「Wikipedia:井戸端/subj/英語版などに歌詞が記載されている場合、歌詞の翻訳は記載可能か」の版間の差分
MawaruNeko (会話 | 投稿記録) |
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::*引用の条件も満たさないから削除した、でよろしいですか? |
::*引用の条件も満たさないから削除した、でよろしいですか? |
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::以上2点、回答をお願いします。上記2点にきちんとお答えいただけず、はぐらかすような議論をなさった場合は、回答拒否&著作権上の侵害は無いのに削除したものと判断させていただきます。--[[利用者:道知辺|道知辺]]([[利用者‐会話:道知辺|会話]]) 2022年6月25日 (土) 13:54 (UTC) |
::以上2点、回答をお願いします。上記2点にきちんとお答えいただけず、はぐらかすような議論をなさった場合は、回答拒否&著作権上の侵害は無いのに削除したものと判断させていただきます。--[[利用者:道知辺|道知辺]]([[利用者‐会話:道知辺|会話]]) 2022年6月25日 (土) 13:54 (UTC) |
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:::ここ数日リアルが忙しくて、さらに図書館に中山先生の本を確認しに行ったりとかでなかなか筆が追い付かず申し訳ないです。 |
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:::* {{返信|121.80.100.149さん}} コメントありがとうございます。削除依頼などを出さなかったのは、歌詞の引用が適切か適切でないか判断がつかなかったため、おっしゃるように、広く意見を聞きたかったというのが意図となります。そのうえで、[[ノート:千羽鶴#2022/06/09の転記作業について]]に書きましたが、(判断がつかないというのはあるものの)「違反状態が軽微であると認められる場合」に該当するのではないかと考えております(これに関しては、認識が甘いとお叱りを受けるかもしれませんが)。 |
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:::* 中山信弘『著作権法』第3版(2020年) p.403での必然性の解説について |
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::::「中山信弘『著作権法』第3版 p.403 及びその前後をご覧ください」とのことでしたので、図書館で確認してきましたが、中山信弘 著「著作権法 第3版」(2020年) P.403-404の必然性に関する説明では、適法引用の要件の加重的要件として必然性(・必要性)と範囲の必要最低限性を挙げている説としてP.403注122で著作権法令研究会、通商産業省知的財産政策室 編「著作権法・不正競争防止法改正解説」(1999年) , 金井重彦、小倉秀夫 編著「著作権法コンメンタール〈上巻〉」(2002年)、ある場合の必要最低限性として加戸守行 著「著作権法逐条講義 〈六訂新版〉」(2013年)があるとした上で、注123で必然性を主観的として判断基準から外した藤田嗣治事件・範囲の必要最低限性を否定した脱ゴーマニズム宣言事件を挙げて、{{行内引用|基本的にはこのように厳格な解釈をすること自体が不当と思える}}(P.403より引用)と述べてこれらの加重的要件自体を不当とし、さらに、これらの加重的要件が引用に対する不必要な抑圧につながったり、表現の自由の萎縮を招きうると批判しています。そのうえで、これらの加重的要件はこれらの加重的要件の「正当な範囲内」または「公正な慣行」の問題として処理すべきであるとし、その根拠としてP.404注124で南国文学ノート事件、注125で作花文雄 著「詳解 著作権法 (第5版)」(2018年) 、三山裕三 著「著作権法詳説 [第10版]」(2016年) 、脱ゴーマニズム宣言事件を挙げています。 |
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::::この説明の後段で、南国文学ノート事件が挙げられているように、中山先生は必要性の類を完全に否定しているわけではなく、引用するものの属する分野において、「正当な範囲内」・「公正な慣行」に照らして、目的に沿った量・内容かどうかは考慮する必要がるというようにも読めます。(第2版ですが、[https://webtan.impress.co.jp/e/2019/03/20/31769 こちら]の③も参照)。中山先生の説に従った場合は、Wikipediaの記事は「ネットワーク上の百科事典」であり、新しい研究の場でもエッセイでも演説でもアドボカシーでもない([[WP:NOT]])ため、Wikipediaとしての引用の「正当な範囲内」・「公正な慣行」がどのような引用の仕方を要求するかが問題となってきます。これについては後述します。 |
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::::加えて言うなら、中山信弘『著作権法』第3版 P.406-409で要約引用を詳説していますが、要約引用はできないとする学説が多いとしたうえで、必要性の観点や実際の判例、現実に社会で広く行われていることを挙げて、要約引用が認めてしかるべきと主張しています。[[WP:QUOTE#引用の要件]]の「8. 被引用文を改変しないこと」では、脚注13で2007年版(こちらの内容は確認していませんが、[https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200905/jpaapatent200905_048-062.pdf こちら]のP.59(16)では、中山2007は要約引用を肯定しているとしています)を挙げているように、少し古いとはいえこの内容は読んでいるはずですから、中山先生のご主張を直ちには採用していないように思えます。 |
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::::また、法学の常なのでしょうが、上記の必然性が要件かどうかや要約引用について説が分かれているように、法学者の統一的見解がない場合は少なくなく(他の例として[https://www.mc-law.jp/kigyohomu/25984/ 棋譜の著作物性]などもあります)、予防法務的にある程度安全にWikipediaを運営しようとした場合は、複数の書籍をもとに方針を策定するのが重要であり、実際[[WP:QUOTE]]では複数の参考文献が掲載されています。当然ですが、極端に安全側に倒しすぎれば、Wikipediaの記事にほとんど何も書けなくなってしまう恐れもあるため、コミュニティとして、これは安全側に倒そう、あれは許そうというリスク管理についての合意が大切になってくるわけです。今回の場合であれば、例えば必然性を要件として挙げている加戸先生らの説をどう扱うかもある程度の合意が必要と思われます。 |
