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「白津山」の版間の差分

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2022年11月23日 (水) 10:24時点における版

白津山

旧合川町から望む白津山
手前の川は阿仁川
標高 443.37 m
所在地 日本の旗 日本
秋田県北秋田市能代市
位置 北緯40度08分33.22秒 東経140度14分58.73秒 / 北緯40.1425611度 東経140.2496472度 / 40.1425611; 140.2496472座標: 北緯40度08分33.22秒 東経140度14分58.73秒 / 北緯40.1425611度 東経140.2496472度 / 40.1425611; 140.2496472
白津山の位置(秋田県内)
白津山
白津山の位置
プロジェクト 山
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白津山(しらつやま)とは、秋田県北秋田市能代市にまたがる山である。北秋田市合川中学校校歌の2番で白津山が「白津の山の脈 うるわし四季の色 ますぐにのびる 杉のたくまし おおわが合川中学校 おおわが合川中学校」と歌われているように、旧合川町のシンボル的な山である。

白津山正法院

北秋田市鎌沢字家ノ南45にある曹洞宗寺院の正法院は「鎌沢の大仏」で有名であるが、正法院の山号は白津山で、元々は白津山の山頂付近に寺院があったと言われる。白津山の修験道の行者が山岳仏教から民間仏教へ移行し、山を下って沢羽立から三里五輪岳に移り、地域住民の要請で現在地に移され、1657年(明暦3年)沖田面の福昌寺4世安室舜泰大和尚を開山のため勧請し開創された[1]

現在の白津山正法院 山門と本殿
向かって右に大仏殿がある

『房住山昔物語』によれば房住山の大施主である翁面(現上小阿仁村沖田面)の高倉長者の実子は釜ヶ沢(現北秋田市鎌沢)に住み、この一帯を小兄ヶ沢と称した。1134年(長承3年)に小阿仁の山中(現能代市濁川と三種町の堺。濁川は当時小阿仁に属していた)に梵字宇山(房住山)大幢寺があった。大幢寺は山本郡や北秋田郡の両郡にわたって里寺がいくつもあった霊場であった。阿仁の大施主等は地蔵尊を阿仁沢に作って欲しいと申し出てそれがかなった[2]

口伝によると、峠を300mほど合川側に下ると道の南側方向への小道がある。そこを少し進むと標高248mのピーク(写真では白津山の左にあるピーク)の東側に白津山正法院の昔の寺蹟ではないかと言われる場所がある。その部分だけが20度ほどの緩斜面になっていて、10mほどの幅がある。右は急崖になっていてその上が嶺らしい。左は斜面が急に落ち込んでいる。しかし、発掘調査を試みようとしても植林された杉の根がからまって果たせなかった[3]

民話

昔、山本郡森岳の山口に池内角左衛門という長者がいた。この家には藤子、竜子という仲の良いふたりの若い女中が使われていた。藤子は機織(東能代駅前付近)の生まれで色白で人並み優れた美人。竜子は鷹巣村の出身で、たいそう気立てのやさしい娘であった。近郷近在の若者は藤子に言い寄るものの、藤子はそれをうけながし、脇目もふらず働く娘であった。ところが、そのうち一日の仕事が終わり夕食の後片付けがすむと、決まって毎晩のように屋敷から姿を消すようになった。それでも、翌朝になると早くから起きて変わりなく働いているので、どこに何をしに行くのか誰も知るものはいなかった。このことが若者たちの噂になり、若者2、3人が藤子の後をつけた。藤子は足が速く若者たちはまたたく間に藤子の姿を見失った。 こうしたことが2、3度続けられた。藤子は白津山山麓にある田代潟まできて、ここで汗をふき着物の崩れや髪の乱れを直し、女らしい身支度をととのえるのだった。白津山の山頂には正法院という寺があった。そこに、一人の若い美男の修験者がいた。藤子はこの修験者に恋をしていた。しかし、この修験者は道心堅固な行者であったので、毎夜通ってくる藤子のささやきにも耳をかたむけようとしなかった。ある夜のこと、かたくなな男心に恋も叶わぬものと世をはかなんで、湖底に身を沈めてしまった。それから間もなく、主家に帰らぬ藤子について噂が若者に広がった。「藤子は白津山の正法院の若い僧と夜ごとの逢瀬を楽しんで家へ帰るのを忘れたのだ」これを聞いた竜子は、藤子の身を心配して主人の許しを得て白津山の正法院を訪れ、若い修験者から藤子が自殺をしたことを聞き、主家に帰ってから一部始終を主人に話した所、主人は藤子を哀れに思い、湖畔に弁財天をご神体とする白藤神社を建立して藤子の霊を慰めてやった[4]

