ{{Sfnp|松本|1998|pp=226-227}}にもみられる。 |
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==== アメンの聖妻 ==== |
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女性がより王位継承に関わるようになるのは、新王国時代のことである。中王国時代以降、前述のようにアメン神は国家神として王に厚く崇敬された。アメン神の加護により、王は遠征を成功させることができたとされたのである。ヒクソスを駆逐し、統一を果たした第18王朝王家にとって、自身の王位の正当性を強調することは非常に重要であった。ここで、王妃と王に姿を変えたアメン神との子を次の王とすることで、アメン神の血を受けつぎ王は神性を持つとされたのである{{Sfnp|松本|1998|pp=160}}{{Sfnp|松本|2020|pp=19-20}}{{Sfnp|屋形|1998|pp=464-465}}。なお、第5王朝に同様の論理が展開されている(ただし神は太陽神ラー){{Sfnp|屋形|1969|pp=67-68}}。 |
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このとき、王妃は「アメンの聖妻」{{Efn|神の聖妻{{Sfnp|松本|2020|pp=19-20}}、アメンの聖なる妻{{Sfnp|屋形|1998|pp=464-465}}とも。}}と呼ばれ、神の血統の純粋性を保つためには、正妃は嫡出の王女、すなわち王は同じ正妃より生まれた姉妹と婚姻することが理想とされた{{Sfnp|松本|1998|pp=160}}{{Sfnp|屋形|1998|pp=464-465}}。もし正妃より男子が生まれなかった場合は、庶出の男子が嫡出の女子と婚姻することにより王位を継承したのである{{Sfnp|屋形|1998|pp=464-465}}。 |
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しかしながら、男性優位が揺らいでいるわけではなく、女性であるハトシェプストが即位するときには、自身の「アメンの愛娘」という神聖な血統を証明するため、神殿の壁に自身がアメン神の子であることを示すレリーフを彫らせるなどの努力をしている{{Sfnp|松本|1998|pp=174}}。それでも、後世の王名表(例えばアビドス王名表)には王として記録されていないことや、王家専用のネクロポリスである王家の谷に葬られていないことなど、男性のみがファラオを名乗ることができるという事実は変わりなく存在していたのである{{Sfnp|松本|1998|pp=180}}。 |
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== 後世 == |
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=== 王名表 === |
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一部のファラオは自身の神殿(葬祭殿含む)に過去の王名を記した表を彫刻し、自身の王位の正当性を強調した{{Sfnp|松本|1998|p=11}}。これらを王名表といい、[[パレルモ石|パレルモ・ストーン]]、{{仮リンク|カルナック王名表|en|Karnak King List}}、{{仮リンク|アビドス王名表|en|Abydos King List}}などが有名である。また、[[トリノ王名表]]や{{仮リンク|サッカラ王名表|en|Saqqara King List}}のように、王族以外の人物によって記載されたものもある{{Sfnp|松本|1998|p=11}}。これらは、歴史の流れを見るうえで非常に貴重な資料となっている。 |
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=== 聖書中のファラオ === |
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古代エジプトの時代と旧約聖書が編纂された時代は重なる部分があり、旧約聖書中にファラオは「パロ」として記述されている。そこにおいては民を虐げる圧政者、ユダヤの神に従わない者と描かれている<ref>出エジプト記 7:22, 8:15, 8:32, 9:7, 9:23-35</ref>。 |
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=== 前近代のイスラーム教徒のファラオ観 === |
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[[アラビア語]]でファラオは、おそらく[[シリア語]]か[[アムハラ語]]からの借用語と推定される「フィルアウン」({{transl|ar|fir‘awn}}, 複数形は {{transl|ar|far‘īna}})という<ref name="EI2-fir‘awn">{{EI2|title=Fir‘awn |last=Wensinck |last2=Vajda |volume=2 |pages=917-918 }}</ref>。この「フィルアウン」には、端的に言って、「無慈悲な暴君」の意味合いがある{{r|EI2-fir‘awn}}。[[イスラーム教]]の聖典『[[クルアーン]]』において「フィルアウン」の語は全部で74回出現するが<ref>{{cite web|url=https://corpus.quran.com/search.jsp?q=con%3Apharaoh |title=Quran Search |website=corpus.quran.com |accessdate=2021-04-16 }}</ref>、特に2章47節から52節あたりには、『[[出エジプト記]]』において[[モーセ]]や[[イスラエル人]]に迫害を加えるファラオと同一視される、男児の殺害を命じるファラオ、海の底に沈むファラオについての描写がある{{r|EI2-fir‘awn}}。10章90節から92節あたりには、同じく海の底に沈むファラオが改心の言葉を口にするも[[一神教の神|神]]に拒絶される描写がある{{r|EI2-fir‘awn}}。前近代のイスラーム教徒が持つ否定的なファラオ観は、クルアーンに依拠するところが大きい{{r|EI2-fir‘awn}}。 |
[[アラビア語]]でファラオは、おそらく[[シリア語]]か[[アムハラ語]]からの借用語と推定される「フィルアウン」({{transl|ar|fir‘awn}}, 複数形は {{transl|ar|far‘īna}})という<ref name="EI2-fir‘awn">{{EI2|title=Fir‘awn |last=Wensinck |last2=Vajda |volume=2 |pages=917-918 }}</ref>。この「フィルアウン」には、端的に言って、「無慈悲な暴君」の意味合いがある{{r|EI2-fir‘awn}}。[[イスラーム教]]の聖典『[[クルアーン]]』において「フィルアウン」の語は全部で74回出現するが<ref>{{cite web|url=https://corpus.quran.com/search.jsp?q=con%3Apharaoh |title=Quran Search |website=corpus.quran.com |accessdate=2021-04-16 }}</ref>、特に2章47節から52節あたりには、『[[出エジプト記]]』において[[モーセ]]や[[イスラエル人]]に迫害を加えるファラオと同一視される、男児の殺害を命じるファラオ、海の底に沈むファラオについての描写がある{{r|EI2-fir‘awn}}。10章90節から92節あたりには、同じく海の底に沈むファラオが改心の言葉を口にするも[[一神教の神|神]]に拒絶される描写がある{{r|EI2-fir‘awn}}。前近代のイスラーム教徒が持つ否定的なファラオ観は、クルアーンに依拠するところが大きい{{r|EI2-fir‘awn}}。 |
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19世紀に[[エジプト学]]が発展し、古代エジプト文明に関する知識が増大すると、伝統とは異なるファラオ観も現れた{{r|三代川2016}}。現代のエジプト人は古代エジプト人の直系の子孫であるという立場に立ち、古代エジプトが担っていた世界に対する指導的役割や卓越した地位を取り戻そうとする「ファラオ主義」が、教育を受けたエジプトの一部のエリートの間で主張された<ref name="三代川2016">{{cite journal|和書|journal=オリエント |volume=58 |issue=2 |pages=184-195 |date=2016-03-31 |title=20世紀初頭におけるコプト・キリスト教徒のファラオ主義とコプト語復興運動 イクラウディユース・ラビーブの『アイン・シャムス』の分析を中心に |last=三代川 |first=寛子 |doi=10.5356/jorient.58.2_184 }}</ref>。 |
19世紀に[[エジプト学]]が発展し、古代エジプト文明に関する知識が増大すると、伝統とは異なるファラオ観も現れた{{r|三代川2016}}。現代のエジプト人は古代エジプト人の直系の子孫であるという立場に立ち、古代エジプトが担っていた世界に対する指導的役割や卓越した地位を取り戻そうとする「ファラオ主義」が、教育を受けたエジプトの一部のエリートの間で主張された<ref name="三代川2016">{{cite journal|和書|journal=オリエント |volume=58 |issue=2 |pages=184-195 |date=2016-03-31 |title=20世紀初頭におけるコプト・キリスト教徒のファラオ主義とコプト語復興運動 イクラウディユース・ラビーブの『アイン・シャムス』の分析を中心に |last=三代川 |first=寛子 |doi=10.5356/jorient.58.2_184 }}</ref>。 |
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== 現 |
=== 現代 === |
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現在では、「ファラオ」という語には、エジプトの歴史的な支配者<ref>Oxford Advanced Learner's Dictionary "pharaoh", 9th edition, OXFORD UNIVERSITY PRESS, 2015</ref>という意義の他に、専制的な国王や酷使者<ref>リーダーズ英和辞典 第3版 "pharaoh", 2016年, 研究社.</ref>、暴君<ref>ウィズダム英和辞典 第3版 "pharaoh", 2013年, 三省堂</ref>なども表すことがある。例えば、ムバラク大統領は、批判的に「ファラオ」と呼ばれた<ref>{{Cite web |title=Egypt’s Hosni Mubarak, ‘pharaoh’ president ousted during Arab Spring, dies at 91 |url=https://fortune.com/2020/02/25/egypt-hosni-mubarak-pharaoh-president-arab-spring-dies/ |website=Fortune |accessdate=2022-03-27 |language=en}}</ref>。 |