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::::さて、Wikipediaとしての引用の「正当な範囲内」・「公正な慣行」についてですが、MawaruNekoが見つけた範囲では、(判例ではないですが)[[Wikipedia:削除依頼/独島20200814]]と[[Wikipedia:削除依頼/あさくさ物語]]が好対照なのではないかと思います。前者は[[Special:Diff/79704069/79934892 ProfessorPineさんの意見]]が分かりやすく、今回の議論に即してまとめるなら、「数単語のみ抜き出した場合、解説が難しくなるか」(2)と「出典付きの説明で、引用されるものが説明上必要か」(4)が要件であるといえるのではないかと思います。{{small|(自分の1の答えも解説されていましたね)}}。一方で[[Wikipedia:削除依頼/あさくさ物語]]では、引用以外の記事の内容が主観的なエッセイ的内容で、Wikipediaに掲載する必要性が低いことから、必然性が低いと判断され、削除対応となったように見えます。(もちろん、削除された内容は確認できないので、どれくらい主観的な内容だったのかなどは確かめようがないですが)。この2件を比較した結果としては、Wikipediaの[[WP:PG|方針やガイドライン]]に沿って、信頼できる出典付きの解説を書く上で対象を引用する必要がある場合はOK、逆に内容が主観的/エッセイ的な場合はNGといえるではないかと思っており、さらにその中間の、出典がついていないが正しそうな記述で歌詞が引用されている場合はグレーゾーンに当たるのではないかと思います。歌詞を記載することは感情的な訴求力が高いため、エッセイ・演説・アドボカシーなどの場合は、その訴求力が必要になってくる場合がありますが、Wikipediaは基本的には信頼できる二次資料に基づいて執筆されるべきである([[Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料]])ため、Wikipediaの記事そのものに感情的訴求力はあまり必要なく、二次資料(場合によっては一次資料)に基づく解説を書くのに感情的訴求力を入れるのが必要な場合に限ってそのようなケースがOKとなるのではないかと思います。 |
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::::また、百科事典としての引用の「正当な範囲内」・「公正な慣行」を援用する場合にも、MawaruNekoが知る範囲では、著作権が残っている範囲の著作権の引用は、解説に必要な形での引用が多いのではないかと思います。とはいえ、MawaruNekoはそこまで百科事典を見るわけでもないので、百科事典における引用で、このような事例があったというようなものがあれば、是非教えて頂ければと思います。 |
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::::いずれにしても、引用の要件の必然性をどうするかについては、コミュニティの合意が重要なのではないかと思います。 |
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:::* 中山2020での引用の量的な話について |
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:::: 中山2020 P.399 ②では、引用できる範囲について、単に量を見ればいいのではなく、質の面や、目的の面も、その範囲の考慮に入れるべきであるとしています。本件に関して言えば、京大総長がボブ・ディランの歌を引用した件は、目的が入学式の式辞であり、その性質上、入学生と共に考えさせるような構成にする必要があり、またある程度の感情的訴求力も必要となることから、JASRAC側が適法な引用と認めた可能性があります。『鶴』に関しては、単にそのモチーフを言いたい場合は、そのモチーフに関連する部分のみを切り出すことができないかという議論が出てくるかもしれませんし、逆に例えば『鶴』の詩がガムザトフの原詩からベルネスの歌になるまでの歌詞の変遷を出典付きで解説する場合は、ボブ・ディランの歌を引用した件よりも広い範囲が引用として認められる可能性もあります。中山2020の説に従うのであれば、単純に全曲に対する引用した部分のパーセンテージを比較すればよいという話ではないように読めます。(ただしこれは日本の著作権法の話であって、アメリカの著作権法がどうなっているかは追加して確認する必要があります) |
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:::* GFDLの件について |
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:::: 現在はWikipediaのライセンスはGFDL単独ではなく、CC BY-SAとGFDLのデュアルライセンス(「フリーライセンス」)だというのはその通りです。なお、MawaruNekoは、被引用部分までGFDLもといフリーライセンスで勝手に改変が許されるようになると述べているわけではありません。[[WP:QUOTE]]の過去の議論の過程である、[[Special:PermanentLink/43929891#引用とGFDLの関係|oldid=43929891#引用とGFDLの関係]]について言及したつもりです。現在この内容は、[[WP:QUOTE#「引用の要件」以外に注意すべきこと]]の1と[[WP:QUOTE#改変を許諾するフリーライセンスと引用の関係]]に反映されていますが、議論の経過をたどるのであれば、単に箇条書きにとどまらず、将来的に加筆が行われた時に、引用の要件が危うくなるような編集を誘発するような構成は避けましょうという話であるように読めます。議論としては、[[Special:PermanentLink/36548811#質問|oldid=36548811#質問]]で、Swindさんが2007年5月9日 (水) 07:36 (UTC)の投稿で、{{行内引用|「引用」の要件を満たしていれば、歌詞でも台詞でも(略)引用することが可能です。(略)ただ、引用の要件はなかなか厳しいものがありますし、後の編集によって要件が満たされなくなってしまう可能性を考慮すると、引用は極力避けたほうが良いのではないかと思います。}}([[Special:Diff/12422935/12424209|こちら]]より引用)と述べられています。 |
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:::* 「米国のフェアユースで提供されている内容を翻訳する場合...原著作者に許可を取らねば駄目だと主張している、でよろしいですか?」について |
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:::: いいえ、違います。「原著作者に許可を取」ることは、著作権法違反にならないための十分条件ではありますが、必要条件ではないですし、そのように申し上げておりません。最後に「場合がある」をつけております。(より正確な言い方をするならば、「作者」「原著作者」ではなく「著作権の保有者」ではないかとか、ライセンスする権利をライセンスする場合もあるのではないかという話もありますが、ここでは簡単のために「原著作者」としておきます) |
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:::: 中山2020 P.494-495では、注281の前後に、日本でのフェアユース法理の否定の解説があります。例えば、絵画鑑定書事件の地裁判決では、アメリカにフェアユース法理があっても、日本にはそのような規定はないからと同法理を否定しています。(同事件は知財高裁で、引用の概念を拡張してセーフになっており、注282で重要であるとされています)中山2020は、フェアユースを早急に導入すべきであるとは主張されてはいますが、フェアユースを認めたに近い判決が多いとは言っても、フェアユース法理が日本にあるとは認めていません。 |
