生駒甚兵衛
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いこま じんべえ 生駒 甚兵衛 | |
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神明社にある生駒甚兵衛碑 | |
生誕 |
1806年 三河国碧海郡一ツ木村 (現・愛知県刈谷市一ツ木町) |
死没 | 1861年5月20日 |
職業 | 庄屋 |
生駒 甚兵衛(いこま じんべえ、文化3年(1806年) - 文久元年(1861年)5月20日)は、三河国碧海郡一ツ木村(現・愛知県刈谷市一ツ木町)出身の庄屋。
経歴
[編集]庄屋として
[編集]文化3年(1806年)、三河国碧海郡一ツ木村(現・愛知県刈谷市一ツ木町)に生まれた[1]。生駒家の初代は享保年間に分家した新平(権兵衛)、2代は久蔵、3代は為七であり、甚兵衛は4代に当たる[2]。文政11年(1828年)に組頭となり、天保2年(1832年)に庄屋職に就いた[2]。
一ツ木村には東海道の助郷役(宿場町周辺の村々に課された夫役)が課されており、耕地が荒廃して草木に埋もれるなどし、年貢の上納に苦しんでいた[1][2]。生駒は刈谷藩主の土井氏に何度も惨状を訴え、また江戸に赴いて助郷役の休役を嘆願した[1][2]。嘉永3年(1850年)には特旨をもって休役が許され、安政5年(1859年)3月には8人の組長から感謝状を受けた[2]。
万延元年(1860年)、刈谷藩主の土井利善によって御馬役格に叙され、名字帯刀が許され、定紋付の麻上下が下賜された[1][2]。文久元年(1861年)5月20日に死去した[1]。
顕彰
[編集]毎年一ツ木村では甚兵衛祭が挙行され、生駒の功績が称えられた[1][2]。1911年(明治44年)7月21日には没後50年祭が挙行され、1930年(昭和5年)には70年祭が挙行された[2]。70年祭の際には神明社(一ツ木神明社)に生駒の記念碑が建立された[1][2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宇野太一『郷土資料人物篇』愛知県碧海郡富士松村、1933年
- 刈谷市誌編さん委員会『刈谷市誌』刈谷市役所、1960年