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王瞻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 瞻(おう せん、生没年不詳)は、南朝斉からにかけての政治家は思範。本貫琅邪郡臨沂県

経歴

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廷尉卿の王猷(王曇首の兄の王柳の子)の子として生まれた。12歳のときに父が死去すると、服喪の後に東亭侯の封を嗣いだ。幼い頃は軽薄で、遊びにうつつを抜かして郷里の迷惑の種となったが、成長すると節度をわきまえ、書物を渉猟し、囲碁や弓射を得意とするようになった。

著作佐郎を初任とし、太子舎人・太尉主簿・太子洗馬を歴任した。ほどなく鄱陽内史として出向し、任期を終えると太子中舎人に任じられた。また斉の南海王友となり、まもなく司徒竟陵王従事中郎に転じた。建武元年(494年)、南海王蕭子罕が護軍将軍となると、王瞻はその下で長史をつとめた。また徐州別駕従事史に任じられて出向し、驃騎将軍王晏の下で長史をつとめた。王晏が処刑されると、王瞻は晋陵郡太守となった。王瞻の統治は清廉をきわめ、自らの妻子は飢えと寒さに耐えさせた。永泰元年(498年)、大司馬王敬則が挙兵して乱を起こし、反乱軍が晋陵郡を通過すると、郡民の多くは王敬則に味方した。王敬則が敗れ、斉の官軍が反乱軍を掃討すると、王瞻は王敬則に味方した郡民に寛容な処分を下すよう願い出た。明帝の許しをえて、命を全うした者が万を数えた。召還されて給事黄門侍郎に任じられ、撫軍建安王長史・御史中丞をつとめた。

中興2年(502年)、蕭衍が霸府を開くと、王瞻は大司馬相国諮議参軍となり、録事を兼ねた。梁台が建てられると、侍中となり、左民尚書に転じた。まもなく吏部尚書となった。吏部で人材の選抜にあたり、推挙した人物の多くは意にかなう人材であった。たいへんな酒好きで、毎日酒を飲んではますます明朗快活となりながら、仕事上の失敗がなかった。蕭衍は王瞻には射・棋・酒の3術があると評した。左軍将軍の位を加えられたが、病のため受けなかった。驍騎将軍を兼ねたが、受けないうちに、死去した。享年は49。は康侯といった。

子に王長玄があり、著作佐郎となったが、早逝した。

伝記資料

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