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王珣 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 珣(おう しゅん、1177年 - 1224年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。字は君宝。当初は金朝に仕えていたが、金末の混乱期に自立し、後にモンゴル帝国に降った。本拠地のある遼西地方の平定に貢献したことで知られる。

概要

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王珣の祖先は元々遼(契丹国)を建国した耶律氏の出であった。しかし、王珣の祖父の耶律成は金朝の正隆年間末(1160年代初)、契丹人の窩斡が反乱を起こした際に遼西に移住し、王姓に改姓して義州開義県本籍とした。王珣の実父は王伯俊といったが、伯父の王伯亨に息子がいなかったことから王珣はその養子となった[1]

王珣は武勇に長け、特に撃鞠(打毬)を得意とした。30歳過ぎのころ、王珣は道士に「君の相貌は甚だ奇である。いつか青い馬によって貴人となるであろう」と言われた。王珣は当初これを信じなかったものの、数年後とある客が青い馬を導してきた時に道士の言葉通りであるとして倍の値段で買い求め、以後青馬に乗って武勲を重ねたという。また、凌水浜で得た古刀には「挙無不克、動必成功」という銘を入れて常に持ち歩き、勝利を重ねたという[2]

金末、モンゴルの侵攻によって金朝の支配が揺らいだ華北各地で豪強(後の漢人世侯)が並び立つと、王珣もまた親族や郷里の者を集めて自立し、その勢力は10万余りを数えた。1215年乙亥)、モンゴル左翼軍を率いるムカリがやってくるとこれに降り、義州・川州の領有を認められた[3][4]1216年丙子)春には張致錦州を領して楊伯傑と結び、楊伯傑は義州を攻めたが王珣はこれを撃退した。張致の兄の子が1千騎を率いて攻めてきたときには、王珣はわずか18騎を選んで出陣し、敵兵の槍に傷つけられたもののこれを破って多くの馬を得た[5]

その後、ムカリの興中包囲に協力するために王珣が本拠を離れると、張致がその隙をついて王珣の家を襲いその家族を皆殺しとした。興中の平定後、帰る場所を失った王珣に対してムカリは自らの軍にとどまるよう勧め、また王珣の息子の王栄祖を使者としてチンギス・カンの下に派遣させた。王栄祖の報告を聞いたチンギス・カンは逆党(張致ら)が平らげられた暁にはその一族・城邑・人民はすべて王珣に授け、徭役も5年免除しようと述べた。チンギス・カンの言葉通り、ムカリは軍を開義に進めて楊伯傑を捕らえ殺し、さらに錦州に進むと張致の部将の高益が裏切って張致の一族を捕らえ投降した。ムカリはチンギス・カンの言葉通り楊伯傑・張致配下の城邑・人民を王珣に授けたが、王珣は張致のみを殺して他はすべて許し、ようやく義州に帰還することができたという[6][4]

1217年丁丑)には王珣自らチンギス・カンの下を訪れ、チンギス・カンはその功績を嘉しての地位を授けた。王珣は色黒だったことから、モンゴル語でカラ(Qara、「黒」を意味する)元帥と呼ばれたという。1224年(甲申)正月に48歳で亡くなり、その地位は息子の王栄祖が継いだ[7][8]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「王珣字君宝、本姓耶律氏、世為遼大族。金正隆末、契丹窩斡叛、祖成、従母氏避難遼西、更姓王氏、遂為義州開義人。父伯俊。伯父伯亨無子、以珣為後」
  2. ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「珣武力絶人、善騎射、尤長於撃鞠。年三十餘、遇道士、謂珣曰『君之相甚奇、它日因一青馬而貴』。珣未之信。居歳餘、有客以青馬来鬻、珣私喜曰『道士之言或験乎』。乃倍価買之、後乗以戦、其進退周旋、無不如意。又嘗行凌水浜、得一古刀、其背銘曰『挙無不克、動必成功』。常佩之、毎有警、必先鳴、故所向皆捷」
  3. ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「初、河朔兵動、豪強各擁衆拠地、珣慨然曰『世故如此、大丈夫当自振抜、否則為人所制』。乃召諸郷人、諭以保親族之計、衆従之、推珣為長、旬月之間、招集遺民至十餘万。歳乙亥、太師木華黎略地奚・霫、珣率吏民出迎、承制以珣為元帥、兼領義・川二州事」
  4. ^ a b 松田1992,106頁
  5. ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「丙子春、張致僭号錦州、陰結開義楊伯傑等来掠義州、珣出戦、伯傑引去。会致兄子以千騎来衝、珣選十八騎突其前、復令左右掎角之、一卒以鎗刺珣、珣揮刀殺之、其衆潰走、獲其馬幾尽」
  6. ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「時興中亦叛、木華黎囲之、召珣以全軍来会、致窺覘其虚、夜襲之、家人皆遇害。及興中平、珣無所帰、木華黎留之興中、遣其子栄祖馳奏其事、帝諭之曰『汝父子宣力我家、不意為張致所襲。帰語汝父、善撫其軍、自今以往、当忍恥蓄鋭、俟逆党平、彼之族属・城邑・人民、一以付汝、吾不吝也。仍免徭賦五年、使汝父子世為大官』。珣以木華黎兵復開義、擒伯傑等、殺之。進攻錦州、致部将高益、縛致妻子及其党千餘人以献、木華黎悉以付珣、珣但誅致家、其餘皆釈之、始還義州」
  7. ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「丁丑、入朝、帝嘉其功、賜金虎符、加金紫光禄大夫・兵馬都元帥、鎮遼東便宜行事、兼義・川等州節度使。珣貌黒、人呼為哈剌元帥、哈剌、中国言黒也。従木華黎兵略山東、至満城、令還鎮、誡之曰『彼新附之民、恃山海之険、反覆不常、非尽坑之、終必為変』。対曰『国朝経略中夏、宜以恩信結人、若降者則殺、後寧復有至者乎』。遂還、以子栄祖代領其衆。甲申春正月卒、年四十八。珣為政簡易、賞罰明信、誅強撫弱、毫髪無徇。子四人、栄祖襲」
  8. ^ 松田1992,107頁

参考文献

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  • 松田孝一「モンゴル帝国東部国境の探馬赤軍団」『内陸アジア史研究』第7/8合併号、1992年
  • 元史』巻149列伝36王珣伝