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王 頎(おう き、生没年不詳)は、中国の三国時代の魏の武将。字は孔碩。本貫は東萊郡[1]。
正始年間、玄菟太守となった。正始6年(245年)、毌丘倹の命を受け、高句麗王の憂位居を追い、沃沮を過ぎること1000里におよび、粛慎の南境に達して、石にその功績を刻んだ[2]。
正始8年(247年)、王頎は帯方太守に着任した。塞曹掾史の張政らを倭国に派遣し、邪馬台国と狗奴国の和解を促した[3]。
景元年間、王頎は天水太守となった。景元4年(263年)、蜀漢に対する征討に従い、鄧艾の命を受けて、沓中の姜維の軍営を攻めた[4]。彊川で姜維を追撃して破った[5]。
晋の武帝のとき、汝南太守となった。
孫に王弥があった[6]。
- ^ 『三国志』魏書毌丘倹伝裴注所引『世語』。日本語訳としては今鷹・小南訳(1993)p.237。
- ^ 『三国志』魏書毌丘倹伝。日本語訳としては今鷹・小南訳(1993)p.237。
- ^ 『三国志』魏書東夷伝倭人条。日本語訳としては今鷹・小南訳(1993)pp.476-477、石原道博編訳(1951)p.53など。
- ^ 『三国志』魏書鄧艾伝。日本語訳としては今鷹・小南訳(1993)p.274。
- ^ 『晋書』文帝紀
- ^ 『晋書』王弥伝
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