白藤神社の神体は弁財天であった。その後、龍子は北秋田郡増沢村の平左右門に嫁いだが、その折主家から藤子の遺品として日頃彼女が使っていたと戸棚や櫛箱をもらい、他の嫁入り道具と一緒にもって嫁いで行った[5]

伝説が語られる田代潟は白津山の中腹にある
沼の南部(画面では左上)の杉林の中に白藤神社がある

森岳に伝わる民話は細部が異なっている。姉の名前は「きよ子」となっていて、実直な娘が居眠りをし始めたことになっている。修験者と娘は心を通わすことに成功するが、後をつけた下男2人にそれを見られてしまう。しかし、下男も逆に修験者に見つかりそうになり慌てて逃げる。主人はそれを聞き修験者が田代潟の主と看破すると、きよ子は二度と池内家には戻ってこなかった。田代潟を訪ねてみるときよ子がはいたぞうりが潟の岸にそろえてあり、そこから水の中に足跡が続いていた。何年か後、干ばつに悩んだ人々が神に祈ったところ、きよ子から「私は田代潟に入ってたつ子になりました。今は幸せです。雨が欲しいときにはいつでもその望みをかなえます」と御告げがあった。以来、森岳や山口の人々は干ばつの時には、山口の池内家の誰かを雨乞いに行かせる。順路は池内家-水分口-鏡井戸-濁川-田代潟という順で、きよ子がたどった順路を田代潟に至ると必ず帰路は雨に濡れて帰るという[6]

『二ツ井町史』に記載された伝説では池内角左衛門という長者が出てくる。池内家は戦国時代には名家であったが、江戸時代には郷士として森岡に土着して、江戸時代中期には7・8代に渡って森岡の肝煎をつとめ、その後山口に移り付近一帯を開墾した一家である。しかし、池内家には角左衛門を名のった人はいなく、三浦角左衛門と混同したものと思われる[7]

潟からとった魚を食うと口が曲がる、潟の魚を食べた人が数日後に死んだなど。話者も潟で獲れた魚をもらったことがあったが、気味が悪いので川に放してやった[8]

雨乞いの潟 - 炎天が続き水枯れになると、近隣の農家の人々はよく潟に出向いては雨乞いをしたものだと言われている。底なし潟 - 田代の集落に住んでいた人が、潟に沈んでいる老木を採取しようと潜水夫を潜らせて調べた。しかし、水中に日光は届かず、暗くて老木の根元を確認することは出来なかった。そればかりか本人は病気を患い、潜水夫は早死にしたという。以後、だれも、深さを計ろうとしなかった[9]

能代市扇田では田代潟に雨乞いに行った。扇田では集落の中に排水路を兼ねた水路があり、そこにはいつもすがすがしい水が流れていた。家が二軒あり、水路に板を渡して食器などを洗っていた。十九になる娘が、あるとき急に姿を消してしまった。ある晩、娘が父親の枕元に立ってこういった。「この流れは狭い。田代の潟サ行って主になるから」父が娘を探して潟に行ってみると娘が履いていた下駄が一足、潟のほとりにキチンと揃えてあった。娘は蛇体となって潟に入ったのだ。集落では旱魃のときに部落行事として田代潟で雨乞いを行った。一戸から一人ずつ戸主が出て、朝暗いうちに集落を出て、母岱(桧山の沢)の山を通ってセンノウ台から山へ入り川を渡ってきつい坂を登った。帰りは夕方になった。「蛇体は卵が好きだから」と、必ず卵を持っていった。田代潟を「沼」と言ったら年長者から「あれは沼でねえ。潟だ」と叱られたという。また「安保さんが行かねばだめ」とも言われていて。安保家の娘が田代潟に住んだ娘であるという言い伝えがあったためであり、そこの家族はこの行列に必ず加わったものであった[10]

