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{{Rough translation|英語版}}
{{基礎情報 過去の国
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|日本語国名 = ラテン帝国
|日本語国名 = ロマニア帝国
|公式国名 = '''Latin Empire'''
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|亡国時期 = [[1261年]]<ref group="注">東ローマ帝国は1261年に[[ミカエル8世パレオロゴス]]の下でコンスタンティノープルを取り戻した。[[1579年]]に[[オスマン帝国]]が[[ナクソス公国]]を併合するまでラテン人の財産はギリシアに残り、[[1383年]]に[[ジャック・デ・ボー]]が死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続けた。</ref>
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|国章説明 =国章{{#tag:ref|(コンスタンティノープルは1261年に東ローマ帝国に復帰していたが、)[[1273年]]から[[1283年]]までラテン皇帝の称号を有した、[[フィリップ1世・ド・クルトネー]]により使われた国章。このデザインは時として、[[近世]]の紋章学において「コンスタンティノープルの皇帝の紋章」として示された<ref>Hubert de Vries, [http://www.hubert-herald.nl/ByzantiumArms.htm Byzantium: Arms and Emblems (hubert-herald.nl)] (2011).</ref>。|group="注"}}
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'''ラテン帝国'''(ラテンていこく、[[英語]]:Latin Empire / Latin Empire of Constantinople)とは、[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)から奪った[[コンスタンティノープル]]に[[第4回十字軍]]の指導者らが建国した[[封建制]][[十字軍国家]]である。[[正教会]]のローマ皇帝に代わって[[カトリック]]の皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国は東ローマ帝国に代わって東方で西洋諸国が認める[[ローマ帝国]]になろうとしていた
'''ラテン帝国'''(ラテンていこく、{{Lang-en|Latin Empire / Latin Empire of Constantinople}})は、[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国){{Refnest|group="注釈"|「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。ラテン帝国という国名は東ローマ帝国側からの呼称。}}から奪った[[コンスタンティノープル]]に[[第4回十字軍]]の指導者らが建国した[[封建制]][[十字軍国家]]である。


第4回十字軍の後、旧東ローマ帝国領に成立した他のラテン勢力、特に[[ヴェネツィア共和国]]に対して政治的・経済的優位性を得ることに失敗し、初期の短い軍事的成功の後は北方の[[第二次ブルガリア帝国]]や東ローマ帝国の継承権を主張する様々な国と絶えず戦争状態にあったため、次第に衰退していった。最終的には、[[1261年]]に東ローマ帝国の[[亡命政府|亡命政権]]のひとつである[[ニカイア帝国]]がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させた。{{要出典範囲|最後の皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]は収監された。|date=2023年7月}}
第4回十字軍は当初、[[ムスリム]]が支配する都市[[エルサレム]]を取り返すために召集されたが、十字軍による東ローマの帝都コンスタンティノープル略奪において、一連の経済的そして政治的事件は頂点に達した。本来、計画は[[アレクシオス3世アンゲロス]]によって帝位を簒奪され退位させられた、東ローマ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス]]を復位させるためのものであった。十字軍はイサキオスの子[[アレクシオス4世アンゲロス]]によって財政的・軍事的援助を約束されており、その支援によりエルサレムに進み続けることを計画していた。十字軍がコンスタンティノープルに到達すると状況は直ぐに危険なものへ一変し、イサキオスとアレクシオスが短期間統治したが、十字軍が望んだような支払いを受け取ることはなかった。[[1204年]]4月、彼らはコンスタンティノープルの莫大な富を占拠し略奪した。


== 国名 ==
十字軍は[[フランドル伯]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]を初代皇帝に選出し、総大司教にはヴェネツィア出身のトマーゾ・モロシーニを任じて、ラテン帝国を樹立した{{sfn|へリン|2010|p=349}}。旧東ローマ領を封土として付与された十字軍諸侯らは、[[ラテン皇帝一覧|ラテン皇帝]]に忠誠を誓った{{sfn|井上|2005|p=194}}。ラテン帝国の支配権は、[[ニカイア]]の{{仮リンク|ラスカリス家|en|Laskaris}}や[[トラブゾン]]の[[コムネノス家]]に率いられた{{仮リンク|残存国家|en|Rump state}}により直ちに楯突かれた。[[1224年]]から[[1242年]]には、[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス]]が[[テッサロニキ]]からラテン帝国に異を唱えた。ラテン帝国は第4回十字軍の後、旧東ローマ領に成立した他のラテン勢力、特に[[ヴェネツィア共和国]]に対して政治的・経済的優位性を得ることに失敗し、短い初期の軍事的成功の後は北方の[[第二次ブルガリア帝国]]や東ローマの継承権を主張する様々な国と絶えず戦争状態にあったため、着実に衰退していった。最終的には、[[1261年]]に[[ミカエル8世パレオロゴス]]の[[ニカイア帝国]]がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させた。最後のラテン皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]は収監されたが、複数の詐称者とともに皇位は[[14世紀]]まで存続した。
東ローマ帝国から[[フランコクラティア]]({{Lang-el|Φραγκοκρατία}}, フランク人の支配)、あるいはラテノクラティア({{Lang-el|Λατινοκρατία}}, ラテン人の支配)としてラテン帝国は言及され、'''[[ラテン皇帝一覧|ラテン皇帝]]'''自身は一般的に、{{Lang-la|Imperium Constantinopolitanum}}({{Lang-en|Empire of Constantinople}}, コンスタンティノープル帝国)や{{Lang-la|Imperium Romaniae}}({{Lang-en|Empire of Romania}}, ロマニア{{Refnest|group="注釈"|ロマニアとは「ローマ人の土地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。「ロマニア」という語は数世紀にわたり、東ローマ帝国臣民によって自国のために非公式に使われた。}}帝国)、{{Lang-la|Imperium Romanorum}}({{Lang-en|Empire of the Romans}}, ローマ人の帝国)といった様々な名前によって帝国について触れた。

「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。東ローマ帝国は[[フランコクラティア]](ギリシア語:Φραγκοκρατία、"フランク人の支配")、あるいはラテノクラティア(Λατινοκρατία、"ラテン人の支配")としてラテン帝国に言及し、ラテン皇帝自身は一般的に、imperium Constantinopolitanum(Empire of Constantinople、コンスタンティノープル帝国)やimperium Romaniae(Empire of Romania、ロマニア帝国)、imperium Romanorum(Empire of the Romans、ローマ人の帝国)といった様々な名前によって帝国について触れた。ロマニア(ローマ人の土地)という用語は数世紀にわたり、自国のために東ローマ帝国臣民によって非公式に使われた。


