狩野美信
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狩野 美信(かのう よしのぶ、延享4年(1747年) - 寛政9年3月8日(1797年4月4日[1]))は、日本の江戸時代前期に活動した狩野派(江戸狩野)の絵師。美信は諱で、号は洞春。両者を合わせて、狩野洞春美信とも呼ばれる。通称は三四郎、別号に浩然斎。江戸幕府御用絵師の中で奥絵師4家に次ぐ家格を持つ、表絵師筆頭(御坊主格)駿河台狩野家の4代目。画名があり、駿河台狩野家の中興の祖とも言われる。
略伝
[編集]狩野元仙の長男として生まれる。宝暦5年(1755年)9歳で父が亡くなり、駿河台狩野家を継ぐ。絵は、父の門人で福岡藩江戸詰め絵師だった石里洞秀(父)に学ぶ。明和元年(1764年)朝鮮通信使へ贈る朝鮮贈呈屏風一双の制作を手がけ、天明5年(1785年)家業に励んだ功績で法眼に叙された。これにより家格が上昇したらしく、帯刀が許され、奥絵師の鍛冶橋狩野家と同等、一時は上席になることもあったという[2][3]。奥絵師筆頭格だった狩野典信の娘と結婚し、跡継ぎの狩野愛信が生まれる。寛政9年(1797年)死去。享年51。墓所は多磨霊園(護国寺から改葬)。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
狩野益信像 | 1幅 | 86.8x52.0 | 東京国立博物館 | ||||
四季花鳥図 | 双幅 | 92.4x33.6 | 東京国立博物館 | 款記「美信筆」 | |||
八幡太郎義家図 | 絹本著色 | 1幅 | 87.5x140.5 | 三井記念美術館 | 款記「美信筆」[4] | ||
三夕歌絵 | 徳川美術館 | ||||||
寿老白鹿・春景山水・雪景山水図 | 絹本著色 | 3幅対 | 111.8x59.0(各) | 白鹿記念酒造博物館 | 各幅に款記「狩野洞春筆」/「洞春之印」白文方印[5] | ||
唐獅子図屏風 | 六曲一双 | 183.5x456.0(各) | 高槻市立しろあと歴史館 | ||||
虎渓三笑図 | 絹本淡彩 | 1幅 | 77.8x114.8 | ボストン美術館 | 款記「美信筆」 | ||
牟礼高松図 | 絹本著色 | 1幅 | 113.3x56.3 | ボストン美術館 | 款記「美信筆」 | ||
鍾馗図 | 絹本墨画 | 1幅 | 104x39.2 | ボストン美術館 | 款記「美信筆」 | ||
高士観瀑図 | 絹本墨画 | 1幅 | 92.8x75.2 | ボストン美術館 | 款記「美信筆」 | ||
花鳥図屏風 | 紙本金地著色 | 二曲一隻 | 44.7x172 | ボストン美術館 | 款記「狩野洞春筆」 | ||
双龍図 | 絹本墨画 | 1幅 | 140,5x79.1 | ウィーン国立工芸美術館[6] | 款記「追前翁圖蹟/美信筆」/「藤原」朱文鼎印 | ||
川上不白肖像 | 1幅 | 江戸千家 | 1779年(安永8年) | 款記「美信筆」 | 川上不白賛[7] | ||
常光寺[要曖昧さ回避]障壁画 | 全25面 | 常光寺 | 1789年(寛政元年) | 壁画床2面と障壁画10面が小浜市指定文化財 | |||
蜀の三傑図 | 紙本墨画淡彩 | 1幅 | 156.7x94.8 | 東京芸術大学大学美術館 | 法眼期 | 款記「式部卿法眼洞春筆」/「洞春」朱文円印 |
脚注
[編集]- ^ 寛政7年2月28日(1795年4月17日)死去とする説もある。
- ^ 『古画備考』。
- ^ 『東洋美術大観』第五冊「表絵師の格式」。
- ^ 財団法人 三井文庫編集発行 『三井文庫別館蔵品図録 三井家の絵画』 2002年9月、pp.44,109。
- ^ 松平乗昌 木村重圭 田中敏雄監修 朝日新聞社編集・発行 『元禄―寛政 知られざる「御用絵師の世界」展』 1998年、第23図。
- ^ 平山郁夫 小林忠編著 『秘蔵日本美術大観11 ウィーン国立工芸美術館/プラハ国立美術館/ブダペスト工芸美術館』 講談社、1994年5月25日、第16図、ISBN 4-06-250711-0。
- ^ 江戸千家 > 流祖川上不白ゆかりの品
参考文献
[編集]- 田中敏雄 「常高寺(小浜市)の障壁画 ─狩野洞春美信の壁貼付・襖絵」『近世日本絵画の研究』 作品社、2013年3月、pp.190-198