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:::: 米国のフェアユースである程度セーフなのに対し、日本でグレーゾーンな例としてはパロディが挙げられます(中山2020 P.503-511、日本の場合は[[パロディ・モンタージュ写真事件]]の最高裁判決の影響が大きい)。単純に述べるなら、米国では作者の許可なく合法的にパロディを発表できた場合でも、日本向けにそれを(パロディ作成者の引用という形ではなく、そのものとして)出すと、グレーゾーンになる場合があるのではないかと思います。 |
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:::* 「引用の条件も満たさないから削除した、でよろしいですか?」 |
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:::: 「削除した」は、「千羽鶴」の記事から「ツル」の記事への移行作業で、歌詞を移行しなかったことを指すものと推察しますが、その理由は「引用の条件も満たさないから」ではなく、「引用の条件を満たすかどうか判断がつかなかったから」です。そのために井戸端にこの質問を掲載して意見を募集し、引用の条件を満たしそうという意見が多ければ、歌詞を移行する予定でした。もし仮に「引用の条件も満たさない」と考えていたならば、井戸端に質問を出すのではなく、削除依頼を出すか、著作権問題調査依頼を出しています。なお説明の必要はないかもしれませんが、ページの削除や版の削除は一般ユーザであるMawaruNeko が勝手にできる操作ではなく、2022年以降は「千羽鶴」で版の削除は行われていないと思われます。 |
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:::* 「議論相手に「善意に取れ!」と言いながら話をする人は、珍しいので。」について |
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:::: 一般的な議論ではそうかもしれませんが、[[Wikipedia:善意にとる]]はWikipediaのガイドラインですので、Wikipedia上の議論でこのガイドラインに触れることはそれほど珍しいものではありません。 |
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:::: 例えば2021年以降、[[Wikipedia:善意にとる]]のガイドラインにリンクもしくは言及しているものとして、軽く検索した範囲では[[Wikipedia:井戸端/subj/同じ人に何度も書き込みを削除される時の対応方法]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/突然強めの言い方で指摘されて困っています。]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/コンテンツ翻訳を使って作成した利用者サブページからのコピペについての質問です。]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/翻訳による記事乗っ取りへの対処について]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/精神疾患を持つ利用者が、作業療法としてウィキペディアの編集に携わるのは目的外利用に当たりますか?]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/リダイレクト6新設提案]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/ニュースを載せない意味があるのか?_大きな影響があったと確定するまではダメという人がいます]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/小さいいたずらや稚拙な編集、無言での差し戻しを繰り返すソックパペットへの対応]]、[[Wikipedia:井戸端/subj/出典のない駅及び鉄道関連の記述を削除する提案]]があります。(リンクもしくはガイドラインという形で言及していないものは外しているため、もう少し多いかもしれません) |
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:::* 「「121.80.100.149 は MawaruNekoです」と言っているに等しいですね」「出典偽装」について |
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:::: おやめください。これらの発言はたとえ善意にとったとしても個人攻撃としか思えません。 |
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:::: そもそも、[[Wikipedia:井戸端/subj/YouTubeなどの動画はどれくらいの範囲の出典になるか]]でMawaruNekoが「善意に解釈」した対象はリンクの解釈であり、121.80.100.149さんが「善意に取って考え」た対象はMawaruNekoが井戸端で質問したことです。なぜこれが異口同音になるのでしょうか?[[Wikipedia:善意にとる]]にリンクしているというだけなら、[[利用者‐会話:道知辺|道知辺さんの会話ページ]]で[[User:Yuukin0248|Yuukin0248]]さんも[[Wikipedia:善意にとる]]にリンク([[Special:Diff/89016827/89100198|差分]])していらっしゃいますが、Yuukin0248さんや、上記の井戸端で[[Wikipedia:善意にとる]]にリンクした方々全員が異口同音だとおっしゃるのですか?--[[利用者:MawaruNeko|MawaruNeko]]([[利用者‐会話:MawaruNeko|会話]]) 2022年6月26日 (日) 09:31 (UTC) |
2022年6月26日 (日) 09:31時点における版
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英語版などに歌詞が記載されている場合、歌詞の翻訳は記載可能か
千羽鶴#海外の鶴に対するイメージをツル#人間との関係に移行している作業を行っているのですが、移行作業中に改めて記事の内容を確認した際に、千羽鶴#ソビエト連邦などに鶴 (歌)の出だしの翻訳があるのが改めて気になったので質問させていただきます。この曲はen:Zhuravliのように英語版ウィキペディアなどでは出だしの翻訳等が記載されているのですが、日本語版ウィキペディアでは歌詞の翻訳や、出だしの翻訳は記載可能でしょうか?--MawaruNeko(会話) 2022年6月8日 (水) 16:21 (UTC)
すみません、自分でも質問をよく説明できていなかったので整理しました。
- 他言語版だとフェアユースが認められる可能性など、jawpと運用が異なるため、他言語版に歌詞が載っているからといって、著作権の有無を確認せずに、それをjawpに転載してはいけない、という認識で正しいでしょうか?
- 今回の『鶴』の場合も、作詞者ラスール・ガムザートフが亡くなってから70年経っていないので、jawpでは著作権の保護の対象内、という認識で正しいでしょうか?
- 著作権で保護される歌詞は、(著者の許可があるなど特別な場合を除いて)引用以外の方式でjawpに歌詞を記入してはならない、という認識ですが、歌詞の(編集者による)翻訳も記入してはならないのでしょうか?
- 歌詞以外の記事の内容が十分に多く、記事の説明の都合上、歌詞の必要性が特に高い場合に限って、Wikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針に従い、最低限の歌詞を引用し、その翻訳を提示することができる、という認識で正しいでしょうか?