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{{節スタブ}} |
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しかしながら、サッカーエジプト代表チームは、「ファラオズ」という愛称を持っており、肯定的に使用される用例もある<ref>{{Cite web |title=The day it all started for Ad-Diba and the Pharaohs |url=https://www.fifa.com/news/origin1904-p.cxm.fifa.comthe-day-it-all-started-for-ad-diba-and-the-pharaohs-2867512 |website=www.fifa.com |accessdate=2022-03-27 |language=en}}</ref>。 |
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現代[[エジプト]]では、「民を虐げる圧政者」という意味で使用されることがある。例を挙げれば元大統領[[ホスニー・ムバーラク]]がファラオ(フィルアウン)と呼ばれた。一方で、[[サッカーエジプト代表]]をファラオズというニックネームで呼ぶように、肯定的なイメージで用いられる場合もある。 |
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== 脚注 == |
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ファラオの[[デオキシリボ核酸|DNA]]の調査報告において、人種は公表されていない。 |
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== 脚注・出典 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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=== 参考文献 === |
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* {{Cite book|和書|author=|date=2014|title=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=小学館|ref={{sfnref|ニッポニカ|2014}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=中山 伸一, 杉 勇, et al.|date=1969|title=岩波講座 世界歴史1|publisher=岩波書店|chapter=7-二:土地所有(公的土地所有)|pages=242-260|ref={{sfnref|中山|1969}}}} |
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== 関連項目 == |
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* [[ファラオの一覧]] |
* [[ファラオの一覧]] |
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* [[五重称号 (古代エジプト)| |
* ファラオの[[五重称号 (古代エジプト)|五重称号]] |
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* [[蛇形記章]] |
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* [[兄弟姉妹婚]] |
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2022年4月9日 (土) 15:19時点における版
ファラオ(英: Pharaoh)とは、古代エジプトの王を指す称号である。この語は第18王朝のトトメス3世の時代に使われ始めたものである[1][注釈 1]が、近代では全ての時代で、エジプトを支配した王を一般的に表す。
ファラオは、古代エジプト人の秩序観で美術・文学・宗教と並んで欠かすことのできない中心的要素を構成しており[2]、古代エジプトの国家において政治的・宗教的にどちらも最高の権力を有していた[3]。これは、ファラオの「二つの土地の所有者」と「すべての神殿の最高司祭」という称号に表れている[3]。
政治的には、名目上エジプトのすべての土地を所有し、法律を制定し、税金を徴収し、軍の最高司令官として国家を侵略者から守る役割を果たしていた[4][5][3]。ファラオは上下エジプトの統合の象徴である二重冠をかぶり、全エジプトを代表する存在とされた。
また宗教的には、ファラオは儀式を主催し、神々を祭る神殿を建築した[3]。また、王は世界を創造し、宇宙の秩序マアトを定め、これを維持してエジプトの繁栄を保証する神ラーの化身とされた。ファラオは現人神として、神と人々の間の仲介者と見なされていた[5]。現世において神の化身であった王は、死後は神々の一員に加わり永遠の生命を得るなど、数々の特権を有していた。
この項目では、「ファラオ」という言葉が指し示す対象である、古代エジプトの王について包括的に記述する。
語源
ペル・アア 翻字:pr-aA 翻訳:大きな家 ヒエログリフで表示 | ||
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「ファラオ」という言葉は「大きな家」を意味する語ペル・アアがギリシャ語化したものである[6]。
初期王朝時代には、王はホルス名で記されたが、その名前はホルスである王が王宮で健康に暮らしていることを示すため、王宮を表す枠(セレク)で囲われた。ここより、王宮そのものも王に敬意をしめすのに都合のよい呼び名とされるようになった。この意義より転じて、王が「ペル・アア」と呼ばれるようになるのは新王国時代だと言われる[2]。
時代が下り、ギリシャ人と交流を始めた末期王朝時代以降では、エジプトにおいて王を指す一般的な語が「ペル・アア」であったため、より全時代的な王の名称「ネスウト(nswt. 王そのものを示す)[注釈 2]」ではなくペル・アアが輸入されたと考えられる[8]。
王権
古代エジプトにおいて、王とは「良き神[注釈 3]」として神の化身とされた。この神権をもって王は強力な中央集権国家に君臨し、この「神王理念」は王朝時代を通じて常に維持された[10]が、しかし時代とともに変化が見られた。この節では、主に時代ごとのファラオが持つ王権について解説する。
黎明期
上下エジプトでは、ナカダI期に住居の大型化および分業体制の成立、II期に集落から町への発展があった。ナカダII期に形成された集落はその後の州(ノモス)の原型となるが、このとき交易も活発化しており、メソポタミア方面より文化が流入した。さまざまな証拠により、川村 (1969)は先進的なメソポタミアの文化要素が、ナイル川流域で蓄積された文化に強い刺激を与え、エジプト王朝文化成立に大きな力になったと見ている[11]。
この文化的素地に加え、ナカダI期末に起こった気候の悪化は権力が町の代表者に集中する要因となった。気候的変化は、気温の上昇とナイル川の水位低下をもたらし、成長した町の大きな脅威となった氾濫後の土地をできるだけ有効活用するためには、大規模な事業を起こし、組織的に水の管理が行わなければならなかった。そのため、広範な共同体が一致して行動し、責任ある王のもとで運河を開通させるなどの対応が必要であったのである[11]。
前40世紀末ごろには、ナイル川流域の上エジプト王国とデルタ地帯の下エジプト王国による国土二分状態が発生する[12]。なお、一貫的に統一しやすい条件を持った上エジプトに比べ、分散的なデルタ地帯(下エジプト)は統一が遅れていたようである[11]。しかしながら、紀元前31世紀ごろ、ナルメル王によって上下エジプトが統一され、統一国家が成立した[13][11]。
結論として、エジプトでは農耕を始めた時より常にナイル川の氾濫が生活に密接に関係しており、労働力を集中的に行使するため、強大な権力と責任のある王のもとでの統一国家の成立が必要であったと考えられている[11]。
初期王朝
ナルメル王によって上エジプト王国による下エジプト王国の征服が完了する。なお、有名なナルメルのパレットはこのことを記念して奉納されたものとみられている。パレットには、上エジプトを象徴する白冠と下エジプトの赤冠をそれぞれ着用したナルメルが描かれ、ナルメルが両国の王となったことを表している。ところで、アビドス王名表の一番目に書かれている王名は「メニ[注釈 4]」であるが、これをナルメルに推定する説が主流である。よって以下ではメニとナルメルは同一人物として記述する[注釈 5]。ナルメルは統一王国の首都として、上下エジプトの境界にあるイネブ・ヘジュ(白い壁とも。現メンフィス)を建設した。
このような連合国家においては前述した灌漑水路の統制権力を通じて、王権が形成されたと言えるが、実際には主として宗教的権威が強かったようである[15]。すなわち王は王家の出身地ティニス地方の守護神である鷹神ホルスの化身とされていた[16]。同様の鷹神は下エジプトにおいても信仰されていたため、征服された側の下エジプトにも容易に受けいれられたようである[15]。
この鷹を王は宮殿を模した枠であるセレクの上に配置した。これが「ホルス名」である。
さらに、王国の統一を記念して王の第二名である「ネブティ名」が加えられる。これは二柱動物化した女神からなり、それぞれが上下エジプトの象徴となっているため、王が両方の土地の守護神の化身であることを示したものである[15]。
しかしながら、第1王朝5代デン王の時に「上下エジプト王名(即位名)」が王の称号に加えられたことにより王権は一度強く変革する。ここでは、王はすでに神の化身とはみなされていない[17]。ここでは、王は上エジプトと下エジプトの「所有主」とされており、ここにて王は神の化身としての宗教的権威に加え、国土の所有者であるというより現実的な「政治的権威」をも持ち合わせた[17]。さらに、王位更新祭(セド祭)を慣例に反して[注釈 6]王主導で実行するなど、王の現実的権威が確立され、神王の理念が発展したと言える[17]。
この後王朝は第2王朝へと推移するが、ここで一つの王権にまつわる出来事が発生する。セト・ペルイブセン王の登場である。
