珖子女王
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珖子女王 | |
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久邇宮家 | |
続柄 | 多嘉王第2王女 |
身位 | 女王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1913年12月5日 日本 |
死去 |
1918年6月27日(4歳没) |
埋葬 |
1918年7月3日 日本・京都市下京区今熊野町、久邇宮墓地 (現:京都市東山区) |
父親 | 多嘉王 |
母親 | 多嘉王妃静子 |
珖子女王(こうこじょおう、1913年(大正2年)12月5日 - 1918年(大正7年)6月27日)は、大正時代の日本の皇族。
生涯
[編集]1913年(大正2年)12月5日、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2女子として誕生[1]。御七夜の12月11日に「珖子」と命名された[2][注釈 1]。
1918年(大正7年)6月17日の夕食後に嘔吐し、当初は胃腸炎と診断され一時は快方しつつあったが、24日の嘔吐と浮腫によって腎臓炎の併発が判明した[3]。その後も、容体は回復せず、尿毒症が顕著となって同月27日午後1時45分に危篤に至り[3]、午後3時40分に薨去した[4]。
満4歳、数え年6歳の短い生涯であり、また兄宮の賀彦王の薨去から、わずか9日しか経っていなかった。
同年7月3日、京都市下京区今熊野町(当時、現:京都市東山区)の墓地(元法安寺跡)において葬儀が執り行われた[5]。
血縁
[編集]系譜
[編集]珖子女王 | 父: 多嘉王 |
祖父: 朝彦親王(久邇宮) |
曾祖父: 邦家親王(伏見宮) |
曾祖母: 鳥居小路信子 | |||
祖母: 泉萬喜子 |
曾祖父: 泉亭俊益 | ||
曾祖母: 不詳 | |||
母: 静子 |
祖父: 水無瀬忠輔[注釈 2] |
曾祖父: 裏松勲光 | |
曾祖母: 不詳 | |||
祖母: 水無瀬富子 |
曾祖父: 東園基敬 | ||
曾祖母: 不詳 |