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玉川スミ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
玉川たまがわ スミ
玉川(たまがわ) スミ
玉川スミ(1982年 - 1983年ごろ、楽屋にて)
本名 中川なかがわ スミ
別名 桂小豆
寄席の世界のシーラカンス
生年月日 1920年7月17日
没年月日 (2012-09-25) 2012年9月25日(92歳没)
出身地 日本の旗 日本福島県郡山市
師匠 桂喜代楽
3代目春風亭柳好
京山華千代
名跡 1.中村文丸(1922年 - 1927年)
2.地紙家澄子(1927年 - 1932年)
3.桂小豆(1932年 - 1936年)
4.丘乃すみれ(1936年 - 1938年)
5.東家女楽燕(1938年 - 1952年)
6.玉川一恵(1952年 - 1960年)
7.玉川スミ(1960年 - 2012年)
活動期間 1922年 - 2012年
活動内容 女流俗曲
家族 桃中軒雲工(父)
所属 成田雲竹一座
津軽家すわ子一座
花奴レビュー団

大朝家シゲオ・桂小豆
新興芸能部
日本芸術協会→落語芸術協会
主な作品
桃太郎侍』∶上方屋女将・おはる役
受賞歴
1971年文化庁芸術祭賞優秀賞
1991年勲五等宝冠章
備考
落語芸術協会参与

玉川 スミ(たまがわ すみ、1920年7月17日 - 2012年9月25日)は、女流俗曲師(音曲師、三味線漫談家)。

本名は中川なかがわ スミ落語芸術協会に所属し、参与を務めた。福島県郡山市出身。

人物

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父が浪曲師の桃中軒雲工桃中軒雲右衛門の弟子)で、父の影響で少女浪曲師として初舞台を踏む。初舞台は3歳のときで、14歳までに13回親が変わっている。

その後、女歌舞伎新派喜劇民謡女道楽漫才都々逸松づくし等あらゆる寄席芸を習得し、漫才では「桂小豆」の名で「大朝家シゲオ」(後の「宮アオバ・シゲオ」の「宮シゲオ」)や、大江茂(妻は大江笙子)とコンビを組んだ。1971年文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞し、1991年には勲五等宝冠章を受章している[1]2002年松尾芸能賞・特別賞受賞。

以降は、落語芸術協会定席を中心に高座を勤める一方で、日本テレビ系の時代劇『桃太郎侍』では、上方屋の女将・おはる役として長らくレギュラー出演した。

1991年3月、宮崎県延岡市の今山大師で得度を受け、「澄光尼」の法号を授かった[2]

晩年は人のオーラが見えると発言しており、「オーラのおスミ」として、「芸協らくごまつり」などで占いの余興を行っていた。

桂米助は「寄席の世界のシーラカンス[3]、また瀧川鯉昇は「我々の業界の最長老」[4]と称した。

2012年9月25日、心不全のため死去。92歳没[5]

出演番組

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著書

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  • ちょっと泣かせて下さい 三味線漫談家玉川スミ 東映企画プロモーション 1983年
  • 泣いて笑って突っぱって 北泉社 1985年
  • こけつまろびつ人生 ひとりの女として舞台一笑の熱い時。 善文社 1995年
  • 世紀末にドドイツを くまざき社 1999年

関連項目

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  • 桂小すみ - 直接の弟子ではないが、音曲師となるきっかけを作っている。小すみは音曲師としての初舞台を2012年の玉川スミ芸能生活90周年記念公演で務める予定だったが、スミがその前に死去しため公演は開催されなかった[6]。小すみが寄席のお囃子から音曲師に正式に転向したのは2018年である。

外部リンク

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出典

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  1. ^ 「長年の苦労報われて… 喜びの秋の叙勲受章者(都内関係、敬称略)」『読売新聞』1991年11月3日朝刊
  2. ^ 玉川スミ - 落語芸術協会 協会員プロフィール
  3. ^ 2007年5月15日放送のNHKラジオ第一真打ち競演』で演じた「最後の審判」のマクラ冒頭(桂米助の前に彼女が出ていた流れで)
  4. ^ 「瀧川鯉昇1」収録の「ちりとてちん」のマクラ
  5. ^ “三味線漫談・玉川スミさん死去…92歳”. 読売新聞. (2012年9月25日). https://web.archive.org/web/20120927065851/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120925-OYT1T00735.htm 2012年9月25日閲覧。 
  6. ^ 桂小すみ『図書 2024年8月号「プッチーニが聴いた「越後獅子」」』岩波書店、2024年8月1日、14頁。