==歴史==
==歴史==
===起源と成立===
===起源と成立===
{{See also|フランコクラティア|{{仮リンク|ニカイア・ラテン戦争|en|Nicaean–Latin wars}}}}
{{See also|フランコクラティア|{{仮リンク|ニカイア・ラテン戦争|en|Nicaean–Latin wars}}}}
[[File:PriseDeConstantinople1204PalmaLeJeune.JPG|thumb|1204年の第4回十字軍におけるコンスタンティノープル包囲]]
[[ファイル:PriseDeConstantinople1204PalmaLeJeune.JPG|thumb|1204年の第4回十字軍におけるコンスタンティノープル包囲]]
[[File:Baudouin de Constantinople.JPG|thumb|建国者ボードゥアン9(1世)像]]
[[ファイル:Baudouin de Constantinople.JPG|thumb|初代皇帝のボードゥアン1世像]]
第4回十字軍は当初、[[アイユーブ朝|ムスリム]]が支配する都市[[エルサレム]]を取り返すために召集された十字軍は[[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス3世]]によって帝位を簒奪され退位させられた、東ローマ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]の子[[アレクシオス4世アンゲロス|アレクシオス4世]]によって財政的・軍事的援助を約束されており、その支援によりエルサレムに進み続けることを計画していた。本来、計画はイサキオス2世を復位させるためのものであった。十字軍が東ローマの帝都コンスタンティノポリスに到達すると状況{{何の範囲|date=2023年7月}}は直ぐに危険なもの{{何が範囲|date=2023年7月}}へ一変し、イサキオス2世とアレクシオス4世が短期間統治したが、十字軍が望んだような支払い{{どれ範囲|date=2023年7月}}を受け取ることはなかった。[[1204年]]4月、彼らはコンスタンティノポリスの莫大な富を占拠し略奪した。十字軍によるコンスタンティノポリス略奪において、一連の経済的そして政治的事件{{何の範囲|date=2023年7月}}は頂点に達した。
[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|コンスタンティノープル包囲戦]]の後、十字軍は東ローマ帝国の分割について合意した{{sfn|へリン|2010|p=367}}。1204年10月に署名された{{仮リンク|東ローマ帝国領分割条約|en|Partitio terrarum imperii Romaniae}}では、[[クレタ島]]などの島嶼部を含む帝国領の8分の3が[[ヴェネツィア共和国]]のものとなった{{sfn|井上|栗生沢|1998|p=184}}。ラテン帝国は以下の残留領土を主張して権力を行使した。

[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|コンスタンティノープル包囲戦]]の後、十字軍は[[5月16日]]に[[フランドル伯]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン9世]]を初代皇帝に選出{{Refnest|group="注釈"|これは[[マルギト (東ローマ皇后)|前東ローマ皇妃(ハンガリー王女)]]と結婚して、ギリシア、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の支持を得た[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]が強力になるのを恐れたヴェネツィア側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。}}し、総大司教にはヴェネツィア出身の{{仮リンク|トンマーゾ・モロジーニ|label=トマーゾ・モロシーニ|en| Thomas Morosini}}を任じて、ラテン帝国を樹立した{{Sfn|へリン|2010|p=349}}。{{要出典範囲|[[正教会]]のローマ皇帝に代わって[[カトリック教会|カトリック]]の皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国は東ローマ帝国に代わって東方で西洋諸国が認める[[ローマ帝国]]になろうとしていた。|date=2023年7月}}

十字軍は東ローマ帝国の分割について合意した{{Sfn|へリン|2010|p=367}}。1204年10月に署名された{{仮リンク|東ローマ帝国領分割条約|en|Partitio terrarum imperii Romaniae}}では、[[クレタ島]]などの島嶼部を含む帝国領の8分の3が[[ヴェネツィア共和国]]のものとなった{{Sfn|井上|栗生沢|1998|p=184}}。ラテン帝国は以下の残留領土を主張して権力を行使した。
*[[封臣]]地に分割されたギリシア地域
*[[封臣]]地に分割されたギリシア地域
**[[テッサロニキ王国]]
**[[テッサロニキ王国]]
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*北トラキアにあった{{仮リンク|フィリッポポリス公国|en|Duchy of Philippopolis}}
*北トラキアにあった{{仮リンク|フィリッポポリス公国|en|Duchy of Philippopolis}}


旧東ローマ帝国領を封土として付与された十字軍諸侯らは、ラテン皇帝に忠誠を誓った{{Sfn|井上|2005|p=194}}。さらなる[[公国]]{{Refnest|group="注釈"|ここでの「公国({{Lang-en|duchy}})」という語は、旧東ローマ帝国領で通常[[ドゥクス]]によって管理された[[テマ制]]という語が、属州を指定するために使われていたことを反映する{{Sfn|Hendrickx|2015|pp=305–306, 309}}。}}は[[ニカイア]]、[[ニコメディア]]、[[アラシェヒル|フィラデルフィア]]、{{仮リンク|ネオカストラ|en|Neokastra}}といった[[アナトリア半島|小アジア]]で計画されたが、そこで[[ニカイア帝国]]が誕生したため、これらの公国は机上のままであった{{Sfn|Hendrickx|2015|pp=308–310}}。皇帝ボードゥアン1世は、旧東ローマ帝国領の全土の征服を目指した。当初は順調に征服が進むかに見えたが、東ローマ帝国のギリシャ人貴族層を冷遇し、正教会の聖職者達にはカトリックの典礼を強制したため、ギリシャ人の不満は高まりだした。貴族達は東ローマ帝国の皇族達が各地に建てた亡命政権へ参加したり、[[第二次ブルガリア帝国]](ワラキア=ブルガリア)と協力するなどしてラテン帝国へ抵抗し、聖職者達は協力を拒否した。
さらなる[[公国]]はニカイア、[[ニコメディア]]、[[アラシェヒル]]、{{仮リンク|ネオカストラ|en|Neokastra}}といった[[小アジア]]で計画されたが、そこにて[[ニカイア帝国]]が誕生したため、これらの公国は仮想のままであった{{sfn|Hendrickx|2015|pp=308–310}}。ニカイアそのものは占領されることなく、その地を受領するはずだった[[ルイ1世 (ブロワ伯)|ブロワ伯ルイ1世]]は[[アドリアノープルの戦い (1205年)|アドリアノープルの戦い]]にて死亡し{{sfn|Hendrickx|2015|p=308}}、初代皇帝ボードゥアン1世もブルガリアと[[クマン人]]の連合軍に敗れて捕虜となった{{sfn|森安|今井|1981|p=123}}。ニカイア帝国による一時的な再征服の後、ニコメディアはラテン帝国の支配下に戻ったが、ニコメディア公領は帝国領の一部のままであった{{sfn|Hendrickx|2015|pp=308–309}}。第2代ラテン皇帝[[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]は、1205年の{{仮リンク|アドラミュティオンの戦い|en|Battle of Adramyttion (1205)|label=アドラミュティオンの戦い}}にて地方有力者であった{{仮リンク|テオドロス・マンガファス|en|Theodore Mangaphas}}を破った後にネオカストラの領有権を主張したが、そこがラテン帝国の実効支配下に入ることはなかった{{sfn|Hendrickx|2015|p=309}}。一方でネオカストラは単一の所有者に与えられることはなく、[[聖ヨハネ騎士団]](4分の1)とその他の封建家臣の間で分割された。ここでの「公国(duchy)」という用語は、旧東ローマにて通常[[ドゥクス]]によって管理された[[テマ制]]という語が、属州を指定するために使われていたことを反映する{{sfn|Hendrickx|2015|pp=305–306, 309}}

