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王大楨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王大楨
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1893年3月5日
光緒19年正月17日)
死去: 1946年民国35年)5月17日
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 湖南省長沙府醴陵県
職業: 政治家・外交官・歴史学者
各種表記
繁体字 王大楨
簡体字 王大桢
拼音 Wáng Dàzhēn
ラテン字 Wang Ta-chen
和名表記: おう だいてい/おうたいてい
発音転記: ワン タージェン
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王 大楨(おう だいてい/おう たいてい)は、中華民国の外交官・政治家・歴史学者。芃生[1]。号は曰叟。日本留学経験を持つ外交専門家として、特に国民政府期の活動が顕著な人物である。

事績

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辛亥革命から北伐直前まで

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高等小学磁業学堂を経て、陸軍小学に入学する。1909年宣統元年)秋、中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)9月、武漢陸軍学校に進学する。翌月、武昌起義辛亥革命)が勃発すると、黄興配下の革命派として戦う。1912年民国元年)2月、南京に赴き、軍需学校に入学する。その後、いったん湖南に戻り、湘軍(湖南軍)の程潜配下となった。[2][3][4]

1916年(民国5年)、王大楨は日本に留学し、陸軍経理学校高等科で学んでいる。1918年(民国7年)、シベリア出兵に際して、王もこれに随従してシベリアと外モンゴルの現地調査を行った。翌年、東京帝国大学経済学部に入学、学習している。1921年(民国10年)、アメリカに赴き、ワシントン会議中国代表団咨議をつとめる。翌年帰国し、山東問題交渉(「魯案」)の担当者の1人となった。1924年(民国13年)初めに山東省統計講習所所長に任ぜられ、翌年、再び日本へ視察に赴いている。[2][3][4]

国民政府での活動

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1926年(民国15年)に帰国し、国民革命軍北伐に参加する。湖南の唐生智率いる国民革命軍第8軍に編入され、第8軍第2師参謀、第35軍参謀長、安徽省軍事庁長を歴任した。寧漢分裂後、蔣介石の下に転じ、国民革命軍総司令部参議に任ぜられている。1928年(民国17年)5月3日に済南事件が勃発すると、駐日特派員に任ぜられ、日本へ赴き交渉に当たった。帰国後は外交部条約委員会顧問に任ぜられている。[2][3][4]

1931年(民国20年)、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、東北外交研究委員会宣伝主任に任ぜられ、さらに国際連盟調査団中国代表処専門委員も兼任してジュネーヴに派遣された。1935年(民国24年)、駐トルコ公使館参事に任ぜられ、翌年、駐日大使館参事に転じている。1937年(民国26年)5月、軍事委員会国際問題研究所を主宰した。[2][3][4]

同年8月、第2次上海事変が勃発すると、王大楨はビルマ(ミャンマー)、ベトナムへ赴き、滇緬公路開設の下準備に奔走した。[5]1945年(民国34年)、中国国民党第6期中央執行委員候補に選出されている。1946年(民国35年)5月17日、病没。享年54(満53歳)。なお王大楨は歴史学者としても、日本古代史や匈奴史に関する著作を残している。[2][6][4]

著作

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  • 『中日關係史之科學研究』
  • 『臺灣交涉真象秘錄』
  • 『歌曲源流考』
  • 『孤軍舌戰三島紀要』
  • 『隋唐宋明古樂流入日朝迭存錄』
  • 『外蒙見聞記』
  • 『日本古史辨證』
  • 『日本古史之偽造與山海經』
  • 『匈奴史上及突厥史上譯語之語源』
  • 『匈奴史之新研究』

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  1. ^ 東亜問題調査会編(1941)、18頁によると、満州国に同姓同名の別人が現れたために、その頃から名を捨て、字を公に使用するようになったという。なお徐主編(2007)、87頁は、「王芃生」の項目を使用している
  2. ^ a b c d e 徐主編(2007)、87頁。
  3. ^ a b c d 劉国銘主編(2005)、119頁。
  4. ^ a b c d e 東亜問題調査会編(1941)、18頁。
  5. ^ 劉国銘主編(2005)、119-120頁。ただし同書と徐主編(2007)、87頁は、この時に王大楨が交通部常務次長に任ぜられたと記載しているが、劉寿林ほか編(1995)、586頁にはこの人事につき記載が見当たらない。1937年8月20日に交通部常務次長に任命された人物は盧作孚となっている。一方、東亜問題調査会編(1941)、18頁は、何鍵内政部長に任ぜられた際に(1937年11月20日)王が内政部次長に任ぜられたとしているが、劉寿林ほか編(1995)、513頁にはこの人事についても記載が見当たらない。次長には政務次長と常務次長の2種類があるが、内政部政務次長は何の就任後に程天固という人物が暫時つとめ、同年12月に凌璋という人物が就任している(1939年6月、何の部長退任と同時に退任)。一方、同部常務次長は張道藩が当時つとめており、翌1938年1月に張が退任した後は、何が部長を退任する時期まで黄季陸が後任となっている。
  6. ^ 劉国銘主編(2005)、119-120頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝朝日新聞社、1941年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1