この王は、初期段階はホルス名セケムイブを用いていたが、治世の途中にホルスではなく、戦神セトをセレクの上に置き(いわゆる「セト名」)ペルイブセンと名乗った。この理由については推測の域を出ないが、現実的な王権に対する上エジプトの伝統主義者による反動と見做せる。なぜならば、セトはもともと上エジプトのオムボスの神であり、上エジプトの首長たちがペルイブセン王を擁立して前時代的王権への復帰を画策したものと考えられる。しかしながら次王のカァセケムウィはホルスとセトを同時にセレクの上におき、セトの優位性が薄れた[17]。
その後古代エジプト文明を通じて、セト名を用いた王は一人もいないことより、王権の変化を目指す試みは失敗したようである[注釈 7]。
古王国
前期
第2王朝末期のセト信仰とホルス信仰の争いはホルス信仰が勝利をおさめ、神王理念はほとんど確立される。第3王朝初代王ジェセルが王の称号に加えた「黄金のホルス名」はこのホルス信仰の勝利を記念したものであると見られている[17][注釈 8]。ここで王をホルスの化身とみる考え方が復活するが、これは階段ピラミッドの出現に象徴されている。このような王個人のためだけの大葬祭建築物を建造するためには、当然強大な王権の確立が予想される。なお、このピラミッド建設事業は第4王朝においても継続される[17]。
第4王朝初代王スネフェルは王権をまたも変革させうる、太陽神ラーの要素を導入した。王は太陽神ラーの化身とされ、死するとラーとなって神々の玉座に就き、毎日太陽とともに大空を航行するとされた。ギザの三大ピラミッドを建造したクフ、カフラー、メンカウラーの時代は巨大な王墓(ピラミッドに象徴されるように王権は最大化され、名実とともに完成した[17]。
しかしながら、このヘリオポリス出身の神ラー信仰の興隆により、神王理念に基づく王権は挑戦を受ける。第5の称号「サア・ラー名(誕生名)[注釈 9]」の登場により、王の神としての性格は神に直接由来することが示されたが、ラーを王の上位に置いているのだから王権は後退したともとれる。このラー信仰が王権に影響を及ぼした最も顕著な例は第5王朝であり、そもそも開祖は太陽神ラーとヘリオポリス神官の妻との息子とされている。以降"ラー"の文言は規則的に王の誕生名を示し、そののちはほとんど必ずと言っていいほど王の即位名に登場する[17]。
ラーと、神王理念に基づく王権との力関係の逆転を示すのは、ピラミッドの大きさである。最大のクフ王の146.5mと比べて、第6第ニィウセルラー王のピラミッドは約50mであり、太陽神殿のオベリスクの高さは55mなのである。これを見るとラーに比べての王権の後退は明瞭である[17]。
後期
古王国時代末期の第5王朝後期から第6王朝になると、王は依然として「良き神」と呼びかけられているとはいえ、臣民と王との距離感は次第に埋められていった。官僚制度の発展とともに、役職は王からの直接委任であるという形が薄らぎ、官僚はみずからの力で現在の地位を勝ち取ったという意識を持ち始めた。こうした王権からの独立心は役職の世襲に表れ、特に王都から離れた地方においては州知事は赴任地に土着し、自らの宮殿さえ築くようになった。このような独立傾向を強めた州知事は「州侯」と呼ばれる[21]。
この州侯の権力増大に対し、王権の側より対抗措置が試みられた。その一つに、王家に忠誠心を持つ人物を「上エジプト総督」職に任命する行動である。しかしながら、この職も州知事に与えられ始め、この地位も実権を失い強大な州侯に対する名誉称号と化してしまった。第6王朝末期ペピ2世の長い治世[注釈 10]になると、王の無気力さとも相まって王権は地方分権化を抑制する手段を失い、州侯の割拠状態が決定的になった[21]。この王権の弱体化として、屋形 (1969)は四つの原因を上げる。
第一に、ピラミッドの建造である。王個人のための壮大なピラミッド及び付属神殿を王の代替わりごとに建造することは、国富を著しく浪費させた。クフ王などに挙げられる完全な石造建築技術を示す第4王朝の大型ピラミッドと、小型で建築水準も劣る第5王朝・第6王朝のものを比べれば、その差は一目瞭然である[21]。
第二に、葬祭財団の増加である。これは、一定面積の土地を指定し、その収入を持ち主の死後の供養のために確保するものであり、この土地は租税などが免除されたり、官僚などから保護された。よって、時代が進むにつれて多くの土地が葬祭財団の所有物になったため、租税が減少し、その代わり残りの土地にはより重い租税がのしかかる結果となった。加えて、神殿もこのような租税免除の特権を保証する権利があり、州侯が「神官長」の称号を獲得し地方神殿の管理権を得るにつれ、州侯の不輸・不入権の拡大に利用された[21][注釈 11]。
第三に、貴族が私的に所有地を持ち、整然とした分業体制を整えてものを生産していたことである。これは、高官貴族の独立心の経済的基盤となった[21]。
第四に、外国貿易の停滞がある。従来、外国貿易は王に独占されていた。エジプトは砂漠によって周辺地域から相対的に孤立しているため、国内から産出されない東部砂漠の金、シナイ半島の銅、レバノンスギなどは軍隊に護衛されて搬送されることが必要であった。この中で特にシナイ鉱山から得られる銅の独占の影響は大きかった。銅は鉄が普及するまで主要な金属であり[注釈 12]、銅製の道具がサッカラの王墓より発見されている。シナイ鉱山の独占が王家の経済的基盤を固め、軍事上の優越的地位を保証していたのである[25]。しかしながら、第6王朝末になると、これまで貿易関係にあった地方との軋轢が生じ始めた。例えば、ペピ2世はしばしばヌビアの反乱を鎮圧しなければならなかったようである。シナイ鉱山への砂漠路はベドウィンらによって脅かされ、西ではリビア人の活動が活発となった[21]。
これらの様々な外的要因により、エジプトの対外的な優越は失われ、主要交易路の断絶により王権は経済的・政治的に打撃を受けたのである[21]。
なお、ペピ2世の後はメルエンラー2世、ネチェルイルカアラー、ネチェリカアラー(通称ニトクリス)が継ぐがいずれも極めて短期の治世であり、業績も全く分かっていない。しかしながら、最後のニトクリスは女性であることが分かっており、これは後継者が絶えたことを示している。詳細は不明だが、ニトクリスをもって約500年にわたる古王国時代に終止符が打たれた[26]。
第1中間期
以上のような理由により、エジプトは国土分裂期である第1中間期に入った。この時期では、第6王朝の下で強まった地方分権化が決定的になり、メンフィス第7・第8王朝の王権は非常に弱体化し、各地に州侯が割拠した。第1中間期については資料が大変少なく推測の域を出ないが、屋形 (1969)によると、古王国の没落と第一中間期に際して、一種の社会革命が起こったという。以下は主に王権の視点より記述する。
社会革命
革命の主体は門番、洗濯人、パン・ビール職人などの古王国時代の下層民衆であった[27]。革命においては、官吏が殺害され、官庁は公開され、公文書は破り捨てられた。加えて国家の穀倉は解放され、王の陵墓も貴族の墓も破壊され略奪された。このように革命は旧来の司法・行政機構を廃棄し、社会的身分秩序を崩壊させた[27]。革命の結果、一種の寡頭政府が成立し、この政府は古王国末期の官僚体制に対する反省より権力によるあらゆる強制手段の放棄を基本方針としたという。しかしながら、これにより治安状況は極度に悪化し、殺人が横行した。王権の元となった灌漑水路の管理が放棄された結果、農業は停滞し食糧不足から飢饉が広がった[27]。この結果は、王権が社会秩序の安定に寄与していた役割の大きさを示しているといえる。
しかしながら、上エジプトでは世襲化した州侯の支配体制が確立しており、州侯は自らの支配領域の繁栄のために民衆の福祉にも力を入れたため、王権が低下しても州内の秩序は完全に維持できていた[27]。
この状況を打破しようとするメンフィス第8王朝は、州侯と王家との姻戚関係を強化しようとする弱い王権の姿を示しており、第8王朝の支配地域は2つの国土までは及ばず、メンフィス周辺のみに限られていた[27]。
混乱の中、独立した州侯が建てたヘラクレオポリスの第10王朝とテーベの第11王朝による、国土二分状態が発生した。およそ100年間両者は争い続けるが、この内戦はテーベ側の第11王朝第5代、メンチュホテプ2世の手によって終結し、2つの国土は再び統一された[27]。
中王国時代
古王国時代を「神権国家」とするならば、中王国時代は「庶民国家」であると杉勇は提唱する。一部の教育を受けた庶民層は王によって登用され、門閥貴族に対する勢力として、センウセレト3世の時代の王権強化につながった。しかしながら、庶民の地位向上も中央集権的国家体制を目指す王権側の意図と合致したから実現したのであり、中王国国家の本質はあくまでも「神王理念」である[10]。
王権観の変化
第1中間期の社会革命と神王の権威の失墜は、王権観の上に大きな影響をもたらした。王も人間であり、誤りやすい存在であることが認識され、批判の対象にすらなった。つまり、王の地位は権利のみならず、義務と責任を持つものであると考えられるようになった。具体的には、古王国時代には王には、「権威」と「悟性」に加えて、「正義」が要求されるようになった[注釈 13]。特に、「正義」の価値は永遠であるとされ、王は「造物主が彼に監督を委ねた全人類を油断なく見張るよき牧人」であるとの王権観が成立した。この第1中間期後期に成立した「王=よき牧人」とする新しい王権観は、中央集権国家に君臨する神王の理念が復活した中王国時代においても存続した[10]。
このような王権観の形成理由の1つとして、世襲貴族に対抗して中央集権化しようと試みる王権が「庶民」の支持を獲得しようとしたことである。治安状態が極めて悪かった第1中間期においては、庶民はみずからの安全確保のために防御システムが存在する町に集住するようになった。王はその民たちに一定の法的地位を与え、同業組合を組織させることによって国家の直接統制下におく政策を実行した。この民たちは財力を蓄え、文字を習得する者も現れた[注釈 14]。そのような文字の知識を獲得し、王を主人と仰ぐ庶民を積極的に官吏に登用することにより、王は世襲的な貴族に対抗する自らの支持勢力を育成したのである。この点で中王国時代は「庶民国家」と呼ぶことができると屋形 (1969)は言う[10]。
前期
中王国時代初期、再統一を果たした第11王朝の王権にとっての最大の課題は、地方諸侯の独立精神を抑え、王の下での協力な中央集権体制を構築することであった。メンチュホテプ2世は、内戦の終結に決定的な役割を果たした中エジプトの諸侯(例えば上エジプト第15州・第16州など)を無碍にできず、彼らを改めて州知事に任命し、旧来の特権の多くを認めざるを得なかった。しかしながら、そのほかの州においては、統一王権の実力を背景に州侯をほぼ完全に排除した。加えて、宰相をはじめとした中央政府の要職にはテーベ出身者を任命し、都から遠く離れた下エジプトを管理する「下エジプト総督」の地位には王族を任命し協力に全国を統制した。以上のような策が成功したことは、この時代の地方墳墓数が非常に減少したことにより示されている[10]。
後期
しかしながら、このような急速な中央集権化は当然のことながら地方の世襲貴族の反発を招いた。メンチュホテプ2世の後を継いだメンチュホテプ3世、メンチュホテプ4世はそれぞれ12年、7年ほどしか統治しておらず、王位相続において混乱があったことを示している。メンチュホテプ4世の後にはアメンエムハト1世が即位するが、この王より第12王朝に区分される。王朝は単一の家系及び重要な出来事の如何で区分されるが、アメンエムハト1世は、クーデターを起こして王権を奪取した可能性が高いとみられているからである[10][注釈 15]。