- 歌詞の概略の説明であれば記入してもよい、という認識で正しいでしょうか?
- (追加) WP:NOTLYRICS、WP:COPYLINKでは、著作権が保護されている歌詞を記載しているWebサイトにリンクしないように、とありますが、リンク先が分量・内容・形式などで、歌詞を「引用」しているとみなせる場合は、リンクしても大丈夫でしょうか?
よろしくお願いいたします。--MawaruNeko(会話) 2022年6月10日 (金) 15:12 (UTC)
- こちらの著作権と引用の5条件! 動画や歌詞を掲載する場合の注意点とは?を見た限りでは、冒頭だけですので、歌詞も著作権法の引用における「主従」を満たせば引用可能と考えます。ノート:千羽鶴では長い議論になっていますが、この提議が、何としてでもウクライナでは鶴に死を想起させる用法がある事を除き去りたいという意図ではないと願うばかりです。--道知辺(会話) 2022年6月12日 (日) 16:54 (UTC)
- コメント 以下は私が認識している著作権の見解を述べます。他の方のコメントとは異なることを述べることがあります。また、私は著作権の専門家ではありませんのでご了承ください。
- 1については著作権は必ず確認した方がいいでしょう。他言語版での記述が著作者侵害の虞が無いとは言い切れません。
- 2は端的に言うとその認識で正しいでしょう。翻訳物は二次的著作物と言い、原典とは別の権利が認められていますが、創作の際には原典の著作者に許諾を得る必要があります[1]。また、ロシア連邦の著作権の保護期間は著作者死亡から70年間です[2]。作詞者ラスール・ガムザートフさんは2003年に亡くなっているため、2073年まで保護されています。つまり、著作者が権利を放棄している場合、原典の著作者の許諾がある場合を除いて、日本語の翻訳物でも日本語版ウィキペディアには2073年まで記述できないことになります。また、日本語版ウィキペディアのサーバはアメリカ合衆国にありますので、アメリカ合衆国の法令にも従う必要があることも留意しなければなりません(Wikipedia:アメリカ合衆国以外の国と地域で公表された著作物の著作権について)。
- 3については翻訳でも歌詞は記入してはいけません。理由は2と同様です。
- 4はその認識で正しいでしょう。なお、千羽鶴#ソビエト連邦に書かれている日本語訳ですが、節の記述のほとんどを占めていて、歌詞を記述する必然性が低く、1番の半分ほどを書いている(これは冒頭のみではないでしょう)ところを見るに、正当な引用であると言うには微妙ではないかと思っています。千羽鶴#ロシア連邦も同様です。
- 5は歌詞を解説したものであれば問題ないでしょう。
- 6はそれで大丈夫だと思います。ただしそのリンクするサイトがWikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針#日本の著作権法に書かれている7つの要件をすべて満たしていることを確認する必要があります。
- 長くなりましたが以上です。--鐵の時代(会話) 2022年6月13日 (月) 12:32 (UTC)
- 返信 まず、自分の中で混乱があって、最初の質問が変なものになってしまい、分かりにくいタイトルになったことについてお詫び申し上げます。
- 移行作業中に、当該節に歌詞があるのが気になり、jawpでは歌詞の記載にかなり慎重だったという記憶があったので、移行する前に井戸端で歌詞の翻訳の記載について確認しておきたかったというのが本件で質問させていただいた経緯となります。
- 返信 (道知辺さん宛) 移行作業前に記事を読んだときは、ご指摘の通り引用と言えるのではないかと思ったのですが、移行作業で改めて読み返したときに、
「歌詞」のように、...(中略)...比較的短い著作物を引用する場合は、特に慎重にならなければなりません。
(Wikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針#「引用の要件」以外に注意すべきことより引用)や尚、引用については法的に正当なものであってもウィキペディアにおいて認められるとは必ずしも言えません。
(Wikipedia:著作権#他人の著作物を使うときより引用)が気になり、さらに過去の議論では、Wikipedia:井戸端/過去ログ/2004年5月#歌詞を載せずに歌詞の特徴に触れたいやWikipedia‐ノート:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針 oldid=36548811#歌詞について、同oldid=36548811#引用の必然性に関する判例の有無についてなどが気になり、さらに自分の中でも混乱があって、結局歌詞の引用の可否がよく分からなくなったというのが本件となります。- なお、今回の歌はウクライナではなくロシアの歌ですが、ツル#鶴_(歌)に「戦場で命を散らした兵士たちが白い鶴に姿を変えたという内容」と、概略の形できちんと記載(移行)させていただいておりますので、ご安心いただければと思います。
- 返信 (鐵の時代さん宛) 感謝 ご丁寧にありがとうございます。とても分かりやすい解説でした。特に4と5に関しては、要約引用の問題から、歌詞の概略よりも、きちんと歌詞を引用した方が安全ではないかという考えもよぎったため、他の方の意見が聞けて良かったです。--MawaruNeko(会話) 2022年6月13日 (月) 14:35 (UTC)
返信 MawaruNekoさんとは千羽鶴をめぐり果てしない議論をしなければいけなくなっていて正直、苦痛ですし明日も仕事なので取り急ぎ、英語の歌詞を引用するのはまずい、といったお二方の意見が現実の日本社会では通用しそうにない、という実例を紹介します。式辞に歌詞使用、著作権料を請求 京大HP掲載でJASRACだったものが結局、ボブ・ディランの歌詞掲載となりました。平成29年度学部入学式 式辞を見ますと、ボブ・ディランの歌詞が合計、10行引用されています。風に吹かれて (ボブ・ディランの曲)の記事の下部に張られているリンクから歌詞を見ると、曲は3番まであって、1番あたり8行です。学長は歌の順番通りに式辞で引用したわけではありませんが、分量的には1番全部と、さらに1/4程を引用したことになります。行数で計算すると、全曲の41.6%になります。
いっぽう私が英語版から訳したru:Журавли (песня)ですが、歌詞のリンクは、張ってないようですが、av:ХъахӀал къункъраби#ХІужжабиにはリンクが張ってありまして、全体で24行ですね。そのうちの4行を訳しましたから、全曲の16.7%になります。JASRACが引用と認めた京大の式辞に比べると、私が曲から引用した割合はずっと低いです。
鐵の時代さんは「歌詞を記述する必然性が低く」とのご意見ですが、京大の式辞を見ますと、常識にとらわれない自由な発想について演説する場面でボブディランの歌を引用していますが、常識にとらわれない自由な発想について演説するのであれば「歌詞を記述する必然性は皆無」ですね。ボブディランの曲を引き合いに出さずとも説明可能ですから。それでも、JASRACは、いったんは著作料を求めたものの、後に引用であると認めました。鐵の時代さんやMawaruNekoさんは、”JASRACは権利請求できた筈のものを、著作権を知らず専門家も居ないから誤判断したのだ”とでも主張なさいますか? 私は、JASRACは鐵の時代さんやMawaruNekoさんと違い、著作権はプロだと思いますが、ご異論がありますか? JASRAC以上にプロだと言うなら、その証明を求めます。
oldid=36548811#引用の必然性に関する判例の有無についてを見まして、先人達が積み上げてきたのが今のWikipediaなんだなと思いましたが、後進として、時代に合わせて内容をアップデートすべきではないでしょうか。現在では、必然性は絶対条件ではなくなっています。中山信弘『著作権法』第3版 p.403 及びその前後をご覧ください。読んで理解する気が無いのでしたら、必然性の議論をしても無駄ですので、これ以上は述べません。
