甘露寺忠長
時代 | 室町時代前期 |
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生誕 | 応永元年(1394年)? |
死没 | 永享8年5月15日(1436年5月30日) |
官位 | 正四位下・蔵人頭兼右大弁 |
主君 | 称光天皇→後花園天皇 |
氏族 | 甘露寺家 |
父母 | 父:甘露寺清長 |
子 | 郷長、康長 |
甘露寺 忠長(かんろじ ただなが)は、室町時代前期の公家。権中納言・甘露寺清長の子。官位は正四位下・蔵人頭右大弁。
経歴
[編集]甘露寺家の嫡流に生まれたが、父・清長が応永21年(1414年)8月に34歳で没したため、祖父・兼長によって家督は叔父・房長が継いだ[1]。
左衛門佐を経て、応永32年(1425年)6月7日、権右中弁となる[2]。同年11月、房長が勅勘を受けて除籍された際、称光天皇からその闕に任じるよう足利義持に提案があったが、実現しなかった[3]。『薩戒記』によれば、この頃、忠長は房長との仲が悪化していた。翌応永33年(1426年)12月18日、右中弁に転じ[4]、同34年6月20日、五位蔵人に任じられる[5]。正長元年(1428年)11月3日、房長と同時に後花園天皇の蔵人頭に任じられ、同時に右大弁に昇進する。
その後、房長は病を得たため、永享2年(1430年)11月に職を辞して蟄居し、6代将軍・足利義教の許可を得て家督を忠長に譲り、自身と子息の扶持を頼む[6]。永享4年(1432年)7月の義教の内大臣就任に伴っては、室町殿家司に任じられる[7]。
しかし、永享6年(1434年)2月、義教の側室・日野重子が義教の嫡男(後の足利義勝)を出産した際、大勢の人々が日野家に祝いに駆け付けた事を知った義教が、その人々の真意を疑ってことごとく処罰した際に、忠長も所領・邸宅を没収され、家督を房長の遺児である親長に譲るように命じられた[8]。その後も頭弁として朝廷に仕えたが、2年後の永享8年(1436年)5月15日、急逝した。貞成親王は、「有職抜群洪才の者」とその才能を評価し、その早すぎる死を惜しむ記述を『看聞日記』に遺している。
郷長(今丸)・康長の2児があり、忠長の死後、親長に養育されていたが、両名とも、忠長の生前より三宝院や三千院への入門が約されていたという[9]。嘉吉元年(1441年)、郷長は嫡流として家督を継ぐことを主張して訴訟を起こしたが[1]、数年の後、失敗に終わり、郷長・康長ともに、最終的には出家したと見られる[10]。また、家業の基盤となる甘露寺家の記録類の多くは、永享6年2月の後も親長に渡されず、忠長死後には、忠長母の禅尼が諸方に売却してしまったという[11]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『建内記』嘉吉1年12月26日条
- ^ 『弁官補任』『薩戒記』
- ^ 『薩戒記』16日条
- ^ 『弁官補任』
- ^ 『職事補任』
- ^ 『建内記』永享11年6月9日条・嘉吉1年12月26日条等
- ^ 『師郷記』
- ^ 『看聞日記』永享6年2月16日、3月9日条等
- ^ 『建内記』嘉吉1年7月18・19日条
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 『建内記』永享11年6月9日条
参考文献
[編集]- 市古貞次 他編『国書人名辞典 1』(岩波書店、1993年(平成5年)) ISBN 978-4-000-80081-5 P567
- 井原今朝男『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年(平成26年)) ISBN 978-4-8273-1266-9 P292-294