第12王朝初代アメンエムハト1世は、イチィ・タアウィに遷都するとともにクーデターの支持者とみられる世襲貴族の特権の多くを復活させた。中エジプトを中心に、「州の大首長」の称号が復活し、地方の有力貴族の多くが州知事に任命され、世襲化の特権も大幅に認められることとなった。なお、州知事相互の軋轢や、州統治領域の拡大を防ぐために、州の境界は明確に決められた模様である[10]。
しかしながら、このような貴族の特権は王権が力を蓄えるにつれ再び重荷となり、第12王朝第5代センウセレト3世の治世に、詳細は分かっていないが、王は行政改革を断行し世襲貴族を政治的にほとんど無力化することに成功した。以降は、地方の大型墓は姿を消し、「大首長」の称号も消滅した[10]
改革の成功要因として、「庶民」の登用や、灌漑水路統制法の成立のほかに、ファイユームの大規模な組織的開墾と対外貿易の振興があげられる。
開墾
ファイユームは最初のエジプト農耕文化発祥の地であったにも拘わらず、大部分が湿地帯であったため麦作には適さず、長らく不毛の土地であった[32]。ここで、第4代センウセレト2世はファイユーム付近の土地El Lahun(en)に水門や堤防を築き流水量を調節するとともに、灌漑水路の整備に乗り出した。復活した統一王権の元行われた大事業は第6代アメンエムハト3世の時代に完成し、中王国の繁栄は絶頂期を迎えた。耕地は飛躍的に増加し、ファイユームはエジプトの穀倉の地位を占めるに至った。開発は王の私的な努力の賜物とみなされたためファイユームは王領地となり、大いに国庫を潤し王権の基盤強化に貢献したのである[10]。
征服・貿易
第12王朝の前にも、第11王朝第5代メンチュホテプ2世は、国内の統一とともに国境線の安定化に乗り出し、下ヌビアや西部砂漠のヌビア人、砂漠のベドウィンなどを撃ち採石場・鉱山、貿易路の確保に努めていた。
しかしながら、第12王朝においてはより積極的な安定化が図られた。特にセンウセレト3世は、治世の前半ヌビアに親征しナイル川第2
このようにセンウセレト3世の治世には、中王国前半にも追求された中央集権的国家体制の回復が、完全に実現されたのである[10]。
第2中間期
第2中間期、エジプトは異民族であるヒクソスの支配を受けた。それに至るまで中王国の崩壊があったが、その詳細に関しては謎に包まれている。一つ分かっていることは、中王国第12王朝最後の王はセベクネフェルウという女王であったことだ。これは、後継者の不在、男系の断絶という事実を示している。
第13・14王朝
マネトはセベクネフェルウまでを第12王朝とし、それ以降を第13王朝と区分しているが、この第13王朝自体も単一の家系ではない非常に多数の王で構成されていた。一説によると、70~80年の間に約50人もの王が即位したと言われているが、一応は王位の継承は続いていたようである[33]。中王国時代、センウセレト3世に確立された優れた官僚機構のおかげで、職人集団も引き続いて活躍を続けているなどその生活には余裕すらあったのである[33]。しかしながら王権の弱体化に伴い官僚機構にも乱れが生じ、デルタ地帯の東側が王国より分離し、第14王朝が成立した。しかしながら第14王朝は非常に限られた支配領域しか持たず、弱小であったようである。
第15・16王朝
ここで、ヒクソスと呼ばれる人々がエジプトに流入した。彼らは国力が弱体化しつつあった中王国時代末期より、徐々にエジプトに定住しはじめ、しだいに大きな集団になった模様である。なお、ヒクソスというのは単一の民族ではなく、アジア人・ヘブライ人など多種にわたっていた[注釈 16]。
王権
アヴァリスを首都に構えたヒクソスは次第に南下を始め、第13王朝の首都イチィ・タアウィを掌握し、王家を上エジプトに追いやるが、しかし官僚たちはとどまってヒクソスに仕えたようである[33]。ここでも、官僚機構が引き続き王権の一助となったことが推察できる。第3代キアン王は一時的に上エジプト全体を掌握したが、これを直接の統治することはなく、各地に分立した州侯に貢納を義務付ける一種の封建体制を敷き、宗主権を行使した[34]。
この権力の源は、馬・戦車・複合弓・青銅製の剣など従来エジプトで知られていなかった武器の使用を背景とする圧倒的な軍事力と、少数の戦士階級による支配体制であった[34]。
独立戦争
しかしながら、第17王朝のテーベの支配者たちはヒクソスを駆逐してテーベを再び国土の中心に据えようとする野望に燃える。彼らは、高い軍事力を持つヒクソスに対抗するため、十分に養成された戦士階級による軍隊を編成する必要を痛感し、軍事力の増強に努めた。こうして、第17王朝の下に、のちにエジプト史上最大の繁栄を誇る帝国を築き上げるための根幹をなす、軍事国家体制が構築されていったのである[34]。
ここでは王権という観点で見るため独立戦争の詳細にはあまり触れないが、第17王朝第8代セケンエンラー・タア王はヒクソスに対して独立戦争を挑んだ。王は戦争の途中で斃れるが、遺志を継いだカアメス・イアフメス1世両王は解放戦争を続け、ついにイアフメス1世によってアヴァリスが占領され国土の再統一が完成する。それだけにとどまらず、王はさらに進軍し、南パレスチナのヒクソス最後の拠点シャルヘンをも占領し、ヒクソス勢力を完全に粉砕する。このイアフメス1世による再統一をもって、新王国時代第18王朝の開始とする[34]。
新王国
第18王朝
新王国時代、特に第18王朝における国家の根幹は、前述したように圧倒的な軍事力であった。特に、トトメス3世は王自身が錬成された軍隊を率いて精力的に親征に赴いた結果、史上最大の帝国を築き上げることになる。
アメン神と王権
アメン神はもともとはテーベの一地方神であった[35]が、王朝がメンフィスではなくテーベに都をおき、中王国時代アメン神を奉るアメンエムハト1世の系統が王位に就いたことも相まって、メンチュ神に代わり急激にその地位を高めた[36]。太陽神ラーと習合してアメン=ラーとなり、王朝神から国家神へと格が上昇し[35]厚く祀られるようになった[36]。
第18王朝王家は、アメン神官団と密接なかかわりがあった。宗教的地位の例としては、初代王イアフメス1世の妻、イアフメス・ネフェルトイリ[注釈 17]の家柄は「アメン第2司祭」を世襲しており、その権利を婚姻に伴いイアフメス1世に譲渡したことが知られている[35]。
実際にも、アメン神の加護は度重なる遠征の勝利と大帝国の建設をもたらしてくれた存在だと信じられていた。よって、王たちはその感謝を目に見える形で表明せねばならなかった。例えば、カルナック神殿の増築や捧げられた豪華な供物をはじめとした莫大な量の寄進は、そのための最良の手段とされた[35]。少し時代は下るが、新王国第19王朝、ラメセス3世の時代にはテーベのアメン神殿群の奴隷の所有率は全神殿群の80.36%、土地保有率は全神殿群の80.73%とアメン神殿がもつ財力が突出して著しいのがわかる[37][注釈 18]。
これらの財力に加え、アメン神官団は王に対して強い影響力を持っていた。例えば、トトメス3世は、アメン神殿に勤務していた時、ある祝祭において神輿の行列が自分の前に止まったことで、次代の王に選任するという神の意志が表明されたとしている[35]。これは、神官団が王位継承をも左右する力を有していたことを示唆している[35]。
王権の反発
しかしながら、このような強大な権力に対して王権より反発する論理が生まれた。
トトメス3世のように、第18王朝前半の諸王はいずれも勇敢な戦士であり、すぐれた軍事指導者であった。帝国の拡大はこの王の資質を生かした度重なる親征によって実現されたものであった[39]。しかし、新王国においても神王理念は重んじられ、王はファラオという地位の所有者であるとみなされており、伝統的には「人性」よりも「地位」が優先されている状況であった[39]。それでも、従来の伝統的な王権観が要求する慣例に従っていては軍事作戦などは臨機応変に対応できない状況が生まれたことにより、やはり王はまた有能な将軍でもなければならないという新しい理念が帝国の拡大に伴い加わった結果、価値観が逆転し王の人格が全面に押し出された[39]。
こうして、王の自負心は増大し、やがて伝統や慣例よりも、王の意思が優越する専制君主観が現実の権威に支えられて急激に成長したのである[39][35]。
王権側の対抗措置
王は政治的・宗教的に最大の権力を持つものであるから、当然宰相に匹敵するほど大きな権限をもっているアメン大司祭[注釈 19]の任命権も例外なく王が保有していた。しかし、この地位は祭司というよりもむしろ神殿の行政官としての役割が大きかったため、慣例として神殿行政にかかわりのある人物を選ぶことになっていた。かつては王権もこれに従い、婚姻関係を通じて王や宮廷と結びつけることで妥協していた。しかしながら、アメン神官団の権力伸長とともに、トトメス4世時代のアメンエムハトやアメンホテプ3世時代のメリィプタハのように、王権と全く私的な関係がなく、ただアメン神殿内において昇進し地位に就いた者が現れてきた[40]。
王権はこれに対抗し、アメンホテプ3世時代の宰相プタハメス(メリィプタハの先任者)のようにアメン神殿と無関係な者をアメン大司祭につけることに成功している。これらは、アメン大司祭の任命をめぐって王権と神官団に非常に激しい政治闘争があったことを示している[40]。
この他にも、アメン大司祭に慣例として与えられた、全国の神官全体に対する監督権を持つ「上下エジプト神官長」の役職を全くアメン神殿と関係ないものに与えるなど対抗措置をとるなどしたが、その中でも特徴的なのが「アテン信仰」を始めとする他信仰の養成である[40]。
ラー信仰
トトメス4世が残した「夢の石碑」に、太陽神信仰の片鱗を見て取ることができる。トトメス4世が皇太子ですらなく一介の王子であったとき、当時太陽神像とみなされていたスフィンクスの陰で昼寝をし、その夢の中に太陽神ラーが現れ、砂に埋もれている自分の像から砂を除いてくれれば王位を与えると約束したとの記述があるのである。これは、トトメス3世やハトシェプストの場合のアメンではなく、太陽神ラーなのである。これより、トトメス4世がアメン神官団の影響からの脱却を意識的に試みていることがわかる[40]。
アテン信仰
このような太陽神信仰に加えて、頻繁に碑文に名が挙がるようになるのがアテンである。アテンとは、太陽信仰において中王国時代より「天体としての太陽」とされており、太陽神としての性質の一部とみられていた[40]。しかし、アメンホテプ2世の時代、王はカルナックのアメン神殿神官の横暴に不満を持つ中で、古くより信仰の対象であったヘリオポリスのラー神官団と交流し、信仰の対象として独立した神格であるアテン神が形作られていった[41]。すでにトトメス4世のスカラベにおいてはアテンは独自の祭祀を受け、王はアテンの名においてアジア諸国を征服したと記されている[40]。
「宗教改革」
