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「富士市立吉永第一小学校」の版間の差分

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2022年10月7日 (金) 17:29時点における版

富士市立吉永第一小学校
地図北緯35度09分57.2秒 東経138度43分18.0秒 / 北緯35.165889度 東経138.721667度 / 35.165889; 138.721667座標: 北緯35度09分57.2秒 東経138度43分18.0秒 / 北緯35.165889度 東経138.721667度 / 35.165889; 138.721667
過去の名称 比奈尋常小学校
吉永村立穆清尋常小学校
吉永第一国民学校
吉永村立吉永第一小学校
吉原市立吉永第一小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 富士市
校訓 穆清の心
設立年月日 1873年明治6年)6月1日
共学・別学 男女共学
学期 2学期制
学校コード B122210000790 ウィキデータを編集
所在地 417-0847
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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富士市立吉永第一小学校の位置(静岡県内)
富士市立吉永第一小学校

富士市立吉永第一小学校(ふじしりつ よしながだいいちしょうがっこう)は、静岡県富士市比奈にある市立小学校

沿革

  • 1873年明治6年)6月1日 - 医王寺を仮校舎として開校。
  • 1887年(明治20年)7月 - 比奈尋常小学校と改称。
  • 1890年(明治23年)1月 - 吉永村立穆清尋常小学校と改称。
  • 1903年(明治36年)8月 - 現在地に移転。
  • 1941年昭和16年)4月 - 吉永第一国民学校と改称。
  • 1947年(昭和22年)4月 - 吉永村立吉永第一小学校と改称。
  • 1955年(昭和30年)2月 - 吉原市立吉永第一小学校と改称。
  • 1957年(昭和32年)1月 - 鉄筋3階建校舎(12教室)落成。
  • 1958年(昭和33年)6月 - プール落成。
  • 1963年(昭和38年)3月 - 講堂(兼体育館)落成。
  • 1964年(昭和39年)4月 - 校歌制定。
  • 1966年(昭和41年)11月 - 富士市立吉永第一小学校と改称。
  • 1972年(昭和47年)11月 - 創立100年記念誌『穆清』発行。
  • 1975年(昭和50年)5月 - 鉄筋3階建校舎(14教室3教材室)、給食室、生駒先生胸像完成。
  • 1982年(昭和57年)3月 - 鉄筋3階建校舎(特別教室・管理室)完成。
  • 1982年(昭和57年)9月 - 新プール落成、チューリップ時計完成(台は昭和57年度卒業生、時計は昭和60年度卒 業生の寄贈による)。
  • 1989年平成元年) - 生駒先生胸像の建て替え。
  • 1990年(平成2年) - 新体育館落成、特別教室5教室新設。二宮金次郎像の移転。
  • 1992年(平成4年)4月 - 創立120周年記念航空写真撮影。
  • 1993年(平成5年)3月 - 運動場トイレ完成。
  • 1996年(平成8年)1月 - 富士市より学校給食表彰。
  • 2001年(平成13年) - 2月、うさぎ広場完成。11月、インターネット開通。
  • 2003年(平成15年) - 3月、中庭ビオトープ工事終了。11月、創立130周年式典開催。
  • 2004年(平成16年)3月 - 創立130周年記念誌『穆清』発行[1]

詳細

学制公布に伴って、比奈村(1873年(明治6年)に東比奈村・中比奈村・西比奈村の3村が合併)、富士岡村(1876年(明治9年)に東宗高村・西宗高村・宗高村・花守村の4村が合併)、および原田村字瀧川区が連合して「穆清舎」を開校した[2]。初代校長には生駒藤之を招聘し、医王寺を仮校舎とした。明治7年に「第二大学区第十四番中学区第四番小学校穆清舎」、翌年には「第二大学区第十四番中学区八十一番、八十二番小学聯合公立小学校穆清舎」と改称。1876年(明治9年)に禰宜の前に校舎を建築した。明治年間は、学校の建築費、維持費、運営経費、そして人件費すべてを村民が負担した。村の管理者や指導者にとって、学校建築の経済的負担と就学の督励は、とくに大きな問題だった。学生数は次第に増加し、1880年(明治13年)に建坪102坪、二階16・7坪の木造瓦葺の校舎を増築[3]