矛盾しているかのような主張ですが、アヴァル語やロシア語の『鶴』の歌詞には、兵士が死ぬと鶴になるという考えがあることを説明するのに、必要不可欠と思われますが、お二人揃って必然性がないと主張するのは不思議ですね。歌詞を全く引用しないで、どうやって歌詞に兵士が死ぬと鶴になるという考えがあると示せるというのでしょうか。
さて、やっと本題です。最初、著作権上の問題があるというなら、削除依頼なり、著作権の調査依頼をする場所に提起すべきで「なぜあえて井戸端に?」と疑問だったのですが、なんとなく
- これは質問の体裁を取っているが、実際には質問ではない。
- 米国のフェアユースを訳せば著作権侵害だ、という主張がしたいようだ。あまり見かけない主張ではないか。(日米露ともベルヌ条約加盟国な筈だから日本では日本の著作権だけを考えればいい筈)
- 私が鶴 (歌)に転記する事をノートで提案していたので、歌詞を鶴 (歌)に載せないようにするのが本当の目的だろう。
- 削除依頼には出せないのだろう。存続となると困るから。
- 著作権問題調査依頼に出さないのも、ここだと著作権を知っている人が見やすいし、侵害だと思うなら削除依頼に出すように言われるので、それも避けたいようだ。
あたりは、ノート:千羽鶴における非常に長い議論の末にパターンが読めるようになっていたのですが、でもあえて井戸端に出した理由そのものはわからなかったのですが、
- ツル#鶴_(歌)に「戦場で命を散らした兵士たちが白い鶴に姿を変えたという内容」と、概略の形できちんと記載(移行)させていただいておりますので、ご安心いただければと思います。
を見て「これか!」と思い、また、ツル#鶴_(歌)で、
スラブ文化で死者がツルなどの渡り鳥に姿を変えるという伝承に基づいて、戦場で命を散らした兵士たちが白い鶴に姿を変えた
のように、完全に無出典で書かれていたので「やはりそうか!」と思いました。ウクライナ語の鶴の歌に関し、Wikipedia:井戸端/subj/YouTubeなどの動画はどれくらいの範囲の出典になるかで、出典の厳密性を厳しく追求しているMawaruNekoさんが、自分はロシア語の鶴の歌に、無出典で兵が死ぬと鶴になる旨を書く事はあり得ず、これは最初からの「作戦」で、いずれ無出典だからと消すための布石だなと。歌詞が引用できなければ、無出典ですから。
フェアユースのくだりも、正面から論じるのではなく、歴史修正主義が好んで使うような、著作権的にまずいのではないか、との疑念を抱かせ、削除依頼で白黒はっきりさせるのは避けつつ、しかし歌詞をツル#鶴_(歌)に転記させるのは阻止する、という目的でしょうね。著作権的に問題があると指摘するなら、「匂わせ」ではなく、削除依頼に出して白黒はっきりさせるべきでは? --道知辺(会話) 2022年6月18日 (土) 13:11 (UTC)
尚、引用については法的に正当なものであってもウィキペディアにおいて認められるとは必ずしも言えません。
(Wikipedia:著作権#他人の著作物を使うときより引用)とすでに述べた通り、ウィキペディアは著作権法で規定されたルールよりも厳しめに引用の要件を設けています。JASRACが請求しなかったからとか中山信弘先生の本で必然性が絶対条件じゃなくなったから、引用は(日本の著作権)法的に正当なものであるということまでは言えますが、だからといってウィキペディアにおいて認められるとは必ずしも言えません。さらに、歌詞はそこでも明言されている通り、特に取り扱いに慎重になるべきものです。- Wikipediaの場合、単に内容を発信するだけでなく、内容をGFDLで配布するということになっていますので、予防法務的に、「こんなケースもあったから大丈夫、ギリギリを攻めよう」ではなく、ある程度の安全バッファを持っておくのは非常識的な行動ではないと思います。
- 日本の著作権法的に、必然性が絶対条件じゃなくなっており、ある程度必然性に拘束されずに引用したいのであれば、まず行うべきはWikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針の変更の提案でしょう。この試験段階の方針に「必然性」が必要だと書いてあるのに、中山先生が日本語版Wikipediaの法務担当者であるというならば別ですが、仮に中山先生の本に必然性は絶対条件じゃないと書いてあったところで、直ちに日本語版Wikipediaでの引用の要件に必然性は絶対条件じゃないというのは論理の飛躍に思えます。
- 道知辺さんが「なんとなく」の後ろに書かれた5項目の箇条書きに関して
- 1つ目: 違います。御覧の通り質問です。
- 2つ目: 語弊があるので明確にすると、「著作物Aを、米国でフェアユースによりAの作者に無断で著作物Bに含め、(Bの作者の許可だけ取って)そのBをAを含んだままAの作者に無断で日本向けに日本語訳すると、日本の著作権法違反になりうる場合がある」という話であればそれは同意します。なお、上で自分が述べたのはさらに限定がかかっていて、「英語版Wikipediaでは(本当に向こうの方針で認められているのかどうかは知りませんが)フェアユースで記載可能な記述が含まれている可能性があるから、それをそのまま著作権などを確認せずに日本語版Wikipediaに翻訳転載すると、日本語版Wikipediaの方針に違反する可能性がある(か?)」という話です。
- 3つ目: 歌詞は日本語版Wikipediaの引用の要件を満たすかどうか疑義があるため、「本当の目的だろう。」というところは否認しますが、日本語版Wikipediaの引用の要件を満たさない形で歌詞を鶴 (歌)に載せようというのであれば反対します。
- 4つ目: 削除依頼を出さないのは、ノート:千羽鶴#2022/06/09の転記作業についてに書いた通り、「違反状態が軽微であると認められる場合」に該当するのではないかと考えているからです。
- 5つ目: 著作権問題調査依頼には出すことを考えていませんでしたが、なんなら出しますか?
- ツル#鶴_(歌)が無出典状態なのは、道知辺さんが千羽鶴#ソビエト連邦千羽鶴#ロシアを無出典で書かれたのを移行したからですね。MawaruNekoは「2022年6月7日 (火) 15:56 (UTC) = 2022年6月8日 (水) 00:56 (JST)までに反対がなければ、転記作業を始めたいと思います。」差分と予告して、MawaruNekoが移行作業を始めたのは2022-06-08T13:59:03Z(Special:Diff/89781560/89916816)だったわけですが、2022-06-08T13:59:03Zに「ソビエト連邦」と「ロシア」は移行しておらず2022-06-08T14:52:14Zに道知辺さんが「「ソビエト連邦」と「ロシア」は鶴 (歌)に移すべきと思います。」差分と発言されたとはいえ、既に移行作業の途中だったわけで、2022-06-08T15:59:00Zに当該節を無出典でツルに移したわけです。これを消すための「作戦」呼ばわりされるのはあまり快いものではないですね。
- あと、「Wikipedia:井戸端/subj/YouTubeなどの動画はどれくらいの範囲の出典になるかで、出典の厳密性を厳しく追求しているMawaruNekoさん」とありますが、そうなのですか?ノート:千羽鶴にも書いた通り、そのWikipedia:井戸端/subj/YouTubeなどの動画はどれくらいの範囲の出典になるかで、道知辺さんが「YouTubeは出典にならない」(差分)とおっしゃるのに対して、「道知辺さんの書かれた節が無出典とならないよう、最大限動画を出典として解釈させていただいた」と書いたMawaruNekoの方がルーズに見えますが?