田代潟のそばに竜神様(潟の神)を祀る。2間四面のお宮。旧暦の毎月19日、出羽田代のお婆さん達が田代潟に行ってお神酒を上げてくる。3月19日には家中で行く。その日には阿仁や青森からも参りに来る。日の悪い人が潟参りに行けないので代わりに人に頼んで行ってもらったが、その人が潟の中に賽銭を何度入れても自分の所に戻ってきたという話がある。森岳の人はひでりが続くと1日で山越えして来て、田代潟で雨乞いをする。潟の中に馬の骨を投げ込み龍神様を怒らせて雨を降らせた。今から30年ほど前の秋の日の午後に名左衛門集落の成田キヱが二ツ井に用事があったその帰りに、森林軌道の中で田代潟への案内を頼まれた。頼んだ人は大館の人で、ある理由で田代潟の行く途中であった。それは、その人が潟の中に、潟ができる時の山の爆発で沈んだネキ(水没して黒ずんだ杉の大木で、銘木として高価)があると聞き、それを取ろうと山師ともぐりの人と他4人、全部で7人で潟に来た。もぐりが湖底まで泳いでみるとネキはあったが、引き上げようとするとにわかに天気が悪くなり大雨がフリ、田代潟のつつみが切れ命からがら逃げて来た。その翌日にもぐりの人がぽっくりと死に、本人もいろいろその後不幸なことが重なった。また別に体に異常はないのだけれども、疲れて動けなくなり、医者にみてもらったが原因がわからず、とうとう北海道まで行き、ゴショさんに尋ねると「潟の神様が怒った結果だ」と占ってくれた。さらに沼を拝みに行けと言われたのでその人はゴショさん一行を組みこの村に来て案内を頼んだ。一行とキヱさんは仙の台で森林鉄道を降り、潟の神社まで登り鏡、するめ、昆布、貝、野菜、果物をあげ、潟の神に謝った。すると澄んでいた湖面がはげしく波打ちしばらくしておさまった、それからゴショさんは鳥居につかまり、じょんがら節を踊って帰ってくるとその後、大館の人は病気も治り、現在も生きながらえているそうである。そのほか田代潟には奇妙な話が数々残っている。潟からとった魚を食べると口が曲がるとか、潟にいた大きな魚を食べた人が何日か後死亡したという話である。キヱさんの宅でも前に潟の魚を貰ったが気持ちが悪いので田代川に放してやったそうである[11]

沖田面の山の上には、足の形をした沼がある。これは大人の足跡で、もう一つの足跡は二ツ井町にあるという。沖田面の足の形をした沼はどんな暑い夏にも水がなくならない。これは左足の形をしており、二ツ井の田代には右足の形をした沼がある。これらは、大人の足跡であるという[12]

白津山の交通

白津山の峠道は現能代市(旧二ツ井町)田代と旧合川町の往来の道であった。1647年(正保4年)の『出羽一国絵図[13]』にはこの峠道が記されている。1730年(享保15年)の『村名唱文字替覚』には「只今迄秋田郡此度山本郡田代村」とある。久保田藩は秋田郡小阿仁郷であった田代村を山本郡に編入したことが推測できる。「宗門人別帳」には田代村の人々の所属寺院が記載されているが、沖田面の福昌寺、杉花の常光寺、鎌沢の正法院ともに、田代村の檀信徒を抱えている。現代でも小阿仁地区の血縁関係を尋ねてみると、田代村との婚姻関係を語る者が多い[14]。田代では正法院の檀家が最も多く、続いて福昌寺の檀家が少しある[15]

現在の峠道は林道になっており、写真では白津山と一つ左のピークの鞍部に峠がある。

白津山を通った人たち

菅江真澄による田代潟

菅江真澄1805年(文化2年)に、川井村の斎藤宅に在ったが、9月7日に案内人を頼んで羽根山沢から白津山を超えて田代村に向かった。彼は日記『みかべのよろい』にそれを記載している。