一方、新たに樹立されたラテン帝国の領土は十字軍の騎士達に封土として分割されたため、存立基盤が弱く、指導者の1人だったモンフェッラート侯ボニファーチョ1世はボードゥアン1世と対立し、ギリシアに[[テッサロニキ王国]]を築いて半独立の構えを示した。ヴェネツィアの関心は群島領土と海港の保持と制海権のみで、帝国の内陸部には興味を示さなかった。

ラテン帝国の支配権は、ニカイアの{{仮リンク|ラスカリス家|en|Laskaris}}や[[トラブゾン|トレビゾンド]]の[[コムネノス家]]に率いられた{{仮リンク|残存国家|en|Rump state}}により直ちに楯突かれた。[[1224年]]から[[1242年]]には、[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス]]が[[テッサロニキ帝国|テッサロニキ]]からラテン帝国に異を唱えた。ニカイアそのものは占領されることなく、その地を受領するはずだった指導者の1人[[ルイ1世 (ブロワ伯)|ブロワ伯ルイ1世]]は1205年4月、ラテン帝国と第二次ブルガリア帝国の間で勃発した[[アドリアノープルの戦い (1205年)|アドリアノープルの戦い]]で戦死し{{Sfn|Hendrickx|2015|p=308}}、初代皇帝ボードゥアン1世も侵攻してきたブルガリア皇帝の[[カロヤン・アセン]]と[[クマン人]]の連合軍に大敗して捕虜となった{{Sfn|森安|今井|1981|p=123}}。この敗北は、ラテン帝国への打撃でもあり、同国は混沌とした状態に陥った{{Sfn|Андреев|Лалков|1996|pp=168–171}}{{Sfn|Fine|1987|pp=81–82}}。勢いづいたブルガリア軍は各地を蹂躙し、ラテン帝国側は首都コンスタンティノープルの他にはいくつかの主要都市を維持するだけであり、早くも滅亡寸前となった。しかし、ブルガリアのあまりに激しい略奪のため、ギリシャ人は再びラテン帝国を頼るようになった。摂政に立ったボードゥアン1世の弟[[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ・ド・エノー]]は、ギリシャ人に融和的な政策をとって彼等の支持を受ける一方で周囲を制圧し、東ローマ亡命政権の[[エピロス専制侯国]]やニカイア帝国とも有利な条件で講和を結ぶことに成功した。また、テッサロニキ王国のボニファーチョ1世とも、{{仮リンク|アグネス・ド・モンフェラート|label=彼の娘|en|Agnes of Montferrat}}と結婚することで和解した。

ニカイア帝国による一時的な再征服の後、ニコメディアはラテン帝国の支配下に戻ったが、ニコメディア公領は帝国領の一部のままであった{{Sfn|Hendrickx|2015|pp=308–309}}。ボードゥアン1世の弟の第2代皇帝[[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]は、1205年の{{仮リンク|アドラミュティオンの戦い|en|Battle of Adramyttion (1205)|label=アドラミュティオンの戦い}}地方有力者であった{{仮リンク|テオドロス・マンガファス|en|Theodore Mangaphas}}を破った後にネオカストラの領有権を主張したが、そこがラテン帝国の実効支配下に入ることはなかった{{Sfn|Hendrickx|2015|p=309}}。一方でネオカストラは単一の所有者に与えられることはなく、[[聖ヨハネ騎士団]]{{Refnest|group="注釈"|4分の1。}}{{誰範囲|その他の封建家臣|date=2023年7月}}の間で分割された。


{{Main|{{仮リンク|ブルガリア・ラテン戦争|en|Bulgarian–Latin wars}}}}
{{Main|{{仮リンク|ブルガリア・ラテン戦争|en|Bulgarian–Latin wars}}}}
一方、ラテン帝国の成立を受けた第二次ブルガリア帝国は、当初ラテン帝国と友好関係を築こうと試みていたが、ラテン側はそれを拒絶するどころか教皇も認めていたブルガリア領の支配権を主張した。ブルガリアの[[カロヤン・アセン]]東ローマ貴族とトラキアで同盟を組、東ローマ側はカロヤンを皇帝として迎え入れることを約束した{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|p=167}}{{sfn|Kazhdan|1991|p=1095}}。1205年4月、ラテン帝国と第二次ブルガリア帝国の間で勃発した上述のアドリアノープルの戦いは、新たに樹立されたラテン帝国へ打撃でもあり、同国は混沌とした状態に陥った{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=168–171}}{{sfn|Fine|1987|pp=81–82}}。予期せぬブルガリア側の勝利は東ローマ貴族にカロヤンに対する謀略を抱かせ、彼らはラテン帝国と同盟を結んだ{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=171–172}}。
一方、第二次ブルガリア帝国は、ラテン帝国の成立を受けて当初ラテン帝国と友好関係を築こうと試みていたが、ラテン帝国側はそれを拒絶するどころか教皇も認めていたブルガリア領の支配権を主張した。ブルガリアのカロヤン・ヨハニッツァはトラキでニカイア帝国の[[テオドロス1世ラスカリス]]東ローマ貴族と同盟を組んでラテン帝国と対峙し、東ローマ側はカロヤンを皇帝として迎え入れることを約束した{{Sfn|Андреев|Лалков|1996|p=167}}{{Sfn|Kazhdan|1991|p=1095}}。アドリアノープルの戦いの予期せぬブルガリア側の勝利は東ローマ貴族にカロヤンに対する謀略を抱かせ、彼らはラテン帝国と同盟を結んだ{{Sfn|Андреев|Лалков|1996|pp=171–172}}。


