王友

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王 友(おう ゆう、生年不詳 - 1414年)は、明代軍人本貫荊州

生涯[編集]

父の職を嗣いで燕山護衛百戸となった。建文元年(1399年)、靖難の変が起こると、燕王朱棣の起兵に従った。建文4年(1402年)、朱棣とともに南京に入った。功を論じられて侯爵授与に相当する功績を認められたが、勝手気ままな行動が問題視されて見送られ、都指揮僉事に任じられた。永楽元年(1403年)5月、清遠伯に封じられ、1000石の禄を賜った[1]

永楽2年(1404年)、総兵官となり、水軍を率いて沿海で倭寇を討捕した。王友は功績を立てることができず、永楽帝(朱棣)に叱責された。ほどなく倭寇を撃破して、永楽帝に労をねぎらわれ、南京に召還された。永楽4年(1406年)、交趾への遠征に従い、指揮の柳琮と兵を合流させて籌江柵を破り、困枚山・普頼山の諸山を攻略し、37000人あまりを斬首した。永楽6年(1408年)7月、爵位を清遠侯に進め、500石の禄を加えられ、世券を与えられた。永楽7年(1409年)、再び交趾に遠征し、副総兵となった。

永楽8年(1410年)、帰還して、永楽帝の第一次漠北遠征に従い、中軍を監督した。劉才とともに飲馬河の上に築城した。北元の知院の失乃干が降伏を望んだため、永楽帝は王友に兵を率いて先行させ、敵に遭遇したときは会戦して殲滅するよう命じた。しかし王友は敵と一定の距離を置いたまま、道を迂回して会敵を避け、応昌に入った。そのあいだ軍中では糧食に乏しく、多くの死者を出した。永楽帝は激怒し、王友を厳しく叱責し、王友の軍権を奪って張輔にその兵を預けた。永楽帝は北京に帰還すると、群臣に王友の罪を議論させた。ほどなく王友は赦免された。永楽12年(1414年)、王友の妾が王友夫婦の誹謗の罪を密告し、その証拠が出たため、王友は爵位を剥奪された。ほどなく死去した。

永楽22年(1424年)、洪熙帝が即位すると、王友の子の王順が指揮僉事となった。

脚注[編集]

  1. ^ 明史』功臣世表二

参考文献[編集]

  • 『明史』巻146 列伝第34