王権とアメン神官団との緊張関係がまさに頂点に達しようとするときに即位したのが、アメンホテプ4世(のちのアクエンアテン)である。専制君主の道をたどった父王アメンホテプ3世の宮廷に育てられたアメンホテプ4世は、王の意志は絶対であり、これに対抗する勢力の存在は容認できなかった。4世は対立状態を、アメン神をきっぱり捨て新たなる太陽神アメンに切り替えるという極端な形で解決しようと試みる。しかし、そのための手段としてはアテン神に対する狂信という極めて非政治的手段を用いた。このような非政治的手段を強行できる専制君主観こそが、改革の礎であったのである[42]。
アメンホテプ4世の治世については資料が乏しい部分が多いが、以下は「王権」という視点でとらえている屋形 (1969)を主体にし、加えて同一著者の1998年の記述、松本 (1998)を参考にした。
前半
この王の治世前半については不明な点が多いが、王はすでに初年よりアテンを神々の首位につけようとする試みをしていた。
王は碑文に「アテン前期名」を刻むとともに、「アテンの第一預言者」[注釈 20]を称し、王の宮殿も「地平線の光輝」と名付けられた。アテン前期名は、「アンク・ラー=ホルアクティー・ハイ・エム・アケト」および「エム・レン=エフ・エム・シュウ・ヌティ・エム・アテン」の二つより構成されており、双方合わせて「アテンであるところのシュウの名において、地平線で歓喜するラー=ホルアクティは生きる」との意をもつ[注釈 21]。そこでは、ラー=ホルアクティー及び大気の神シュウと太陽神アテンは、同一の太陽神の違った名称に過ぎないことが表現されており、ヘリオポリスのラー神官団の影響が顕著に表れている。ここにおいては、王の関心は宗教面にのみ注がれていたため、この点でこの「改革」を「宗教改革」と呼ぶことができる。しかしながら、王の治世の前半においては、アテンを神々の中の第一人者に据える試みにすぎず、伝統的な多神教の範囲内に収まっていた[42]。
王の治世4年を超えると、おそらくアメン神官団との対立が決定的になり、王はアメン神と決別する。王は、自身の誕生名アメンホテプ(アメン神は満足し給う)を捨て、アクエンアテン(アテン神に有益なる者)と改名し、都もテーベから「アテンの地平線」の名を持つアケトアテンへと遷した。この遷都では、テーベの神アテンと王との関係は完全に断ち切られ、『神であるファラオが自らの責任において自由に政を行う』という王権観の完全なる実現の一歩となった。これ以降、王アクエンアテンはひたすらに自己意志に基づき宗教改革を実行していくようになっていった[42]。
改革の意義
新しいアテン信仰においては、非常に一神教的傾向が強くなっている。アテンは万物の創造者とされ、唯一の真なる神であった。神の太陽光線によって注がれる生物への「愛」を受け取る者の信仰告白は、王自らが起草した「アテン賛歌」に表れている[42]。
このような信仰の最大の特色たる排他性は、一神教的傾向による副産物ではなく、むしろ王権の対抗勢力であるアメン神官団の権力を封殺する政治的意図が軸にあったものと考えられる。アメンの信仰は禁止され、神殿は封鎖され、名はあらゆる碑文から削除された。しかしこの迫害は他の神にも及ぶのであり、ただラー神のみがこの措置をまぬかれた。こうして神殿に国庫の補助金などが供給されることはなくなり、国土全体が宗教的統一を通して王権の絶対的統制下におかれることになったのである[42]。
しかし、王の宗教的狂信及び革命の原因などについては王権の強化を目的とした政治的意図で説明できない部分もあるため、異論も存在することに留意されたい。
改革の破綻
このような熱狂的な崇拝にも拘わらず、アクエンアテンの改革は王の死とともに廃される。その失敗の原因として屋形 (1998)は2つの例を挙げている。一つは後のツタンカーメンが建立した「信仰復興碑」が述べているような国内の行政・経済の完全な無秩序状態であり、もう一つは「アマルナ文書」が伝えるような外交の破綻である[42]。
アメンホテプ3世の治世末期、王は外交的に無関心になっており、加えてその子アクエンアテンもアテン信仰に力を注いだためアジア植民地への軍事的介入がほとんどなかった。エジプトの敵国の脅威にさらされているアジア人の首長がアクエンアテンに来ることが叶わぬ救援要請を送り続けていたが、王はほとんど応えなかったのである。そもそも、アジア植民地はトトメス3世が築き上げたものを歴代王が維持してきたものであるが、これは王の積極的軍事介入によって維持されてきたものであり、より強い権力であるヒッタイト及びその属国ミタンニの存在に植民地は容易に屈してしまった。アメンホテプ3世治世末期以降4代の王の治世、およそ30年間余りでエジプトはシリア・パレスチナを含む広大な植民地を失ったのである[42][注釈 22]。
なお、エジプトの政治情勢が非常に混乱していたにも拘わらずエジプト本国に侵入がなかった理由として、将軍ホルエムヘブが強固に防衛していたからであると屋形 (1998)は述べている[42]。
復興
アクエンアテンは即位およそ17~18年で没した。この後にはスメンクカアラー、ネフェルネフェルウアテンという正体不明の王が即位しているが、これに関しては謎が多い。両王に引き続いて即位するのが少年王として知られるツタンカーメンであり、この時家臣アイと将軍ホルエムヘブの補佐により王は信仰復興を遂行する。しかし王は若年で亡くなり、後継者のアイも治世4年で死去するため、完全な復興に関しては将軍ホルエムヘブに託される。
ホルエムヘブはその後のおよそ27年の在位の間に国内秩序の回復に努め、後の第19、20王朝時代にエジプトに最後の繁栄をもたらす、帝国の再建の礎となった。
第19王朝
ホルエムヘブは子無くして死去するが、自身の将軍パラメセスを後継者に指名した[注釈 23]。彼も老年であったため在位2~3年で死去するが、王位は子供のセティ1世に引き継がれ、ツタンカーメン以降途切れていた血統による王位継承を果たす。
王の在り方の変化
第18王朝以前では王は神として崇められたが、18王朝末期になると、後継者問題のため宰相のアイ、将軍のホルエムヘブ・ラメセス1世など、明らかに王の血筋ではなかった人物が王として君臨するようになった。そのため、王であるからという理由では強権を振るえず、遠征・貿易などにより国民生活を豊かにするという保証をもって初めて王として権力を持つことができるような認識が広まった[43]。国民生活を確かに豊かにしたセティ1世・ラメセス2世両王はともに神格化されている[44]。
例えば、第19王朝第2代セティ1世は、アマルナ時代に破壊された各地の神殿などを修復し、アメン神官団と良好な関係を築いた[注釈 24]。加えて、18王朝までは王都はメンフィスにあり、ここよりアジア遠征などをしていたが、対外情勢の変化に対応する必要性を痛感したセティ1世は、よりデルタ地帯に近い場所に新たな都ペル・ラメセスを建設し、遷都した。これを足掛かりにしてアジア方面に度々遠征したが、それだけでなくヌビアにも遠征するなど活発な活動を行った。このことが国民に認められたかどうかは定かではないが、自身の死後にセティ1世葬祭殿を築き、自身を神格化し祀っている[43]。ここでは、アメン=ラー神を合わせて神格化されたセティ1世を含む7柱が同格に祀られており、アメン神だけの優遇は回避されている[45]。
英主・大建築家 ラメセス2世
ラメセス2世[注釈 25]の時代は、エジプトがトトメス3世からアメンホテプ3世の時代に次いでエジプトが最も繁栄した時代である。王は即位5年にカデシュの戦いでヒッタイトと争った[注釈 26][47]。ここにおいては、ラメセス2世は「戦神メンチュのようにただ一人で戦車を駆って奮戦し、ヒッタイトをさんざんに打ち破った」とされており、この業績を幾度となく神殿に刻ませている[48]。
以後においては数回アジア遠征を試みているが、大勢は変わらなかった模様である[49]。ここで、エジプトとヒッタイトは長年の対立を捨て、講和条約を治世21年に結び、結果としてアジアにおけるエジプトの領土を明確化させることに成功した[47][49]。これ以降ヌビアやリビア地方へ小規模な軍隊を派遣し、国境を確認するのみで、目立った軍事行動はしていないようである[47]。
国際情勢により戦争ができなくなったラメセス2世の余りある精力は、建築の分野に昇華された[50]。現在でもエジプトではラメセス2世の即位名 ウセルマアトラー・セテプエンラー、誕生名ラメセス・メリィアメン が刻まれた遺物を驚くほど確認できる[注釈 27]が、これには彼の自己顕示欲によるものではなく、むしろ政治的・宗教的意図が少なからず関わっていたと推測されている[47]。
政治的には、特にヌビア方面に多くの壮麗な神殿を建設することで、南からの異民族を威圧する働きがあったようである[47]。
宗教的には、ラメセス2世はテーベを国政とは関係のないアメン=ラー神の信仰地と位置付けた。このことによりアメン神の影響力は削がれ、他の神々の信仰が活発になったという[47]。
終焉
ラメセス2世はエジプト史上まれにみる即位67年を数え、90歳を超えて没した。このため、王位は第13皇子メルエンプタハが継ぐこととなるが、この後は長期政権によくみられる後継者問題が発生した。メルエンプタハも10年ほどで死去してしまった[注釈 28]ため、普通ならば息子のセティ2世が継ぐものであるが、なぜか王位はラメセス2世の娘の一人であるタカトの息子アメンメセスが継ぐ。にも拘わらずアメンメセスも3~5年ほどで死去。王位は正当な後継者であるセティ2世にわたる[52]。
しかしながらセティ2世も6年、その第2皇子サアプタハが継ぐも6年で死去。サアプタハの死後はセティ2世第2王妃タアウセレト女王が即位するが、彼女の治世も2年ほどで終わっている。メルエンプタハの即位からわずか27年ほどで第19王朝は途絶えたのである[52]。
第20王朝
タアウセレトの後即位したのはセトナクトという人物であった。この人物の出自については不明であるが、大ハリス・パピルスによると、第19王朝末期から第20王朝にかけては王位継承問題が紛糾し、公に認められない王イリウスウが即位したが、神々に選ばれた者セトナクトがイリウスウを追放し、真の王としてエジプトを収めるようになったとのことである[53]。セトナクトの治世はわずかに2~3年だっため、周囲より推戴されて王になったときにはすでに老齢であった可能性もある。いずれにせよ、セトナクト王の即位はスムーズに行われたようである[54]。
最後の栄光
セトナクトの後を継いだのは、エジプトに最後の繁栄をもたらしたとされる王、ラメセス3世であった。王はカルカッタを始め国内各地に神殿を建設したり、王家の谷に自身の王墓、王妃の谷に数人の王子の墓を築くなどの公共事業を行ったことによって国民生活に豊かさをもたらしたのであった[55]。
「海の民」との戦争
ラメセス3世は、治世5, 11年にリビア人と、治世8年に海の民[注釈 29]と戦った。
治世5年にはリビア人が、王朝が交代し王権が弱体化したのを見て北アフリカの民族を率い、エジプトへ侵攻した。しかしエジプトはこの戦いに圧勝し、12500人を殺害し1000人余りを捕虜とし凱旋した[55][56]。
治世8年には、海・陸同時に海の民が攻めてきたが、陸戦に際してはアジアに駐留させていた軍を向かわせ、海に対しては船団をもって迎撃し、打ち破ることに成功した[55][56]。
このように、ラメセス3世はいずれの戦いにも勝利したが、そもそもこの戦いはエジプト側の防衛戦であり、パレスチナ方面には一部海の民を定住させてしまうなど、実は何とか守り抜いたといった状況であった可能性がある。松本 (1998)は、この時エジプトはすでに第18王朝のような大国ではなくなってしまっていたため、侵攻されてしまったという考え方を示している[55]。