[[1206年]]の{{仮リンク|ルシオンの戦い|en|Battle of Rusion}}などでも敗戦が続いたラテン帝国は、[[東トラキア]]の多くのをブルガリアに占拠されたが、{{仮リンク|フィリッポポリスの戦い|en|Battle of Philippopolis (1208)}}のみはアンリ1世率いるラテン軍が勝利した。
[[1206年]]の{{仮リンク|ルシオンの戦い|en|Battle of Rusion}}などでも敗戦が続いたラテン帝国は、[[東トラキア]]の多くの都市をブルガリアに占拠されたが、{{仮リンク|フィリッポポリスの戦い|en|Battle of Philippopolis (1208)}}のみはアンリ1世率いるラテン軍が勝利した。


その後、{{仮リンク|リュンダクス川の戦い (1211年)|en|Battle of the Rhyndacus (1211)|label=リュンダクス川の戦い}}でもニカイア軍に勝利を収めたラテン帝国は、[[ニンファエウム条約 (1214年)|ニンファエウム条約]]にてニカイア帝国との国境を画定し{{sfn|井上|栗生沢|1998|p=180}}、同じころにブルガリアとも講和条約を締結した{{sfn|森安|今井|1981|p=123}}。
その後、{{仮リンク|リュンダクス川の戦い (1211年)|en|Battle of the Rhyndacus (1211)|label=リュンダクス川の戦い}}でもニカイア軍に勝利を収めたラテン帝国は、[[ニンファエウム条約 (1214年)|ニンファエウム条約]]ニカイア帝国との国境を画定し{{Sfn|井上|栗生沢|1998|p=180}}、同じにブルガリアとも講和条約を締結した{{Sfn|森安|今井|1981|p=123}}。
=== 衰退と崩壊 ===
=== 衰退と崩壊 ===
[[1217年]]、ローマ教皇による戴冠を受け、陸路でコンスタンティノープルに向かっていた[[ピエール2世・ド・クルトネー]]は、[[エピロス専制侯国]]のテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに捕縛され{{sfn|井上|2005|p=198}}、2年後に獄中で死した。[[1218年]]にはブルガリア皇帝に即位した[[イヴァン・アセン2世]]がラテン帝国との同盟を結び、[[1221年]]にラテン側がフィリッポポリスをブルガリアに割譲した{{sfn|森安|今井|1981|p=124}}。
しかし、1216年にアンリ1世が死去すると帝国は再び衰退しはじめた。[[1217年]]、アンリ1世の後を継いで[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ローマ教皇]]による戴冠を受け、陸路でコンスタンティノープルに向かっていたフランス人の[[ピエール2世・ド・クルトネー]]は、[[ローマ]]からコンスタンティノープルへ向う途中のアルバニア山中でエピロス専制侯国の[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス]]に捕縛され{{Sfn|井上|2005|p=198}}、2年後に獄中で死した。[[1218年]]にはブルガリア皇帝に即位した[[イヴァン・アセン2世]]がラテン帝国との同盟を結び、[[1221年]]にラテン帝国側がフィリッポポリスをブルガリアに割譲した{{Sfn|森安|今井|1981|p=124}}。


[[1222年]]、ニカイア帝国にて[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]]が即位しようとしていたが、これに反対した前ニカイア皇帝[[テオドロス1世ラスカリス]]の弟はそれを妨げようと試みた{{sfn|杉村|1988|p=80}}。しかし、失敗した彼はラテン皇帝[[ロベール1世 (ラテン皇帝)|ロベール1世]]に対して派兵を依頼し、[[1225年]]に{{仮リンク|ポイマネノンの戦い|en|Battle of Poimanenon}}が勃発したが、これに敗戦したラテン帝国は小アジア地域における全領土を喪失した{{sfn|杉村|1988|p=81}}。[[1223年]]にはエピロス専制侯国に[[サロニカ]]を奪われた{{sfn|森安|今井|1981|p=124}}。
[[1222年]]、ニカイア帝国[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]]が即位しようとしていたが、これに反対した前ニカイア皇帝テオドロス1世の{{仮リンク|アレクシオス・ラスカリス|label=|en|Alexios Laskaris}}らはそれを妨げようと試みた{{Sfn|杉村|1988|p=80}}。しかし、失敗した彼はラテン皇帝[[ロベール1世 (ラテン皇帝)|ロベール1世]]に対して派兵を依頼し、[[1225年]]に{{仮リンク|ポイマネノンの戦い|en|Battle of Poimanenon}}が勃発したが、これに敗戦したラテン帝国は小アジア地域における全領土を喪失した{{Sfn|杉村|1988|p=81}}。[[1223年]]にはエピロス専制侯国に[[テッサロニキ|サロニカ]]を奪われた{{Sfn|森安|今井|1981|p=124}}。


[[1228年]]までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]と[[イヴァン・アセン2世]]の娘レナの婚姻を約束した。この結婚はブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずだったが、その一方でラテン側はフランス人貴族[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]に摂政を提供し{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=185}}、の娘がボードゥアンと結婚した。
[[1228年]]までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年であった皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]と[[イヴァン・アセン2世]]の娘{{仮リンク|エレナ・アセニナ|label=エレナ|en|Elena Asenina of Bulgaria}}の婚姻を約束した。この結婚はブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずだったが、その一方でラテン帝国側はエルサレム王だったフランス人貴族[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]に摂政の地位を提供し{{Sfn|Андреев|Лалков|1996|pp=185}}て建て直しを計り{{仮リンク|マリー・ド・ブリエンヌ|label=ブリエンヌの娘|en|Marie of Brienne}}がボードゥアン2世と結婚した。


ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、[[1235年]]に[[コンスタンティノープル包囲戦 (1235年)|コンスタンティノープル包囲戦]]を仕掛けるも失敗し、[[1237年]]にジャン・ド・ブリエンヌが死すると、ボードゥアン2世の摂政に就けるようになったイヴァン・アセン2世はニカイアとの協力関係を破棄した{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=190–191}}。
ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、[[1235年]]に[[コンスタンティノープル包囲戦 (1235年)|コンスタンティノープル包囲戦]]を仕掛けるも失敗し、[[1237年]]にジャン・ド・ブリエンヌが死すると、ボードゥアン2世の摂政に就けるようになったイヴァン・アセン2世はニカイアとの協力関係を破棄した{{Sfn|Андреев|Лалков|1996|pp=190–191}}。ボードゥアン2世の治世は西欧からの援助を請う事だけに費された