阿仁の紅葉も見たいが、昨年の秋に見ているので、このたびは白乳山にのぼり田代山にも分け入ることにして出発した。朝、川を渡り出てきた川井村を振り返って見た。羽根山の部落を経て、沢羽立という部落を左手に見て、陰の沢(欠田沢?)という山道を登ってゆくと、七段坂というところがあった。昔、琵琶法師が道をたどりながら口ずさんで、七段まで語ると坂を登り終わったという伝説がある。白地山に登ると、大峡小峡いちめんに杉が群立って深く茂る中に、薄く濃く紅葉し、また時雨を待つ枝なども混じって、その美しさは言いようもない。森吉が岳には雪がわずかばかり降り始めており、陸奥の栗駒山か岩手山か、頂の雪がしろじろと遠く見え、森吉の左手の尾根からあらわれていた[16]

解説の内田武志は「栗駒岩手山米代川流域から見えぬ」としているが、実際には白津山山頂付近から岩手山は森吉山の少し左に山頂が見える。菅江真澄は田代潟と「澤はたち(羽立沢)」の絵図を描いている。澤はたちの絵図には「阿仁の羽根山邑の奥に澤波多地とて幽なる山里あり。白地山にのぼる麓にして、もともおかしきところ、もみつるころはさらなり」という添文がある。現在の林道があるのは春慶沢で、菅江真澄がのぼった欠田沢はその手前の沢である。地形図には道がついているが、現在は刺草が生え茂り歩くのは困難である[17]

秋田戦争では仁鮒村から秋田藩の小野寺隊、茂木隊の約400名が田代村からの道案内を先頭に白津の山越えをした[18]

登山

白津山近景

合川町と旧二ツ井町を結ぶ林道の最高点付近から北にヤブの道を峰伝いに移動すると、徒歩約0.7kmで山頂に到達する。 山頂は平坦な杉の造成地になっており、現在はヤブ化が進んでいるが、昭和63年度の点の記によると二等三角点「仁鮒」があり、その南には複数のベンチがあったことが記録されている。

脚注

  1. ^ 『心のふる里 秋田のお寺』、秋田魁新報社、1997年
  2. ^ 『丈六延命地蔵菩薩像修復地蔵堂改築記念誌』、白津山正法院記念誌編集委員会、2008年、p.7
  3. ^ 『鷹巣地方史研究 55』、鷹巣地方史研究会、平成16年10月、p.14
  4. ^ 二ツ井町史』、二ツ井町町史編さん委員会、1977年、p.535
  5. ^ 『郷土誌 ひびきむら』、響村郷土史編纂委員会、1956年、p.125-126
  6. ^ 山本町史』、山本町町史編さん委員会、1979年、p.751-752
  7. ^ 『町史拾遺いろいろ』、戸松勇治、1995年、p.65
  8. ^ 民俗採訪. 昭和43年度』、國學院大學民俗学研究会、1969年9月、p.29
  9. ^ 『二ツ井町の文化財9』、二ツ井町教育委員会、1989年、p.22-23
  10. ^ 『能代市史 特別編 民俗』、能代市、2004年、p.618-619
  11. ^ 民俗採訪. 昭和43年度』、国学院大学民俗学研究会、1969年、p.27-29
  12. ^ 上小阿仁の民俗』、東洋大学民俗研究会、1980年、p.433-434
  13. ^ 『秋田県の地名』日本歴史地名体系5、平凡社、1980年 収録
  14. ^ 『鷹巣地方史研究 55』、鷹巣地方史研究会、平成16年10月、p.14-16
  15. ^ 民俗採訪. 昭和43年度』、国学院大学民俗学研究会、1969年、p.27
  16. ^ 『菅江真澄遊覧記 4』、内田武志、平凡社、p.186-187
  17. ^ 『鷹巣地方史研究 55』、鷹巣地方史研究会、平成16年10月、p.17-18
  18. ^ 『鷹巣地方史研究 55』、鷹巣地方史研究会、平成16年10月、p.19