猪熊兼古
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 1602年(慶長7年)[注釈 1] |
死没 | 1678年(延宝6年) |
改名 | 兼之→兼古 |
別名 | 千倉 |
官位 | 従五位下行神祇権少副 |
氏族 | 卜部姓猪熊家 |
子 | 兼魚 |
猪熊 兼古(いのくま かねふる)は、江戸時代前期に活動した公家、神職、国学者[1]。第28世平野社預[2]。猪熊千倉(いのくま ちくら)の名で知られている。官位は従五位下、神祇権少副。
生涯
[編集]世襲職の侵食と活路
[編集]現在の京都に生まれる[1]。初名は兼之(かねゆき)[2]。一族世襲職として平野社預に就任したが、西洞院時慶が平野社再興の折にこの世襲職を妨害して奪い、兼古は預職を辞した[2]。
承応2年(1653年)、伊予宇和島藩の和霊神社創建に関与する[2]。
頼重・光圀兄弟の崇敬
[編集]初代高松藩主松平頼重は、寛文4年(1664年)に兼古を招き、白鳥神社(現・東かがわ市鎮座)の初代宮司を務める[1]。その信の篤さから、大名クラスの邸宅「猪熊家住宅」を拝領する[1]。
頼重の同母弟・徳川光圀は、寛文7年(1667年)に水戸藩領内の神職、田所出羽・寺門兵庫の二人に対する神典伝授を依頼している[2]。さらに、『大日本史』の編纂に関連し、古典について幾度も諮問しており[2]、息子の兼魚と共にこれに協力している[1]。
寛文12年(延宝元年、1673年)正月、隠居した頼重は聴徳院で神仏儒の典籍について聴講しているが、その初日に講師として招かれ、『日本書紀』について講義したという[2]。
延宝7年(1678年)、京都に於いて行年77で卒去した[2]。遺骸は浄福寺鐘楼の下に埋められ、墓は造営されなかったという[2]。