しかし、エジプトはこの3度の戦争の後、一時平和な時代を迎えたようである。大ハリス・パピルスに記されているラメセス3世自身が語ったと言われている言葉によると、「歩兵も戦車兵も自分たちの町で体を十分に伸ばして眠れるようになった。彼らの弓も武器も、倉庫に収められたままであった」という[56]。
官僚の腐敗
しかしこのような平和な時代も、ラメセス3世の治世の晩年になると終末を迎え始める。内政の綻びが生じてきたことの好例として、「人類史上最初のストライキ」があげられる。
王墓造営に従事する職人たちの給与は、現物(エンマー小麦・大麦など)で、宰相の責任によって毎月28日に次月の分が支給されることとなっていた。しかし、支給日より20日遅れたり、時には2カ月分が一機に支給されるなど、配給の仕組みが杜撰になってしまったのである。このことに対して当然不満を持った職人たちは仕事を放棄してトトメス3世葬祭殿の背後に座り込み、速やかな支給を要求した[56]。
この事態の原因は、国庫の収入が不足したことではなく、官僚の腐敗によるものだとされる[55][56]。通常宰相は上下エジプトにそれぞれ一人置かれるが、この時は宰相タアがどちらも兼ねていたのである[56]。老齢となったラメセス3世は体力の衰えにより政治面に気を配ることができず、役人の中で汚職が横行したのであった[55]。
暗殺
ラメセス3世治世末期は、官僚だけでなく王宮まで統率できなくなっていた[55]。妃の一人ティイは自身の息子を次王に就けようとし、王の暗殺を計画。王は首の付け根を鋭利な刃物で傷つけられ即死し[57]、その30年余りの治世に終止符が打たれた[注釈 30]。ラメセス3世の死をもって新王国の栄光あった時代は終わり、国は急速に衰えてゆく[56]。
衰退
ラメセス4世以降、ラメセス11世までの80年間で、ラメセスの名を持つ王が8人も即位した[58]。そのうち、9世と11世を除けばいずれも在位は10年未満であり、国内は官僚の不正・基金・物価高騰・リビア人の襲撃などで大いに混乱していた[58]。政府の信用は失墜し、国民は自分の利益のみを追求するようになった[59]。
墓泥棒の横行
このころになると、王権は厳重に警備されているはずの王家の墓泥棒すら抑えられないほどに弱体化してしまっていた。王への尊敬の念を持たなくなった国民は盗賊行為について罪悪感を覚えなくなっていたようである[59]。略奪者は警備員を買収し、盗掘を行うようになった。ラメセス9世治世17年には、たった40年前ほどのラメセス3世妃の墓すら荒らされてしまっていたのである[58]。
権力の移行
しかしながら、社会情勢が混乱しているにも拘わらずラメセス9世はデルタ地帯(ペル・ラメセス)にあって平和に暮らしていたのではないかと考えられている。王自身は下エジプトに建築物を残しているが、実際の権力はテーベのアメン大司祭が握っていたようである[60]。
右の図のように、アメン大司祭が王と同じ大きさで描かれることも黙認されるようになった。この原因として、実際にはアメン大司祭の方が大きな権力を持っていたからだと考えられる[60]。
ラメセス11世の死去とともに、イアフメス1世より480年余り続いたエジプト新王国時代は終焉を迎えた。
第3中間期以降
アメン大司祭国家
ラメセス11世の治世19年、アメン大司祭ヘリホルはテーベを自身が支配できていると確信。ヘリホルは、ラメセス11世の兄妹ネジェメトを妻に迎え、王家とのかかわりも持っていたのであった。彼は王権の形骸化にかこつけ、ラメセス11世を無視して新たな年号「ウェヘム・メスウト」[注釈 31]を制定。さらに、テーベの再建にも取り組み、先の時代に盗掘された墓のミイラを集めてセティ1世墓に改めて葬りなおし、盗掘者も逮捕し厳しい刑を科した[61]。
また、王と同等の権限を持ったヘリホルは、儀式で用いるためのレバノンスギを調達してくるようウェンアメンという者に命じた。ウェンアメンは幾多の困難を乗り越え、何とか目的を果たすことができたようだが、その道中では外国人に対等に接してもらうことができなかった[注釈 32]。このことより、エジプトの国力の低下が対外的にも現れており、この後のエジプトへの外国人による侵入の兆候を見ることができる[61]。
ヘリホルは新紀元(ウェヘム・メスウト)7年までには亡くなるが、上エジプトはアメン大司祭が治めるという仕組みを作り上げた。テーベ王朝・アメン大司祭国家(アメン神権国家)の成立である[61]。
第21王朝
一方北では、軍司令官で下エジプトの宰相であったスメンデス1世が都をペル・ラメセスから自身の任地、サイスに移し、第21王朝を開いた。このころは第3中間期と、「混乱期」の分類がされているが、実際にはスメンデス1世は、前述のウェンアメンの航海の時にも援助をしているなどアメン大司祭国家と良好な関係を持った。またスメンデス1世が、カルナック神殿の一部が水浸しになったとき、3000人の労働者を派遣している記録も残されている[62]。
これらの政治的つながりに加え、婚姻でも関係を結んだ。スメンデス1世の死後はヘリホルの息子、アメンエムニスウが継ぎ、アメン大司祭職はパネジェム1世が得る。しかし、このパネジェム1世の息子が次の第21王朝ファラオ、プスセンネス1世である説もあるほど、密な婚姻関係が結ばれていたようである[注釈 34]。
第22王朝
第21王朝のプスセンネス2世の後は、リビア人傭兵のシェションク1世が継いだ。ここで、彼は革新的な政治的行動をする。息子イウプト[注釈 35]をアメン大司祭につけ、アメン神殿の仕組みを通してエジプト全土を一人の支配下に置こうと画策したのである。さらに、イプウトは「軍の最高司令官」の称号を併せ持ち、軍をも統率した。加えて、アメン第3司祭・第4司祭、ヘラクレオポリス軍司令官にも血族を任命するなど、確固たる政治的基盤を築いた[66]。これは第18王朝などの王がしたような、王自身が専制的な君主として絶大な権力を持った方法と対照的であり、シェションク1世はアメン神殿や軍の力を借りて王権を維持したのである。
シェションク1世には旧約聖書 歴代誌12:2, 12:9や列王記14:25-26に、王シシャクとして記録されてあるようにエルサレムに攻め上り、数々の宝物と至宝「ソロモン王の金の盾」を奪い取るほど余裕があったのである[66]。
以降はシェションク1世の息子オソルコン1世が後を継ぎ、王位が継承されてゆくがその中でもアメン大司祭は重要な職であり続けた。例えば、オソルコン2世に対してテーベのアメン大司祭ホルスィエセ[注釈 36]も王権を主張し、カルトゥーシュを使用するなどの事件もあった[66]。
第23・24王朝
その後、シェションク3世の治世8年、リビア人パディバステト1世がデルタ地帯中部、レオントポリスに都をおき、王権を主張。第23王朝を興す。それに加え、第24王朝(記録されている王は2王だけである)も並立し、後の第25王朝と合わせて、エジプト本土に第22・23・24・25王朝が並立する時期が12年間存在するなど政治的に不安定な時代[68]であり、史実はつまびらかではない。
第25王朝
この状況を打開するのは、ヌビア人クシュ王国のピアンキであった。このころのヌビア人はアメン=ラー神を崇拝しており、外国人でありながらエジプトの文化・宗教を否定しなかったためごく短期間でテーベの政治・軍事・宗教の実権を握ることに成功した[70]。第25王朝時代より、末期王朝時代に分類される。加えて、ピアンキは妹のアメンイルディス1世を在任中のアメンの聖妻の養女にし[注釈 37]、大司祭オソルコン3世に代わりアメン神殿の最高権力を手中に収めた。この後はシャバカア・シャバタアカア・タハルカ王の治世を通して安定していた。シャバタアカア王は前述のアメンイルディス1世と婚姻し、シャプエンウェペト2世を儲け、次のアメンの聖妻に就けた。シャバタアカアの弟タハルカ王も、自身の娘アメンイルディス2世をアメンの聖妻に就けることでテーベの支配権を得たのである[70]。
第25王朝は、タハルカの甥、タアネトアメンの治世に崩壊を迎える。タハルカの治世20年、すでに数回エジプトに侵攻を繰り返していたアッシリアがとうとう主要都市メンフィスをも奪い、タハルカは南に退かざるを得なかった。アッシリアは第24王朝の末裔ネコ1世(エジプト語:ニィカアゥ1世)を擁立し、デルタ地帯を治めさせたのである。タハルカの後を継ぎ即位したタアネトアメンはすぐさまデルタ地帯に侵攻、ネコ1世を討ってメンフィスまで奪回する。しかしながら、前664年にはアッシュルバニパルの攻撃でテーベまで墜ち、タアネトアメンは出身国であるクシュに引き下がるのであった[73]。
第26王朝
アッシュルバニパルは自国が危うくなったため、ネコ1世の後継者、プサメチィク1世(プサメティク1世)にエジプトの管理を任せて撤退する。ここより第26王朝に区分される。しかし、プサメチィク1世はアッシリアからの独立を図る。彼は、娘を在任中のアメンの聖妻の養女にし、上エジプトの実権を握っていたテーベ市長に娘を嫁がせるなどして、やはり政治面より王権を確実にしたのである[74]。
次代ネコ2世の時代になると、エジプトは一時国力を盛り返す。前609年にはシリア・アッシリアに遠征し、旧約聖書列王記下 23:29 にあるようにメギドの戦いにおいてヨシア王を殺し、ユダ王国を支配し朝貢を課している[注釈 38]。しかし、前605年にはバビロニアのネブカドネザル2世がエジプトに臣従していたユダ王国を攻略し(第一回バビロン捕囚)(列王記下 24:12, 歴代誌 36:6-7)、エジプト軍も打ち破ってしまう(エレミヤ書 46:2)。これによりエジプトのシリア・パレスティナ地方の支配はたったの4年で終わってしまった。ネブカドネザルはこれに乗じてエジプトを攻めようとしたが、辛くも防衛したようである[74]。
これを継いだプサメチィク2世も娘をアメンの聖妻の養女にするなど、アメン神殿との関係を強化することを怠らなかった。次のウアフイブラー(アプリエス)王は将軍イアフメス2世(アマシス)にクーデターを起こされ、幽閉後処刑された。あとを継いだプサメチィク3世も攻め込んできたアケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世を防衛することができずエジプトを征服され、これまた処刑されて第26王朝は終わることとなる[74]。
第27~30王朝
第27王朝はペルシア支配の時代であり、エジプト人は大いに反発した。この原因として、今までのヌビア人などの外国人支配者たちはすべて「エジプト化」したのに対して、ペルシアはアラム語を広め、エジプト文化を尊重しなかったので国民の自尊心・愛国心を傷つけた。そのため、120年余りの支配で反乱が多発している[75]。
前404年、ダレイオス2世が死去するとそれに乗じてエジプト人アミュルタイオス(エジプト語:アメンイルディスウ)が王を名乗る(第28王朝)が、数年のうちにメンデス・第29王朝のネフェリテス1世(エジプト語:ナアイエフアアウルジュ1世)に処刑されてしまう。彼は王位を正当化するために架空の祖先・家系を作り出し、記録したのであった[76]。