そんなことより、道知辺さんは--MawaruNeko(会話) 2022年6月18日 (土) 15:42 (UTC) --MawaruNeko(会話) 2022年6月21日 (火) 13:04 (UTC) 打消し線いっぽう私が英語版から訳したru:Журавли (песня)ですが
(差分)とおっしゃっていますが、英語版ウェキペディアのen:Zhuravliに記述された、英語に翻訳された歌詞を、さらに日本語版ウェキペディアに翻訳して記述されたのでしょうか?また、範囲は、ラスール・ガムザートフの原詩と、ロシア語の詩両方でしょうか?当該の歌詞が書かれた差分の要約欄は「改定」だけとなっておりますが。
(補足) 質問 道知辺さんの--MawaruNeko(会話) 2022年6月18日 (土) 15:56 (UTC) --MawaruNeko(会話) 2022年6月21日 (火) 13:04 (UTC) 打消し線いっぽう私が英語版から訳したru:Журавли (песня)ですが
(差分)について、この2つは大きな違いがあるのですが、当該記事の2つの歌詞は、「英語版ウィキペディアの翻訳を参考にして、道知辺さんが元の歌詞から翻訳した」のでしょうか?それとも「英語版ウィキペディアの翻訳をさらに翻訳した」のでしょうか?- 当該の版より前のこちらの差分の要約に記載されていらっしゃいましたね。失礼いたしました。具体的な歌詞の内容についての議論がありますので、それはノート:千羽鶴#『鶴』の歌詞についてに書かせていただきます。 --MawaruNeko(会話) 2022年6月21日 (火) 13:04 (UTC)
- 歌詞を追加された方は「現実の日本社会で通用」するかしないかを論じられていますが、ここはあくまでWikipediaなので、Wikipedia内のルールに従うのが一番だと思います。日本語版Wikipedia(以下jawp)では、著作権侵害やプライバシー侵害の理由(WP:DP#B)で削除依頼が出された場合、侵害の有無が微妙なラインだと、「安全側に倒して削除」という結論に至ることが往々にしてあります。今回の場合も著作権の保護期間だと考えられ、また、引用の必要性が無いという意見が多数を占めるのであれば、削除という結論に至ろうかと思料します。なお、質問者様が敢えて削除依頼や著作権問題調査依頼に提出せず井戸端で質問なさったのは善意に取って考えると、まず広く意見を聞いてからアウトな様なら依頼に出そう、という思考だと私は思います。それを、自分の編集が削除されるかも知れないと言う疑念からとは言え、「歴史修正主義」などと言う少々過激な言葉まで持ち出して悪意に取るのは、共同作業で記事を作り上げるjawpには少し向いていないんじゃないかと考えます。--121.80.100.149 2022年6月24日 (金) 20:24 (UTC)
- なんだか、121.80.100.149 さんは、MawaruNeko さんとおしゃる事が似ていますね。急にこの議論に参加なさるのもちょっと不思議ですし、MawaruNeko さんの全面擁護をなさっているのはともかく、Wikipedia:善意にとるを、
- Youtubeの動画を出典として使用しようとされているのではないかと善意に解釈してこの質問をさせていただいた
- と、6月13日にWikipedia:井戸端/subj/YouTubeなどの動画はどれくらいの範囲の出典になるかでMawaruNeko さんが異口同音におっしゃっているのが、とても印象的です。議論相手に「善意に取れ!」と言いながら話をする人は、珍しいので。申し上げにくいですが、MawaruNeko さんにおかれましては、発言内容が善意に摂られるような編集行動を心がけていただく他に無いかと思います。
- まず、大きな間違いから指摘しますが
- Wikipediaの場合、単に内容を発信するだけでなく、内容をGFDLで配布するということになっています
- かなり根本的かつ致命的な所から間違っていますね。この一言で「ああ、この人まるで理解してないな」と言わざるを得ません。GFDLなのは、Wikipediaの執筆者が自ら書いた文面です。例えば千羽鶴には
- 西村博之(中略)「無駄な行為をして、良い事をした気分になるのは恥ずかしい事である」
- と、西村博之氏の発言を引用していますが、もし「GFDLで配布する」というのが正しければ、自由に西村博之氏の発言を改変できるわけです。ところがそれだと引用の条件を満たさなくなってしまい著作権侵害ですね。よって、「GFDLで配布する」ことができなくなるので西村博之氏の発言を引用している箇所は削除しなければいけなくなる、というおかしな事になります。
間違っている理由まで説明しないといけないですかね。Wikipedia:削除の方針#削除対象になるものに記載の内容を抜粋しますが- 削除されるものの例:
- 著作者本人が GFDLとCC BY-SA 3.0のデュアルライセンス での配布に同意している場合や、同ライセンスの条件下で再利用可能なもの(パブリック・ドメインのものなど)等は除きます。
- 引用が著作権法の要件を満たしていないもの。
- 削除されるものの例:
- とあるように、Wikipediaの記事は「GFDLとCC BY-SA 3.0のデュアルライセンス」および「著作物の引用」で構成されています。著作物の引用は、GFDLでもCC BY-SAでもありません。なんでこんな説明からしないといけないような大勘違いな人が判断するのかな、と思います。申し訳ありませんが、著作権が解っていないことが解っていない人と井戸端で議論しても、キリがないですね。私には果てしなく時間を割いてあなたを無償で著作権のコーチをする責任はありませんから。
- 「歴史修正主義」などと言う少々過激な言葉まで持ち出して悪意に取るのは、共同作業で記事を作り上げるjawpには少し向いていないんじゃないかと考えます。--121.80.100.149 2022年6月24日
- では「出典偽装」と読み替えてください。ところで上記のセリフ、「121.80.100.149 は MawaruNekoです」と言っているに等しいですね。見事に「代弁」している、しかも、MawaruNeko さんのアカウントで言ってしまうと問題になるので言えないWikipedia撤退要求。いかにも「本音が現れた」感があります。これで「善意に取れ!」ですか。
- 前置きが長くなりましたが、MawaruNeko さん。結局、歌詞の引用は
- 米国のフェアユースで提供されている内容を翻訳する場合です。あなたは
- 「著作物Aを、米国でフェアユースによりAの作者に無断で著作物Bに含め、(Bの作者の許可だけ取って)そのBをAを含んだままAの作者に無断で日本向けに日本語訳すると、日本の著作権法違反になりうる場合がある」という話であればそれは同意します。
- とのご主張ですが、要するに、原著作者に許可を取らねば駄目だと主張している、でよろしいですか?
- 引用の条件も満たさないから削除した、でよろしいですか?