[[1241年]]ごろには[[モンゴル帝国]]による侵攻を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は家臣としてハーンへの貢納を約束させられた後に釈放されたと見られている(詳細は[[モンゴルのラテン帝国侵攻]]を参照)
{{誰範囲2|[[1241年]]には[[モンゴル帝国]]による[[モンゴルのラテン帝国侵攻|侵攻]]を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は後にモンゴル帝国の首都[[カラコルム]]に使者を派遣し、家臣としてハーンへの貢納を約束させられた後に釈放されたと見られている。|date=2023年7月}}


その後、ニカイア帝国が国力を増強してラテン帝国侵攻を準備すると、1261年7月、ヴェネツィア海軍の留守中にニカイア軍がコンスタンティノープルに攻め入ったことで、ラテン帝国は崩壊した([[コンスタンティノープルの回復 (1261年)]]){{sfn|井上|2005|p=200}}。ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され帝都を脱した{{sfn|根津|2011|p=92}}。ボードゥアンはその後[[ローマ]]に赴き、教皇[[ウルバヌス4世 (ローマ教皇)|ウルバヌス4世]]が将来を皇位に就けることを約束した{{sfn|へリン|2010|p=396}}、ウルバヌスは間もなく死も復位することはなかった。
その後、[[ミカエル8世パレオロゴス]]のニカイア帝国が国力を増強してラテン帝国侵攻を準備すると、1261年[[7月25日]]の夜中ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、ニカイア帝国軍がコンスタンティノープルに攻め入った。最後の皇帝ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され逃亡、帝都を脱した{{Sfn|根津|2011|p=92}}。ここにラテン帝国は崩壊し、57年ぶりに東ローマ帝国が復活した([[コンスタンティノープルの回復 (1261年)]]){{Sfn|井上|2005|p=200}}。ボードゥアンはその後ローマに赴き、教皇[[ウルバヌス4世 (ローマ教皇)|ウルバヌス4世]]が将来ボードゥアンを皇位に復することを約束した{{Sfn|へリン|2010|p=396}}、ウルバヌス4世は間もなく死ボードゥアンも復位することはなかった。皇位は{{誰範囲|複数の詐称者|date=2023年7月}}とともに[[14世紀]]まで存続した。[[1383年]]に[[ジャック・デ・ボー]]が死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続け、[[1579年]]に[[オスマン帝国]]が[[ナクソス公国]]を併合するまでラテン人の財産はギリシアに残った。


== 年表 ==
== 年表 ==
*[[1204年]] - フランドル伯ボードゥアン9世が、[[5月16日]]に初代皇帝ボードゥアン1世として即位。
*[[1204年]] - フランドル伯ボードゥアン9世が、初代皇帝ボードゥアン1世として即位。
*[[1205年]] - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。
*[[1205年]] - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。
*[[1206年]] - ボードゥアン1世の弟のアンリ1世が皇帝に即位。
*[[1206年]] - アンリ1世が皇帝に即位。
*[[1216年]] - アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。
*[[1216年]] - アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。
*[[1217年]] - アンリ1世の後を継いだフランス人のピエール2世・ド・クルトネーがローマからコンスタンティノポリスへ向う途中のアルバニア山中でエピロス専制侯国に捕らえられる。
*[[1217年]] - ピエール2世・ド・クルトネーがエピロス専制侯国に捕らえられる。
*[[1225年]] - ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。
*[[1225年]] - ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。
*[[1242年]] - モンゴル帝国軍に大敗。後にモンゴル帝国の首都[[カラコルム]]に使者を派遣する
*[[1242年]] - モンゴル帝国軍に大敗。
*[[1261年]] - ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、[[7月25日]]の夜中にニカイア帝国軍にコンスタンティノポリスを占領され、最後の皇帝ボードゥアン2世・ド・クルトネーは逃亡。ここにラテン帝国は滅び、57年ぶりに東ローマ帝国が復活した
*[[1261年]] - ヴェネツィア海軍の留守中の7月にニカイア軍にコンスタンティノープルを占領され、ラテン帝国は滅んだ