しかし第29王朝も、前380年に将軍ネクタネボ1世(エジプト語:ナクトネブエフ)がクーデターを起こしたため、20年未満で倒れる。ネクタネボ1世は、同じくクーデターを起こし政権を奪取した中王国のアメンエムハト1世とは違い、むしろ武力によるクーデターを誇った。この背景には、外国人侵攻の危機にさらされていたエジプトでは、すでに武力を持つ者を王として認めざるを得ない状況であったと考えられている[76]。
加えて、ネクタネボ1世はエジプト風の即位名(ケペルカアラー)を名乗り、エジプト国内で建築事業を盛んに行い、人々に経済的安定をもたらした。彼は、伝統的な信仰を盛んにし、国民の愛国心に訴える方法で支持を得たのである。しかしながら1代後のネクタネボ2世(エジプト語:ナクトホルヘビィト)の時代、前343年に再びペルシアのアルタクセルクセス3世に支配されてしまうことで、エジプトで2500年以上続いた王朝時代は終焉を迎えたのであった[76]。
第30王朝以降、エジプトは将校団を率いたナセルが1952年に開放するまで、実に2300年もの間、外国人に支配されることとなる。この2度目のペルシア支配(第31王朝とも)は短く、アルゲアス朝のアレクサンドロス大王が征服し、大王の将軍の一人プトレマイオス1世が即位。プトレマイオス朝が300年ほど統治し、クレオパトラ7世の崩御に伴い、エジプトはローマの属州として編入さるのであった[77]。
宗教権力
宗教権力は政治的権力と密接に関係していた。王は「すべての神殿の最高司祭」とされ、神を直接祭祀できるのは王のみとされた。しかしながらこの原則は古代エジプトを通じて当てはまるわけではなく、アメン大司祭国家の成立に見られるように宗教権力が王をしのぐことはたびたびあった。
ホルスとオシリス
王の力はホルス神やオシリス神と強いかかわりがあった。現世では王はホルス神の化身であり、死すと冥界の支配者であるオシリスとなると考えられていた。この考えは第5王朝までにはすでに定着していたと考えられている[78]。
初期王朝時代の王は「ホルス名」、例えば「ホル・アハ」のようにしか記されていなかった。この称号により、王は天に由来する力を持つホルスの化身となった[79]。
また、オシリスは神話において弟セトにより体をはらばらに切り刻まれてしまったが、イシス女神の力を借りてミイラとして復活する。ここから、王はオシリスとなって再生復活し、永遠に富むと考えられた[78][80]。なお、オシリスの護符ジェド(Dd)は柱の形をしており、「安定」を表す。王の五重称号にもジェドの言葉は用いられることがあった[78][注釈 39]。
装身具
衣服
一般的な古代エジプト人は、細い糸で織った薄くて柔らかい亜麻布[81]でできた真っ白な服[82]を着ていた。しかし、王が着用していた衣服は普通の人とは異なっており、糊付けされた豪華な前垂れや襞などの特別な装飾があったキルトを着用することがあったようである[83]。
しかし王は亜麻布も使用していたようであり、実際にツタンカーメンの墓からは亜麻布でできた腰布[84]やショール[85]、金のスパンコールで飾られた衣服[86]などが見つかっている[87]。 そのほかのベルトなどの装身具には色がついていたようである[82]。
また、王の腰帯「シェスメト」はシェスメテト女神(en)を象徴していた[83]。
冠
ファラオは上エジプトを象徴する白冠と、下エジプトの赤冠を複合させた二重冠をつけることにより上下エジプトの支配権を示していた[88]。しかし、レリーフなどには白冠または赤冠単体で描かれることもあった。この他にも、王はケペレシュ・ネメス・アテフ・シュウティなどの冠を状況に応じて被った[88]。
杖
ファラオはさまざまな種類の杖とともに描かれた。ミイラの蓋などでは、両手にそれぞれ上エジプト、下エジプトの象徴である牧民の杖ヘカと農民の竿ネケクを持った姿であった。また、壁画などに描かれる際は支配・統治の象徴であるウアス杖やこん棒であるヘジュを持つ場合もあった[89][88]。
葬送習慣
エジプト人は来世を非常に現実的な形でとらえており、各種の葬送習慣は「現世での暮らしを来世でも続けたい」との思いで発達していった[90]。庶民でも新王国時代には手の込んだミイラが作られるようになったが、王の場合はそれ以前より永遠の命を実現させるための試みがされていた。
先王朝時代
このころ、墓とは地面に穴を掘って埋めるだけの簡素なつくりであったが、先王朝時代末期にはただの砂漠の穴が堅牢なつくりになり、遺体は棺に入れて葬られるようになった[91]。
エジプトが一つの統一国家となった初期王朝時代には、王の墓はアビドスに造られ、墓穴はレンガで補強されたためより頑強になった。地上には墓の位置を示すマスタバが作られ、王の名前が記されるようになった[90]。
古王国時代
古王国時代には、神である王のみが死後も天空の神々の列に加えられて完全な生命を保持することができ、臣民は王に奉仕することによりこの永生の恩恵にあずかれるとされた[17]。
第3王朝のはじめ、王墓のデザインは劇的に変化を遂げる。ジェセル王が初めて地上のマスタバを大型化させ、階段ピラミッドを建造した。これにより、地下に広大な場所を確保できることになり、副葬品を納めたり他の王族を同時に埋葬できるようにもなった。ピラミッドには付属神殿があり、王が死したのちも君主としての役割を果たせるように王を祀る目的があった[90]。
天空への階段が彼(=王)のため設けられる。それによって天空に上るために — ピラミッド・テキスト267、[17]
とあるように、ピラミッドとは、王だけが昇天のための手段・特権を持つことを臣民に誇示したものであると言える[17]。
第5王朝末になると、王はピラミッドの中に独特の葬送文書を記載するようになった。これはピラミッド・テキストと呼ばれ、ウナス王のものが最も知られる。ピラミッド・テキストは王の再生を保証する呪文の集合体であり、王のピラミッドの内室の壁に刻まれる[92]。
ピラミッド・テキストが刻まれるようになった経緯は、王権の弱体化に関係している。それまでは、王は神として永遠の生命を得て死後も天に存在し続けると考えられ、そのために伝統的で複雑な儀式が行われていた。しかし、王権の弱体化にともないそのような儀式がおろそかになっていった。加えて、この時代には先王の墓は盗掘され、永遠の安寧が望めなくもなった。この危機に対処するため、墓に葬儀で唱えられる言葉や呪文を記し、聖なる言葉による呪力で盗掘をも防ぎ、来世での復活を願ったと考えられる[93]。
中王国時代
ここにおいては、創造神はすべての人間を平等に作ったという原則が葬祭の場においても適用され、王と臣民の間に存在していた永生の質的相違は解消された。神王のためにのみ作られたピラミッド・テキストに対して、棺柩文は財力さえ許さば身分関係なく使用できたようである[10]。
しかしながら、王はその権力を用い、庶民とは一線を画した葬送習慣を行った。例えば、第11王朝のメンチュホテプ2世は、ディール・エル・バハリに独特な葬祭殿を築いた。
葬祭殿は一段高くなった場所に築かれ、周囲には地上建築物としての正方形のマスタバが配置された。本当の墓は長い回廊を進んだ先の崖下に築かれたのである。
これに倣い他の王もこのタイプの墓の建造を計画したが、どれも完成には至らなかったようである。この時代は、ピラミッドがエジプト人により最後に建造された時代にあたるが[注釈 40]、規模でも建築技術でも古王国時代に劣っていた。しかし、崩れないよう墓室は非常に硬い建材を用いて、細心の注意を払って建造された模様である。
新王国時代
中王国時代のピラミッドでは、どんなに対策をしても盗掘を防ぐことができなかったため、18王朝の初期にはピラミッドは造られなくなった。代わりに、第18王朝3代トトメス1世より墓は王家の谷に造営されるようになった。墓は地下深くまで掘った複数の回廊と部屋からなり、内部は壮麗な壁画で埋められた。しかしこれは装飾用であったらしく、葬祭の場は墓より少し離れた場所に移された。トトメス3世葬祭殿などが好例である。しかしながら、結果的にKV62のツタンカーメン墓を除いてすべて盗掘されてしまい、王たちの死後の安住の地とはならなかった[90]。
第3中間期以降
新王国時代以降はより費用のかからないよう、ナイル・デルタにある大規模な神殿複合体の中に作られた。例えば、第21, 22王朝の王の一部はタニスにあるアメン神殿の地下室に葬られ、埋葬所の真上にレンガ造りの葬送礼拝所を作らせている。他にも、第26王朝のサイス、第29王朝のメンデスでも同様に埋葬されたようであるが、どれも破壊されてしまった。プトレマイオス朝の王家の墓はアレクサンドリアにあった模様であるが、今もその詳しい場所は特定できていない[90]。
文化
称号
ファラオは5種類の称号、ホルス名・ネブティ名・黄金のホルス名・即位名・誕生名を持っており、これらはまとめて五重称号[95]と呼ばれる。しかし、初期王朝時代より5種類あったわけではなく、王権観の変化に伴い次第に増えていったのであり、5つすべてが同時に用いられるようになるのは中王国時代のことである。もっとも古くからある称号はホルス名であり、最も古いファラオの中にはホルス名でしか知られていない者もいる[96]。
婚姻
ファラオは複数の妻を持つことができた。古代エジプトでは、男性は複数の妻を持つことができたが、その記録は少なく、実例はトトメス3世、アメンホテプ3世、ラメセス2世、ラメセス3世など一部にとどまる[97]。
王位継承
古代エジプトでは、基本的に男性のみがファラオになることができた[97]。この理由として、王は地上では太陽神としてふるまうが、その太陽が男性名詞であるからだとスペンサー (2009)は推測している[97]。この慣習は非常に強く、ハトシェプストなどのエジプトを実質的に支配した数少ない女王でさえ、女王ではなく王を名乗り、付けひげを付けるなどして男として振舞っている。なお、行政機関や神殿の聖職者の地位もすべて男性が独占した[注釈 41]。
エジプトの王位継承権は時代ごとに認識の変化がみられるが、通例王の長男が保有していた。例えば、古王国時代には、フニ→スネフェル→クフ→ジェドエフラーなど、父から息子への王位継承が確認できる[99]。しかし、シェプスエスカフ(シェプセスカアエフ)王が治世4年で死去し直系が断絶した後は、メンカアウラーの王女であるケントカアウエスに王位継承権が移り、ケントカアウエスとジェドエフラーの孫であるウセルカアフ(ウセルカアエフ)が王位に就いた[100]。このように、王位継承権を持つ女性と婚姻することにより王位を主張する例は、古王国時代ではウナス王の娘、イプウト1世を娶り王位に就いたテティ[101]、新王国時代では、前王アイの娘ムウトネジェメトを娶ったホルエムヘブ[102]にもみられる。
アメンの聖妻
女性がより王位継承に関わるようになるのは、新王国時代のことである。中王国時代以降、前述のようにアメン神は国家神として王に厚く崇敬された。アメン神の加護により、王は遠征を成功させることができたとされたのである。ヒクソスを駆逐し、統一を果たした第18王朝王家にとって、自身の王位の正当性を強調することは非常に重要であった。ここで、王妃と王に姿を変えたアメン神との子を次の王とすることで、アメン神の血を受けつぎ王は神性を持つとされたのである[103][104][105]。なお、第5王朝に同様の論理が展開されている(ただし神は太陽神ラー)[106]。