- 以上2点、回答をお願いします。上記2点にきちんとお答えいただけず、はぐらかすような議論をなさった場合は、回答拒否&著作権上の侵害は無いのに削除したものと判断させていただきます。--道知辺(会話) 2022年6月25日 (土) 13:54 (UTC)
- ここ数日リアルが忙しくて、さらに図書館に中山先生の本を確認しに行ったりとかでなかなか筆が追い付かず申し訳ないです。
- 返信 (121.80.100.149さん宛) コメントありがとうございます。削除依頼などを出さなかったのは、歌詞の引用が適切か適切でないか判断がつかなかったため、おっしゃるように、広く意見を聞きたかったというのが意図となります。そのうえで、ノート:千羽鶴#2022/06/09の転記作業についてに書きましたが、(判断がつかないというのはあるものの)「違反状態が軽微であると認められる場合」に該当するのではないかと考えております(これに関しては、認識が甘いとお叱りを受けるかもしれませんが)。
- 中山信弘『著作権法』第3版(2020年) p.403での必然性の解説について
- 「中山信弘『著作権法』第3版 p.403 及びその前後をご覧ください」とのことでしたので、図書館で確認してきましたが、中山信弘 著「著作権法 第3版」(2020年) P.403-404の必然性に関する説明では、適法引用の要件の加重的要件として必然性(・必要性)と範囲の必要最低限性を挙げている説としてP.403注122で著作権法令研究会、通商産業省知的財産政策室 編「著作権法・不正競争防止法改正解説」(1999年) , 金井重彦、小倉秀夫 編著「著作権法コンメンタール〈上巻〉」(2002年)、ある場合の必要最低限性として加戸守行 著「著作権法逐条講義 〈六訂新版〉」(2013年)があるとした上で、注123で必然性を主観的として判断基準から外した藤田嗣治事件・範囲の必要最低限性を否定した脱ゴーマニズム宣言事件を挙げて、
基本的にはこのように厳格な解釈をすること自体が不当と思える
(P.403より引用)と述べてこれらの加重的要件自体を不当とし、さらに、これらの加重的要件が引用に対する不必要な抑圧につながったり、表現の自由の萎縮を招きうると批判しています。そのうえで、これらの加重的要件はこれらの加重的要件の「正当な範囲内」または「公正な慣行」の問題として処理すべきであるとし、その根拠としてP.404注124で南国文学ノート事件、注125で作花文雄 著「詳解 著作権法 (第5版)」(2018年) 、三山裕三 著「著作権法詳説 [第10版]」(2016年) 、脱ゴーマニズム宣言事件を挙げています。 - この説明の後段で、南国文学ノート事件が挙げられているように、中山先生は必要性の類を完全に否定しているわけではなく、引用するものの属する分野において、「正当な範囲内」・「公正な慣行」に照らして、目的に沿った量・内容かどうかは考慮する必要がるというようにも読めます。(第2版ですが、こちらの③も参照)。中山先生の説に従った場合は、Wikipediaの記事は「ネットワーク上の百科事典」であり、新しい研究の場でもエッセイでも演説でもアドボカシーでもない(WP:NOT)ため、Wikipediaとしての引用の「正当な範囲内」・「公正な慣行」がどのような引用の仕方を要求するかが問題となってきます。これについては後述します。
- 加えて言うなら、中山信弘『著作権法』第3版 P.406-409で要約引用を詳説していますが、要約引用はできないとする学説が多いとしたうえで、必要性の観点や実際の判例、現実に社会で広く行われていることを挙げて、要約引用が認めてしかるべきと主張しています。WP:QUOTE#引用の要件の「8. 被引用文を改変しないこと」では、脚注13で2007年版(こちらの内容は確認していませんが、こちらのP.59(16)では、中山2007は要約引用を肯定しているとしています)を挙げているように、少し古いとはいえこの内容は読んでいるはずですから、中山先生のご主張を直ちには採用していないように思えます。
- また、法学の常なのでしょうが、上記の必然性が要件かどうかや要約引用について説が分かれているように、法学者の統一的見解がない場合は少なくなく(他の例として棋譜の著作物性などもあります)、予防法務的にある程度安全にWikipediaを運営しようとした場合は、複数の書籍をもとに方針を策定するのが重要であり、実際WP:QUOTEでは複数の参考文献が掲載されています。当然ですが、極端に安全側に倒しすぎれば、Wikipediaの記事にほとんど何も書けなくなってしまう恐れもあるため、コミュニティとして、これは安全側に倒そう、あれは許そうというリスク管理についての合意が大切になってくるわけです。今回の場合であれば、例えば必然性を要件として挙げている加戸先生らの説をどう扱うかもある程度の合意が必要と思われます。
- さて、Wikipediaとしての引用の「正当な範囲内」・「公正な慣行」についてですが、MawaruNekoが見つけた範囲では、(判例ではないですが)Wikipedia:削除依頼/独島20200814とWikipedia:削除依頼/あさくさ物語が好対照なのではないかと思います。前者はSpecial:Diff/79704069/79934892 ProfessorPineさんの意見が分かりやすく、今回の議論に即してまとめるなら、「数単語のみ抜き出した場合、解説が難しくなるか」(2)と「出典付きの説明で、引用されるものが説明上必要か」(4)が要件であるといえるのではないかと思います。(自分の1の答えも解説されていましたね)。一方でWikipedia:削除依頼/あさくさ物語では、引用以外の記事の内容が主観的なエッセイ的内容で、Wikipediaに掲載する必要性が低いことから、必然性が低いと判断され、削除対応となったように見えます。(もちろん、削除された内容は確認できないので、どれくらい主観的な内容だったのかなどは確かめようがないですが)。この2件を比較した結果としては、Wikipediaの方針やガイドラインに沿って、信頼できる出典付きの解説を書く上で対象を引用する必要がある場合はOK、逆に内容が主観的/エッセイ的な場合はNGといえるではないかと思っており、さらにその中間の、出典がついていないが正しそうな記述で歌詞が引用されている場合はグレーゾーンに当たるのではないかと思います。歌詞を記載することは感情的な訴求力が高いため、エッセイ・演説・アドボカシーなどの場合は、その訴求力が必要になってくる場合がありますが、Wikipediaは基本的には信頼できる二次資料に基づいて執筆されるべきである(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)ため、Wikipediaの記事そのものに感情的訴求力はあまり必要なく、二次資料(場合によっては一次資料)に基づく解説を書くのに感情的訴求力を入れるのが必要な場合に限ってそのようなケースがOKとなるのではないかと思います。
- また、百科事典としての引用の「正当な範囲内」・「公正な慣行」を援用する場合にも、MawaruNekoが知る範囲では、著作権が残っている範囲の著作権の引用は、解説に必要な形での引用が多いのではないかと思います。とはいえ、MawaruNekoはそこまで百科事典を見るわけでもないので、百科事典における引用で、このような事例があったというようなものがあれば、是非教えて頂ければと思います。
- いずれにしても、引用の要件の必然性をどうするかについては、コミュニティの合意が重要なのではないかと思います。
- 中山2020での引用の量的な話について