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==脚注==
==脚注==
===注釈===
===注釈===
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===出典===
===出典===
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==参考文献==
==参考文献==
* {{Cite book |last1=Матанов|first1=Христо|authorlink=:bg:Христо Матанов|title=В търсене на средновековното време. Неравният път на българите (VII - XV в.)|language=bg|date=2014 |publisher=IK Gutenberg|isbn=9786191760183|ref={{SfnRef|Матанов|2014}}}}
* {{cite book | ref={{harvid|Andreev|Lalkov|1996}}| title = Българските ханове и царе (The Bulgarian Khans and Tsars)| last1 = Андреев (Andreev)| first1 = Йордан (Jordan)| first2= Милчо (Milcho) |last2= Лалков (Lalkov)| year = 1996| language = bg| publisher = Абагар (Abagar)| location = Велико Търново (Veliko Tarnovo)| isbn = 954-427-216-X }}
* {{Cite book | ref={{SfnRef|Андреев|Лалков|1996}}| title = Българските ханове и царе|trans-title=ブルガリアのカーンとツァーリ| last1 = Андреев(アンドレエフ)| first1 = Йордан(ヨルダン)|authorlink1=:es:Yordan Andreev| first2= Милчо(ミルチョ) |last2= Лалков(ラルコフ)|authorlink2=:bg:Милчо Лалков| year = 1996| language = bg| publisher = Абагар(アバガル)| location = Велико Търново([[ヴェリコ・タルノヴォ]])| isbn = 954-427-216-X }}
* {{cite book| title = The Late Medieval Balkans, A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest | last = Fine| first = J.| year = 1987| publisher = University of Michigan Press| isbn = 0-472-10079-3| url = https://archive.org/details/latemedievalbalk00fine}}
* {{Cite book| title = The Late Medieval Balkans, A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest | last = Fine| first = J.|authorlink=:en:John Van Antwerp Fine Jr.| year = 1987|language=en| publisher = University of Michigan Press| isbn = 0-472-10079-3| url = https://archive.org/details/latemedievalbalk00fine}}
* {{cite journal | last=Hendrickx |first=Benjamin | title=Les duchés de l'Empire latin de Constantinople après 1204: origine, structures et statuts | trans-title = The Duchies of the Latin Empire of Constantinople after 1204. Origin, Structures and Statutes | journal=Revue belge de philologie et d'histoire | language = fr | volume= 93 | issue =2 | year=2015 | pages= 303–328 | url = https://www.persee.fr/doc/rbph_0035-0818_2015_num_93_2_8837 | doi = 10.3406/rbph.2015.8837}}
* {{Cite journal | last=Hendrickx |first=Benjamin|authorlink=:de:Benjamin Hendrickx | title=Les duchés de l'Empire latin de Constantinople après 1204: origine, structures et statuts | trans-title = 1204年以降のコンスタンティノープルのラテン帝国の諸公国:起源、構造および法規 | journal=Revue belge de philologie et d'histoire | language = fr | volume= 93 | issue =2 | year=2015 | pages= 303–328 | url = https://www.persee.fr/doc/rbph_0035-0818_2015_num_93_2_8837 | doi = 10.3406/rbph.2015.8837}}
* {{cite book| title = The Oxford Dictionary of Byzantium| last = Kazhdan| first = A.| year = 1991| publisher = Oxford University Press| location = [[New York]], Oxford| isbn = 0-19-504652-8 }}
* {{Cite book| title = The Oxford Dictionary of Byzantium| last = Kazhdan| first = A.|authorlink=:en:Alexander Kazhdan| year = 1991|language=en| publisher = [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]| location = [[ニューヨーク|New York]], Oxford| isbn = 0-19-504652-8 }}
*{{Cite book|和書 |last1=井上 |first1=浩一|last2= 栗生沢|first2= 猛夫|title= 世界の歴 11|chapter=ビザンツ 千年帝国のあゆみ|publisher=中央公論社|year=1998 |ref= }}
*{{Cite book|和書 |last1=井上|first1=浩一|title= ギリシア史|chapter=ビザンツ時代 |others= 桜井万里子(編著)|publisher=山川出版社|year=2005 |ref= }}
*{{Citation|和書 |last1=井上 |first1=浩一|author1-link=井上浩一 (歴史学者)|last2= 栗生沢|first2= 猛夫|author2-link=栗生澤猛夫|title= 世界の歴 11|chapter=ビザンツ 千年帝国のあゆみ|publisher=中央公論社|year=1998 |ref= }}
*{{Citation|和書 |last1=井上|first1=浩一|title= ギリシア史|chapter=ビザンツ時代 |others= [[桜井万里子]](編著)|publisher=山川出版社|year=2005 |ref= }}
*{{Cite journal |和書 |author = 杉村貞臣|title = ラスカリス王朝 (ニカイア帝国) の皇帝交替問題|journal = オリエント|volume = 31 |issue = 2 |publisher = 日本オリエント学会|date = 1988|pages = 75-91|ref =}}
*{{Cite journal |和書 |author = 杉村貞臣|authorlink=杉村貞臣|title = ラスカリス王朝 (ニカイア帝国) の皇帝交替問題|journal = オリエント|volume = 31 |issue = 2 |publisher = 日本オリエント学会|date = 1988|pages = 75-91|ref =}}
*{{Cite book|和書 |last1=ヘリン |first1=ジュディス|title= ビザンツ 驚くべき中世帝国|chapter=ビザンツの多様性 |translator= 高田良太|others= 井上浩一(監訳)|publisher=白水社|year=2010 |ref= }}
*{{Cite book|和書 |last1=森安 |first1=達也|last2=今井 |first2=淳子|title= ブルガリア 風土と歴史 |publisher=恒文社|year=1981 |ref= }}
*{{Citation|和書 |last1=ヘリン |first1=ジュディス|author-link=ジュディス・ヘリン|title= ビザンツ 驚くべき中世帝国|chapter=ビザンツの多様性 |translator= 高田良太|others= 井上浩一(監訳)|publisher=白水社|year=2010 |ref= }}
*{{Cite book|和書 |last1=森安 |first1=達也|authorlink1=森安達也|last2=今井 |first2=淳子|authorlink2=今井淳子|title= ブルガリア 風土と歴史 |publisher=恒文社|year=1981 |ref= }}


==関連項目==
==関連項目==
* [[ラテン皇帝一覧]]
* {{仮リンク|ローマ帝国の継承|en|Succession of the Roman Empire}}
* {{仮リンク|ローマ帝国の継承|en|Succession of the Roman Empire}}
* [[テッサロニキ帝国]]


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2023年7月21日 (金) 10:50時点における版

ロマニア帝国
Imperium Romaniae
アンゲロス王朝 1204年 - 1261年[注釈 1] パレオロゴス王朝
アカイア公国
アテネ公国
ナクソス公国
ロマニア帝国の国旗 ロマニア帝国の国章
(国旗) (国章)
ロマニア帝国の位置
赤の領域がラテン帝国。緑はエピロス専制侯国、青はニカイア帝国、紫はトレビゾンド帝国[注釈 2](英語)
公用語 ラテン語
古フランス語
中世ギリシア語
宗教 ラテン教会英語版
ギリシャ正教
首都 コンスタンティノープル
皇帝
1204年 - 1205年 ボードゥアン1世
1206年 - 1216年アンリ1世
1216年 - 1217年ピエール2世
1221年 - 1228年ロベール1世
1228年 - 1261年ボードゥアン2世
面積
1204年[1]179,000km²
1209年[1]206,000km²
1228年[1]47,000km²
1260年[1]14,000km²
変遷
建国 1204年
アドリアノープルの戦い1205年
ニンファエウム条約1214年
ポイマネノンの戦い英語版1225年
コンスタンティノープル包囲戦1235年
ニカイア帝国軍の侵攻により滅亡1261年
現在トルコの旗 トルコ
ギリシャの旗 ギリシャ
 ブルガリア
[注釈 3]

ラテン帝国(ラテンていこく、英語: Latin Empire / Latin Empire of Constantinople)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)[注釈 4]から奪ったコンスタンティノープル第4回十字軍の指導者らが建国した封建制十字軍国家である。

第4回十字軍の後、旧東ローマ帝国領に成立した他のラテン勢力、特にヴェネツィア共和国に対して政治的・経済的優位性を得ることに失敗し、初期の短い軍事的成功の後は北方の第二次ブルガリア帝国や東ローマ帝国の継承権を主張する様々な国と絶えず戦争状態にあったため、次第に衰退していった。最終的には、1261年に東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させた。最後の皇帝ボードゥアン2世は収監された。[要出典]