このとき、王妃は「アメンの聖妻」[注釈 42]と呼ばれ、神の血統の純粋性を保つためには、正妃は嫡出の王女、すなわち王は同じ正妃より生まれた姉妹と婚姻することが理想とされた[103][105]。もし正妃より男子が生まれなかった場合は、庶出の男子が嫡出の女子と婚姻することにより王位を継承したのである[105]。
しかしながら、男性優位が揺らいでいるわけではなく、女性であるハトシェプストが即位するときには、自身の「アメンの愛娘」という神聖な血統を証明するため、神殿の壁に自身がアメン神の子であることを示すレリーフを彫らせるなどの努力をしている[107]。それでも、後世の王名表(例えばアビドス王名表)には王として記録されていないことや、王家専用のネクロポリスである王家の谷に葬られていないことなど、男性のみがファラオを名乗ることができるという事実は変わりなく存在していたのである[108]。
後世
王名表
一部のファラオは自身の神殿(葬祭殿含む)に過去の王名を記した表を彫刻し、自身の王位の正当性を強調した[109]。これらを王名表といい、パレルモ・ストーン、カルナック王名表、アビドス王名表などが有名である。また、トリノ王名表やサッカラ王名表のように、王族以外の人物によって記載されたものもある[109]。これらは、歴史の流れを見るうえで非常に貴重な資料となっている。
聖書中のファラオ
古代エジプトの時代と旧約聖書が編纂された時代は重なる部分があり、旧約聖書中にファラオは「パロ」として記述されている。そこにおいては民を虐げる圧政者、ユダヤの神に従わない者と描かれている[110]。
前近代のイスラーム教徒のファラオ観
アラビア語でファラオは、おそらくシリア語かアムハラ語からの借用語と推定される「フィルアウン」(fir‘awn, 複数形は far‘īna)という[111]。この「フィルアウン」には、端的に言って、「無慈悲な暴君」の意味合いがある[111]。イスラーム教の聖典『クルアーン』において「フィルアウン」の語は全部で74回出現するが[112]、特に2章47節から52節あたりには、『出エジプト記』においてモーセやイスラエル人に迫害を加えるファラオと同一視される、男児の殺害を命じるファラオ、海の底に沈むファラオについての描写がある[111]。10章90節から92節あたりには、同じく海の底に沈むファラオが改心の言葉を口にするも神に拒絶される描写がある[111]。前近代のイスラーム教徒が持つ否定的なファラオ観は、クルアーンに依拠するところが大きい[111]。
一方で、クルアーンの注釈書や、タバリー、マスウーディーなどイスラーム教徒の古典的な著作には、ファラオに関して、クルアーンにもヘブライ語聖書にも根拠を見いだせない情報が見出せる[111]。たとえば、タフスィール書(クルアーンの注釈書)では、ファラオはアマレク人であると解説されており、タバリーはモーセを迫害したファラオがイラン系のイスタフル出身の王であると記し、マスウーディーはアブラハムやヨセフの物語に登場するファラオの具体的な名前を記す[111]。イスラーム世界では、ユダヤ教の伝説(アッガダ)を基礎に、イスラーム教徒が7世紀以降支配下に入れたエジプトで言い伝えられていた伝説を取り込んで、独自のファラオ観が、歴史的に形成されていったと推定されている[111]。
モーセ伝説におけるファラオは、海の底に沈む間際、信仰を告白しようとするが大天使ガブリエルが泥をその口に突っ込み、阻止したとされる[111]。歴史的には、このように神に拒絶されるほどの無慈悲さとはどのようなものかをめぐって、神学上の議論があり、例えばムァタズィラ派がファラオに関心を持った[111]。また、死を目前にしての改心というファラオ説話に内在する神意については、ハッラージュらスーフィーたちも彼ら独特の思考様式で瞑想した[111]。スーフィズムではファラオを傲慢・貪欲・無反省の典型と考えることが多い[111]。
19世紀にエジプト学が発展し、古代エジプト文明に関する知識が増大すると、伝統とは異なるファラオ観も現れた[113]。現代のエジプト人は古代エジプト人の直系の子孫であるという立場に立ち、古代エジプトが担っていた世界に対する指導的役割や卓越した地位を取り戻そうとする「ファラオ主義」が、教育を受けたエジプトの一部のエリートの間で主張された[113]。
現代
現在では、「ファラオ」という語には、エジプトの歴史的な支配者[114]という意義の他に、専制的な国王や酷使者[115]、暴君[116]なども表すことがある。例えば、ムバラク大統領は、批判的に「ファラオ」と呼ばれた[117]。 しかしながら、サッカーエジプト代表チームは、「ファラオズ」という愛称を持っており、肯定的に使用される用例もある[118]。
脚注
注釈
- ^ メルエンプタハの治世という説もある。
- ^ なお、王を指す"nswt"はもともと上エジプト王単体を指している言葉である。それが王という一般名称に発展したのは、最初のエジプト全土を統一したのが上エジプト出身の王であったからではないかと、松本 (1994)は推測している[7]。
- ^ 翻字は"nfr-nTr"であり、nfrの意味にbeautiful/good/perfectと揺れがあり、「完璧な神」と訳される場合もある[9]
- ^ 翻字ではmn:n-iで、「永続する者」と訳される[14]。ギリシャ名メネス。
- ^ メニをアハ王に推定する説もある。
- ^ もともとは王の在位期間は30年に限られ、それが過ぎるとこのセド祭において殺されていたようである。しかし、神王理念により王はここで新たに戴冠式を行い、王としての新たな活力を得て再生するとされた。なお、慣例に反して30年未満の治世でセド祭を実行することはのちの王にも見られる。
- ^ セト名を用いた王はいないが、セトを守護神にしたり、セトを名前の要素に用いた王家は存在する。例えば、第20王朝にはセティと言う名の王が2名存在し[18]、第21王朝の始祖はセトナクト(セト神は力強い)である[19]。
- ^ 黄金のホルス名について詳しくは五重称号_(古代エジプト)#黄金のホルス名を参照せよ
- ^ 翻字は"zA-ra"で、「ラーの息子」を示す。
- ^ 一説によると、6歳で即位し、94年間の在位ののち100歳前後で死去したという。しかしながらこれはヒエラティックで書かれたトリノ王名表による記載で、ヒエラティックでは9と6の数字がよく似ているため、64年の間違いの可能性もある。いずれにせよ長期政権であったことには変わりはない[22]。
- ^ 不輸・不入権とは、不輸の権と不入の権からなり、不輸は国家による租税を免除する権利、不入は領域内に国や役人が立ち入ることができない権利である[1]
- ^ 鉄は王朝時代には王でさえめったに入手できなかった金属であり、主に儀礼用に使用されていたのみであった[23]。例として、ツタンカーメンの墓からはエジプト史上最古の鉄剣が発見されているが、ヒッタイトからアジアを経由し伝わってきたとみられている[24]。本格的に鉄がエジプトにおいて使用されるのは第3中間期からで、鉄が家庭用品の原材料となったのはローマ時代であった[23]
- ^ それぞれ、原語の翻字・意味は、Hw(権威), siA(動詞:知る・分かる・悟る/名詞:認識), mAat(真理・真実・正義・秩序)[28]
- ^ 文字を習得することは、当時極めて困難な行為であった。帳簿の計算などに使われるヒエラティックを自由に操ることができる書記は、ほんの一握りしかおらず、「ドゥアケティの教訓」や「ケティの教訓」をはじめ、書記になれと勧める教訓文学は非常に多い[29][30]
- ^ アメンエムハト1世がクーデターを起こしたかどうかについては、スペンサー (2009)は懐疑的にみている[31]。
- ^ ヒクソスという言葉は"Hqa.w-xAs.t"(外国の支配者)に由来する[33]。
- ^ ネフェルタリとも。なお、翻字"nfr.t-iry"に従い忠実にカタカナ化すると、ネフェレトイリィになる。
- ^ 具体的には、テーベ神殿群、合計の順に、奴隷が86486-107615(単位はおそらく人)、土地が864168-1070419(単位はarouraで1arouraは2735)であった[38]。
- ^ エジプト語では、"Hm-nTr-tpy.n-imn"(アメン神第一の神のしもべ)
- ^ おそらく「アメン大司祭」と同意義か。
- ^ 王の治世9年以降、新たに一般的に「アテン後期名」と呼ばれる名が制定されたが、ここでは詳しくは触れない。
- ^ なおヌビアだけは直接統治の仕組みが確立されていたため、喪失をまぬかれたようである。
- ^ パラメセスは王になるにあたり、ラメセスと改名した。
- ^ しかしながら宗教改革の事件は記憶に新しく、一定の距離はおいた模様である[43]。
- ^ しばしばラメセス大王と呼ばれる[46]。
- ^ 松本 (1998)によれば、危うく負けそうになったところを立て直し、互角の勝負で終わったという。
- ^ しかし、すでにあった建築物にラメセス2世の名前を刻んだものも多い[50][47]。
- ^ 屋形 (1998)は20年の平和な治世と言及している[51]が、von Beckerath, Shaw, Dodson, Malek, Arnold, Grimalなどは10年との言及をしており、主な説は10年である模様である。
- ^ 海の民とは飢饉のため地中海付近に定住できなかった、武装した難民集団を総称する語である[55]。
- ^ 従来(参考文献が執筆された1998年ごろ)はこれはミイラに目立った外傷がないことを根拠に暗殺未遂だと言われていた[58][59]が、CTスキャンにより喉まで達する致死傷が発見され、歴史は塗り替えられたのである。
- ^ 翻字:wHm=mswt, 直訳:repeating births(誕生の更新)
- ^ なお、これらの事実は「ウェンアメン航海記(en)」に記されている。
- ^ 有名なツタンカーメンの墓は2度第20王朝ごろに盗掘に入られている。
- ^ アメン大司祭国家は第21王朝と複雑な婚姻関係を結んでおり、その全容は明らかになっていない[64]
- ^ 第23王朝のイウプト1世とは別人である。
- ^ 翻字:Hr-zA-Ast, 意味:イシス女神の子ホルス[67]
- ^ アメンの聖妻は生涯婚姻しなかっため、養女による継承が行われた[71]。次文の婚姻はおそらく例外である。
- ^ しかしながら、歴代誌上 35:20-24によると、ニィカアゥ2世はヨシア王を攻めようとはしておらず、ヨシア王が引き返そうとしなかったのでやむなく応戦したとある。
- ^ 例えば、ジェドカアラー・イセシ王や、トトメス4世のネブティ名「ジェド ネスィト ミーアトゥム(アトゥム神のように安定なる王権を持つ者)」が挙げられる。
- ^ 第25王朝には、ヌビア人がナパタやメロエに小規模なピラミッドを築いたが、傾斜はエジプトのものより急であった。ギザのピラミッド群に感銘を受けて建造した可能性が示唆されている[94]。
- ^ しかしながら、スペンサー (2009)によると、女性は男性と法的に平等であり、離婚は妻からでも夫からでも言い出すことができた可能性がある。さらに、経済的にも平等であり、第13王朝に織物工場を所有していたセテブティシという女性が存在していたことが分かっている[98]
- ^ 神の聖妻[104]、アメンの聖なる妻[105]とも。
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