1886年(明治19年)に教育令が廃止され、代わりに小学校令が制定された。これによって尋常小学校(4年)と高等小学校(4年)の二段階制が採用され、尋常小学校での修学が義務化された。また同年、行政区の名称が変わったという経緯から、「富士郡第四学区尋常小学校穆清舎」に改称。さらに、1889年(明治22年)の町村制制定に伴い、比奈村・富士岡村・桑崎村・石井村・鵜無淵村・間門村が合併したため、翌年「吉永村立穆清尋常小学校」へと改称された[4]

1901年(明治34年)に高等科を併設して「吉永村立穆清尋常高等小学校」となる[5]。学生が増加したため、1903年(明治36年)8月30日、現在地竹の鼻に校舎を新築。校地は1,517坪(うち農業実習地が239坪、校舎306坪)であった。第三次小学校令の明治40年改正により、義務教育制が6年に延長されると児童数が急増。そのため明治41年に二教室を増築、同44年には二階建六教室を増築した。このときの校地は2,595坪であった[6]

1941年(昭和16年)、国民学校令の施行に伴い「吉永第一国民学校」と改称、校名から穆清の文字が消えた。

「生駒文庫」

初代校長を務めた生駒藤之の蔵書が、生駒文庫として校長室内に保管されている。付属品として、生駒藤之の古刀を収蔵[7]

種別 部数 冊数
辞書類 2 42
経書類 14 34
歴史書 15 92
詩類 10 32
文書文法 17 42
書類 3 18
雑類 9 12
合計 70 262

校訓

  • 校訓

「穆清の心」〜よろこび 心おだやかにし 気持ちのよい風のように〜

  • 学校教育目標

「あかるく やさしく たくましく」

関連する人物

周辺地域

脚注

  1. ^ 富士市立吉永第一小学校 (2004). 穆清. 富士市立吉永第一小学校. p. 28 
  2. ^ 当時は2~6村が連合して学校を設立するという実情であった。
  3. ^ 石田英夫、佐藤清吾、菊池光男、その他11名 (1992). 鈴木富男. ed. 吉永の郷土誌. 富士市吉永第一地区まちづくり推進会議、吉永の郷土誌編集委員会. pp. 482-485 
  4. ^ 石田英夫、佐藤清吾、菊池光男、その他11名 (1992). 鈴木富男. ed. 吉永の郷土誌. 富士市吉永第一地区まちづくり推進会議、吉永の郷土誌編集委員会. pp. 492-494 
  5. ^ 穆清尋常高等小学校 (1912). 吉永村史稿. 吉永村(富士) 穆清尋常高等小学校. p. n.p. 
  6. ^ 石田英夫、佐藤清吾、菊池光男、その他11名 (1992). 鈴木富男. ed. 吉永の郷土誌. 富士市吉永第一地区まちづくり推進会議、吉永の郷土誌編集委員会. pp. 500-503 
  7. ^ 石田英夫、佐藤清吾、菊池光男、その他11名 (1992). 鈴木富男. ed. 吉永の郷土誌. 富士市吉永第一地区まちづくり推進会議、吉永の郷土誌編集委員会. pp. 519-520 
  8. ^ 北川桃雄『斉藤知一郎伝』斉藤知一郎伝記編纂部、1962年、24頁。 
  9. ^ 石原 崇兆 選手(清水エスパルスユース) ファジアーノ岡山へ来季新加入内定のお知らせ|清水エスパルス - 公式WEBサイト”. 清水エスパルス 公式WEBサイト. 2020年10月21日閲覧。

関連項目

外部リンク