国名

東ローマ帝国からフランコクラティアギリシア語: Φραγκοκρατία, フランク人の支配)、あるいはラテノクラティア(ギリシア語: Λατινοκρατία, ラテン人の支配)としてラテン帝国は言及され、ラテン皇帝自身は一般的に、ラテン語: Imperium Constantinopolitanum英語: Empire of Constantinople, コンスタンティノープル帝国)やラテン語: Imperium Romaniae英語: Empire of Romania, ロマニア[注釈 5]帝国)、ラテン語: Imperium Romanorum英語: Empire of the Romans, ローマ人の帝国)といった様々な名前によって帝国について触れた。

歴史

起源と成立

1204年の第4回十字軍におけるコンスタンティノープル包囲
初代皇帝のボードゥアン1世像

第4回十字軍は当初、ムスリムが支配する都市エルサレムを取り返すために召集された。十字軍はアレクシオス3世によって帝位を簒奪され退位させられた、東ローマ皇帝イサキオス2世の子アレクシオス4世によって財政的・軍事的援助を約束されており、その支援によりエルサレムに進み続けることを計画していた。本来、計画はイサキオス2世を復位させるためのものであった。十字軍が東ローマの帝都コンスタンティノポリスに到達すると状況[何の?]は直ぐに危険なもの[何が?]へ一変し、イサキオス2世とアレクシオス4世が短期間統治したが、十字軍が望んだような支払い[どれ?]エラー: {{どれ範囲}}と{{どれ}}を間違えていないか、指定範囲内に「=」(半角イコール)が含まれていないか、パラメータ区切りの縦棒が全角になっていないか等を確認してください。詳しくは{{どれ範囲}}の解説ページを参照してください。を受け取ることはなかった。1204年4月、彼らはコンスタンティノポリスの莫大な富を占拠し略奪した。十字軍によるコンスタンティノポリス略奪において、一連の経済的そして政治的事件[何の?]は頂点に達した。

コンスタンティノープル包囲戦の後、十字軍は5月16日フランドル伯ボードゥアン9世を初代皇帝に選出[注釈 6]し、総大司教にはヴェネツィア出身のトマーゾ・モロシーニ英語版を任じて、ラテン帝国を樹立した[3]正教会のローマ皇帝に代わってカトリックの皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国は東ローマ帝国に代わって東方で西洋諸国が認めるローマ帝国になろうとしていた。[要出典]

十字軍は東ローマ帝国の分割について合意した[4]。1204年10月に署名された東ローマ帝国領分割条約英語版では、クレタ島などの島嶼部を含む帝国領の8分の3がヴェネツィア共和国のものとなった[5]。ラテン帝国は以下の残留領土を主張して権力を行使した。

旧東ローマ帝国領を封土として付与された十字軍諸侯らは、ラテン皇帝に忠誠を誓った[6]。さらなる公国[注釈 7]ニカイアニコメディアフィラデルフィアネオカストラ英語版といった小アジアで計画されたが、そこでニカイア帝国が誕生したため、これらの公国は机上のままであった[8]。皇帝ボードゥアン1世は、旧東ローマ帝国領の全土の征服を目指した。当初は順調に征服が進むかに見えたが、東ローマ帝国のギリシャ人貴族層を冷遇し、正教会の聖職者達にはカトリックの典礼を強制したため、ギリシャ人の不満は高まりだした。貴族達は東ローマ帝国の皇族達が各地に建てた亡命政権へ参加したり、第二次ブルガリア帝国(ワラキア=ブルガリア)と協力するなどしてラテン帝国へ抵抗し、聖職者達は協力を拒否した。

一方、新たに樹立されたラテン帝国の領土は十字軍の騎士達に封土として分割されたため、存立基盤が弱く、指導者の1人だったモンフェッラート侯ボニファーチョ1世はボードゥアン1世と対立し、ギリシアにテッサロニキ王国を築いて半独立の構えを示した。ヴェネツィアの関心は群島領土と海港の保持と制海権のみで、帝国の内陸部には興味を示さなかった。

ラテン帝国の支配権は、ニカイアのラスカリス家英語版トレビゾンドコムネノス家に率いられた残存国家により直ちに楯突かれた。1224年から1242年には、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカステッサロニキからラテン帝国に異を唱えた。ニカイアそのものは占領されることなく、その地を受領するはずだった指導者の1人ブロワ伯ルイ1世は1205年4月、ラテン帝国と第二次ブルガリア帝国の間で勃発したアドリアノープルの戦いで戦死し[9]、初代皇帝ボードゥアン1世も侵攻してきたブルガリア皇帝のカロヤン・アセンクマン人の連合軍に大敗して捕虜となった[10]。この敗北は、ラテン帝国への打撃でもあり、同国は混沌とした状態に陥った[11][12]。勢いづいたブルガリア軍は各地を蹂躙し、ラテン帝国側は首都コンスタンティノープルの他にはいくつかの主要都市を維持するだけであり、早くも滅亡寸前となった。しかし、ブルガリアのあまりに激しい略奪のため、ギリシャ人は再びラテン帝国を頼るようになった。摂政に立ったボードゥアン1世の弟アンリ・ド・エノーは、ギリシャ人に融和的な政策をとって彼等の支持を受ける一方で周囲を制圧し、東ローマ亡命政権のエピロス専制侯国やニカイア帝国とも有利な条件で講和を結ぶことに成功した。また、テッサロニキ王国のボニファーチョ1世とも、彼の娘英語版と結婚することで和解した。

ニカイア帝国による一時的な再征服の後、ニコメディアはラテン帝国の支配下に戻ったが、ニコメディア公領は帝国領の一部のままであった[13]。ボードゥアン1世の弟の第2代皇帝アンリ1世は、1205年のアドラミュティオンの戦い英語版で地方有力者であったテオドロス・マンガファス英語版を破った後にネオカストラの領有権を主張したが、そこがラテン帝国の実効支配下に入ることはなかった[14]。一方でネオカストラは単一の所有者に与えられることはなく、聖ヨハネ騎士団[注釈 8]その他の封建家臣[誰?]の間で分割された。

一方、第二次ブルガリア帝国は、ラテン帝国の成立を受けて当初ラテン帝国と友好関係を築こうと試みていたが、ラテン帝国側はそれを拒絶するどころか教皇も認めていたブルガリア領の支配権を主張した。ブルガリアのカロヤン・ヨハニッツァはトラキアでニカイア帝国のテオドロス1世ラスカリスら東ローマ貴族と同盟を組んでラテン帝国と対峙し、東ローマ側はカロヤンを皇帝として迎え入れることを約束した[15][16]。アドリアノープルの戦いでの予期せぬブルガリア側の勝利は東ローマ貴族にカロヤンに対する謀略を抱かせ、彼らはラテン帝国と同盟を結んだ[17]

