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甘粕継成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
甘粕 継成
時代 幕末から明治初期
生誕 天保3年3月12日1832年4月12日
死没 明治2年11月29日1869年12月31日
改名 新保勘左衛門
別名 幼名:半蔵・虎之助、通称:備後
諡号 酔月楼
墓所 米沢市の常安寺
官位 備後
主君 上杉斉憲
米沢藩軍務参謀
氏族 甘粕氏
父母 父:甘糟継善、母:畠山義郷(外記)の娘
甘粕鷲郎、鈴木千代吉、甘粕三郎
特記
事項
戊辰戦争後、慶應義塾に学ぶ。
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甘糟 継成(あまかす つぐしげ/つぐなり、天保3年3月12日1832年4月12日) - 明治2年11月29日1869年12月31日))は、江戸時代後期(幕末)から明治時代にかけての米沢藩の重臣。家格は侍組平侍。変名は「新保勘左衛門」。備後守。幼名は半蔵・虎之助。号は酔月楼

経歴

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甘粕氏上杉謙信に仕えた重臣・甘糟景継から代々上杉氏に仕えた重臣の家柄である。謙信の養子・上杉景勝の時代に左遷されていたが、その後も米沢藩の重臣として仕えていた。ただし景継のような武勇肌の武士ではなく、学者として仕えていたようであり、継成の父親も米沢藩侍講組として仕えていたようである。

継成は幼い頃から聡明で、藩校・興譲館で学んで才能を発揮し、早くから「神童」と称えられた。そのため藩主・上杉斉憲に仕えて学館典籍に任じられる。文久2年(1862年)からは斉憲と共に京都江戸に赴き、諸大名や公卿・藩士との交渉を務めた。しかし継成はやはり学者だったようであり、慶応元年(1865年)には御記録頭取に任じられて「西洋通記」・「亜米利加国史」など歴史書の編纂に努めている。

慶応4年(1868年)1月から始まった戊辰戦争では、軍務参謀に任じられて新政府軍と戦い[1]北越戦争では米沢軍参謀(総督は当初は色部久長、後に千坂高雅に交替)と奥羽越列藩同盟軍参謀(総督は千坂高雅)を任された。 この時の甘糟の日記[2]には米沢藩が越後出兵に至った経緯[3] 、北越戦線での奥羽越同盟軍内での米沢藩の立場[4]、長岡藩・河井継之助、会津藩・佐川官兵衛ら同盟軍重役との軍議及び日々の戦況が克明に記載されている。  越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。 越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。

明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄土佐藩毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。藩費による英学の東京勤学を認められ、慶應義塾の教授・吉田賢輔を介して福澤諭吉小幡篤次郎らの教えを受ける。4月に入ると14歳の長男・甘粕鷲郎(竹太郎)を上京させ、慶應義塾に入学させた。後に鷲郎は手代木勝任の娘と結婚し、その娘の初子は新島八重の養女となっている。

同年7月、待詔院出仕が決まるがまもなく死去。享年38。

著作

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前述の他に安政元年(1854年)に着手し、文久2年(1862年)に成稿した『鷹山公偉蹟録』(全21巻)がある。

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 51頁。
  2. ^ 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記」
  3. ^ 『北越日記』五月朔日P179「西軍追々越後へ繰込み已に高田に充満し、会兵之を拒かんとして、数千の兵を処々に押出し、是が為に七郡の民心甚動揺、多くは会藩の雇ふ処の幕府兵隊水戸脱藩兵等乱暴を恣にして、人民を侵掠するが、為に率ね会を悪んで窃に官軍へ内通する者多く、或は米沢の旧恩を慕て来て御救助を願う者少なからず」
  4. ^ 『北越日記』六月十三日P282「此に至りて佐川・河井評議の上深く千坂総督を推して諸軍の総将とし、大小となく号令を下さんことを乞う。 然らざれば諸藩の兵隊烏合にして統一せず、規律節制又立つ処なくて敗軍の基なりと伝。・・・爾後諸藩共に千坂大夫を単に総督と称し、余を参謀と単称して名いはず。」

参考文献

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外部リンク

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