王威
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正史の事跡
[編集]姓名 | 王威 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 〔不詳〕 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 劉表→劉琮 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
王威は若くして荊州の郡吏となった。刺史の劉表が「有益で時事に適した陳情であれば、身分の貴賤を問わず聞く」と布告を出した。王威は陳事を評価されて州刺史の官吏となり、大蝋(年の暮れ)に交替で休暇を取った[1]。
続いて劉表の子劉琮に仕えた。曹操が大軍を率い荊州に侵攻して来ると、劉琮は戦わずして降伏し、劉備も逃走した。このとき王威は「曹操は我が軍を降し劉備も退けたため、安心して備えを緩めているに違いありません。私に兵数千を預けていただければ、曹操を捕虜にしてみせます。曹操を捕らえれば天下も夢ではありません」と劉琮に申し出た。しかし、劉琮はこれを容れなかった。その後の王威の行方は不明である。
物語中の王威
[編集]小説『三国志演義』では、劉表の部将として登場。劉備暗殺を謀る蔡瑁の指示で、同僚の文聘とともに劉備の傍らから趙雲を引き離す役を担う。曹操が荊州に入ると隙をついて襲撃することを進言したが、蔡瑁と「汝は天命を知らず!」「売国の徒め!」など罵りあいとなり蒯越に仲裁された。その後は、青州へ転任させられた劉琮にただ一人付き従い、その母の蔡夫人らの護衛となる。しかし、曹操の命を受けた于禁が母子の殺害に来ると、力戦したが劉琮らとともに皆殺しにされている。
脚注
[編集]- ^ 『初学記』《王威別傳》曰:威少為郡吏。刺史劉表題門上,有能陳便宜益於時,不限廝役賤長以聞。威因陳事,得署州吏,大蠟分休。