- 中山2020 P.399 ②では、引用できる範囲について、単に量を見ればいいのではなく、質の面や、目的の面も、その範囲の考慮に入れるべきであるとしています。本件に関して言えば、京大総長がボブ・ディランの歌を引用した件は、目的が入学式の式辞であり、その性質上、入学生と共に考えさせるような構成にする必要があり、またある程度の感情的訴求力も必要となることから、JASRAC側が適法な引用と認めた可能性があります。『鶴』に関しては、単にそのモチーフを言いたい場合は、そのモチーフに関連する部分のみを切り出すことができないかという議論が出てくるかもしれませんし、逆に例えば『鶴』の詩がガムザトフの原詩からベルネスの歌になるまでの歌詞の変遷を出典付きで解説する場合は、ボブ・ディランの歌を引用した件よりも広い範囲が引用として認められる可能性もあります。中山2020の説に従うのであれば、単純に全曲に対する引用した部分のパーセンテージを比較すればよいという話ではないように読めます。(ただしこれは日本の著作権法の話であって、アメリカの著作権法がどうなっているかは追加して確認する必要があります)
- GFDLの件について
- 現在はWikipediaのライセンスはGFDL単独ではなく、CC BY-SAとGFDLのデュアルライセンス(「フリーライセンス」)だというのはその通りです。なお、MawaruNekoは、被引用部分までGFDLもといフリーライセンスで勝手に改変が許されるようになると述べているわけではありません。WP:QUOTEの過去の議論の過程である、oldid=43929891#引用とGFDLの関係について言及したつもりです。現在この内容は、WP:QUOTE#「引用の要件」以外に注意すべきことの1とWP:QUOTE#改変を許諾するフリーライセンスと引用の関係に反映されていますが、議論の経過をたどるのであれば、単に箇条書きにとどまらず、将来的に加筆が行われた時に、引用の要件が危うくなるような編集を誘発するような構成は避けましょうという話であるように読めます。議論としては、oldid=36548811#質問で、Swindさんが2007年5月9日 (水) 07:36 (UTC)の投稿で、
「引用」の要件を満たしていれば、歌詞でも台詞でも(略)引用することが可能です。(略)ただ、引用の要件はなかなか厳しいものがありますし、後の編集によって要件が満たされなくなってしまう可能性を考慮すると、引用は極力避けたほうが良いのではないかと思います。
(こちらより引用)と述べられています。
- 「米国のフェアユースで提供されている内容を翻訳する場合...原著作者に許可を取らねば駄目だと主張している、でよろしいですか?」について
- いいえ、違います。「原著作者に許可を取」ることは、著作権法違反にならないための十分条件ではありますが、必要条件ではないですし、そのように申し上げておりません。最後に「場合がある」をつけております。(より正確な言い方をするならば、「作者」「原著作者」ではなく「著作権の保有者」ではないかとか、ライセンスする権利をライセンスする場合もあるのではないかという話もありますが、ここでは簡単のために「原著作者」としておきます)
- 中山2020 P.494-495では、注281の前後に、日本でのフェアユース法理の否定の解説があります。例えば、絵画鑑定書事件の地裁判決では、アメリカにフェアユース法理があっても、日本にはそのような規定はないからと同法理を否定しています。(同事件は知財高裁で、引用の概念を拡張してセーフになっており、注282で重要であるとされています)中山2020は、フェアユースを早急に導入すべきであるとは主張されてはいますが、フェアユースを認めたに近い判決が多いとは言っても、フェアユース法理が日本にあるとは認めていません。
- 米国のフェアユースである程度セーフなのに対し、日本でグレーゾーンな例としてはパロディが挙げられます(中山2020 P.503-511、日本の場合はパロディ・モンタージュ写真事件の最高裁判決の影響が大きい)。単純に述べるなら、米国では作者の許可なく合法的にパロディを発表できた場合でも、日本向けにそれを(パロディ作成者の引用という形ではなく、そのものとして)出すと、グレーゾーンになる場合があるのではないかと思います。
- 「引用の条件も満たさないから削除した、でよろしいですか?」
- 「削除した」は、「千羽鶴」の記事から「ツル」の記事への移行作業で、歌詞を移行しなかったことを指すものと推察しますが、その理由は「引用の条件も満たさないから」ではなく、「引用の条件を満たすかどうか判断がつかなかったから」です。そのために井戸端にこの質問を掲載して意見を募集し、引用の条件を満たしそうという意見が多ければ、歌詞を移行する予定でした。もし仮に「引用の条件も満たさない」と考えていたならば、井戸端に質問を出すのではなく、削除依頼を出すか、著作権問題調査依頼を出しています。なお説明の必要はないかもしれませんが、ページの削除や版の削除は一般ユーザであるMawaruNeko が勝手にできる操作ではなく、2022年以降は「千羽鶴」で版の削除は行われていないと思われます。
- 「議論相手に「善意に取れ!」と言いながら話をする人は、珍しいので。」について
- 一般的な議論ではそうかもしれませんが、Wikipedia:善意にとるはWikipediaのガイドラインですので、Wikipedia上の議論でこのガイドラインに触れることはそれほど珍しいものではありません。
- 例えば2021年以降、Wikipedia:善意にとるのガイドラインにリンクもしくは言及しているものとして、軽く検索した範囲ではWikipedia:井戸端/subj/同じ人に何度も書き込みを削除される時の対応方法、Wikipedia:井戸端/subj/突然強めの言い方で指摘されて困っています。、Wikipedia:井戸端/subj/コンテンツ翻訳を使って作成した利用者サブページからのコピペについての質問です。、Wikipedia:井戸端/subj/翻訳による記事乗っ取りへの対処について、Wikipedia:井戸端/subj/精神疾患を持つ利用者が、作業療法としてウィキペディアの編集に携わるのは目的外利用に当たりますか?、Wikipedia:井戸端/subj/リダイレクト6新設提案、Wikipedia:井戸端/subj/ニュースを載せない意味があるのか?_大きな影響があったと確定するまではダメという人がいます、Wikipedia:井戸端/subj/小さいいたずらや稚拙な編集、無言での差し戻しを繰り返すソックパペットへの対応、Wikipedia:井戸端/subj/出典のない駅及び鉄道関連の記述を削除する提案があります。(リンクもしくはガイドラインという形で言及していないものは外しているため、もう少し多いかもしれません)
- 「「121.80.100.149 は MawaruNekoです」と言っているに等しいですね」「出典偽装」について
- おやめください。これらの発言はたとえ善意にとったとしても個人攻撃としか思えません。
- そもそも、Wikipedia:井戸端/subj/YouTubeなどの動画はどれくらいの範囲の出典になるかでMawaruNekoが「善意に解釈」した対象はリンクの解釈であり、121.80.100.149さんが「善意に取って考え」た対象はMawaruNekoが井戸端で質問したことです。なぜこれが異口同音になるのでしょうか?Wikipedia:善意にとるにリンクしているというだけなら、道知辺さんの会話ページでYuukin0248さんもWikipedia:善意にとるにリンク(差分)していらっしゃいますが、Yuukin0248さんや、上記の井戸端でWikipedia:善意にとるにリンクした方々全員が異口同音だとおっしゃるのですか?--MawaruNeko(会話) 2022年6月26日 (日) 09:31 (UTC)
- ここ数日リアルが忙しくて、さらに図書館に中山先生の本を確認しに行ったりとかでなかなか筆が追い付かず申し訳ないです。
- なんだか、121.80.100.149 さんは、MawaruNeko さんとおしゃる事が似ていますね。急にこの議論に参加なさるのもちょっと不思議ですし、MawaruNeko さんの全面擁護をなさっているのはともかく、Wikipedia:善意にとるを、