1206年ルシオンの戦い英語版などでも敗戦が続いたラテン帝国は、東トラキアの多くの都市をブルガリアに占拠されたが、フィリッポポリスの戦い英語版のみはアンリ1世率いるラテン軍が勝利した。

その後、リュンダクス川の戦い英語版でもニカイア軍に勝利を収めたラテン帝国は、ニンファエウム条約でニカイア帝国との国境を画定し[18]、同じ頃にブルガリアとも講和条約を締結した[10]

衰退と崩壊

しかし、1216年にアンリ1世が死去すると帝国は再び衰退しはじめた。1217年、アンリ1世の後を継いでローマ教皇による戴冠を受け、陸路でコンスタンティノープルに向かっていたフランス人のピエール2世・ド・クルトネーは、ローマからコンスタンティノープルへ向う途中のアルバニア山中でエピロス専制侯国のテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに捕縛され[19]、2年後に獄中で死去した。1218年にはブルガリア皇帝に即位したイヴァン・アセン2世がラテン帝国との同盟を結び、1221年にラテン帝国側がフィリッポポリスをブルガリアに割譲した[20]

1222年、ニカイア帝国でヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスが即位しようとしていたが、これに反対した前ニカイア皇帝テオドロス1世の英語版らはそれを妨げようと試みた[21]。しかし、失敗した彼はラテン皇帝ロベール1世に対して派兵を依頼し、1225年ポイマネノンの戦い英語版が勃発したが、これに敗戦したラテン帝国は小アジア地域における全領土を喪失した[22]1223年にはエピロス専制侯国にサロニカを奪われた[20]

1228年までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年であった皇帝ボードゥアン2世イヴァン・アセン2世の娘エレナ英語版の婚姻を約束した。この結婚はブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずだったが、その一方でラテン帝国側はエルサレム王だったフランス人貴族ジャン・ド・ブリエンヌに摂政の地位を提供し[23]て建て直しを計り、ブリエンヌの娘英語版がボードゥアン2世と結婚した。

ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、1235年コンスタンティノープル包囲戦を仕掛けるも失敗し、1237年にジャン・ド・ブリエンヌが死去すると、ボードゥアン2世の摂政に就けるようになったイヴァン・アセン2世はニカイアとの協力関係を破棄した[24]。ボードゥアン2世の治世は西欧からの援助を請う事だけに費された。

1241年頃にはモンゴル帝国による侵攻を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は後にモンゴル帝国の首都カラコルムに使者を派遣し、家臣としてハーンへの貢納を約束させられた後に釈放されたと見られている。[誰によって?]

その後、ミカエル8世パレオロゴスのニカイア帝国が国力を増強してラテン帝国侵攻を準備すると、1261年7月25日の夜中、ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、ニカイア帝国軍がコンスタンティノープルに攻め入った。最後の皇帝ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され逃亡、帝都を脱した[25]。ここにラテン帝国は崩壊し、57年ぶりに東ローマ帝国が復活した(コンスタンティノープルの回復 (1261年)[26]。ボードゥアンはその後ローマに赴き、教皇ウルバヌス4世が将来ボードゥアンを皇位に復することを約束した[27]が、ウルバヌス4世は間もなく死去しボードゥアンも復位することはなかった。皇位は複数の詐称者[誰?]とともに14世紀まで存続した。1383年ジャック・デ・ボーが死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続け、1579年オスマン帝国ナクソス公国を併合するまでラテン人の財産はギリシアに残った。

年表

  • 1204年 - フランドル伯ボードゥアン9世が、初代皇帝ボードゥアン1世として即位。
  • 1205年 - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。
  • 1206年 - アンリ1世が皇帝に即位。
  • 1216年 - アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。
  • 1217年 - ピエール2世・ド・クルトネーがエピロス専制侯国に捕らえられる。
  • 1225年 - ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。
  • 1242年 - モンゴル帝国軍に大敗。
  • 1261年 - ヴェネツィア海軍の留守中の7月にニカイア軍にコンスタンティノープルを占領され、ラテン帝国は滅んだ。

脚注

注釈

  1. ^ 東ローマ帝国は1261年にミカエル8世パレオロゴスの下でコンスタンティノープルを取り戻した。
  2. ^ 国境は明確ではない。
  3. ^ (コンスタンティノープルは1261年に東ローマ帝国に復帰していたが、)1273年から1283年までラテン皇帝の称号を有した、フィリップ1世・ド・クルトネーにより使われた国章。このデザインは時として、近世の紋章学において「コンスタンティノープルの皇帝の紋章」として示された[2]
  4. ^ 「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。ラテン帝国という国名は東ローマ帝国側からの呼称。
  5. ^ ロマニアとは「ローマ人の土地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。「ロマニア」という語は数世紀にわたり、東ローマ帝国臣民によって自国のために非公式に使われた。
  6. ^ これは前東ローマ皇妃(ハンガリー王女)と結婚して、ギリシア、ハンガリーの支持を得たモンフェッラート侯ボニファーチョ1世が強力になるのを恐れたヴェネツィア側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。
  7. ^ ここでの「公国(英語: duchy)」という語は、旧東ローマ帝国領で通常ドゥクスによって管理されたテマ制という語が、属州を指定するために使われていたことを反映する[7]
  8. ^ 4分の1。

出典

  1. ^ a b c d Матанов 2014, p. [要ページ番号]
  2. ^ Hubert de Vries, (2011年). “Byzantium: Arms and Emblems”. hubert-herald.nl. ?閲覧。
  3. ^ へリン 2010, p. 349.
  4. ^ へリン 2010, p. 367.
  5. ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 184.
  6. ^ 井上 2005, p. 194.
  7. ^ Hendrickx 2015, pp. 305–306, 309.
  8. ^ Hendrickx 2015, pp. 308–310.
  9. ^ Hendrickx 2015, p. 308.
  10. ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 123.
  11. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 168–171.
  12. ^ Fine 1987, pp. 81–82.
  13. ^ Hendrickx 2015, pp. 308–309.
  14. ^ Hendrickx 2015, p. 309.
  15. ^ Андреев & Лалков 1996, p. 167.
  16. ^ Kazhdan 1991, p. 1095.
  17. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 171–172.
  18. ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 180.
  19. ^ 井上 2005, p. 198.
  20. ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 124.
  21. ^ 杉村 1988, p. 80.
  22. ^ 杉村 1988, p. 81.
  23. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 185.
  24. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 190–191.
  25. ^ 根津 2011, p. 92.
  26. ^ 井上 2005, p. 200.
  27. ^ へリン 2010, p. 396.

参考文献

関連項目