コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

田中寛一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田中 寛一
人物情報
生誕 (1882-01-20) 1882年1月20日
岡山県赤坂郡東窪田村(現:赤磐市
死没 (1962-11-12) 1962年11月12日(80歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京高等師範学校本科英語部
京都帝国大学文科大学哲学科
東京帝国大学大学院
配偶者 初音(養父長女)
両親 義一(養父)、多計(養母)、尾崎若松(実父)、尾崎小登(実母)
子供 一彦(長男)、寿満子(長女・野々村進妻)、英彦(次男)、俊彦(三男)
学問
研究分野 心理学教育心理学
研究機関 東京高等師範学校
東京文理科大学
日本大学
日本教材研究所→田中教育研究所
学位 文学博士(1919年・日本)
称号 東京文理科大学名誉教授(1945年)
主要な作品 『人間工学』(1921年)
『教育的測定学』(1926年)
『田中びねー式智能検査法』(1947年)
学会 日本心理学会
主な受賞歴 文化功労者(1960年)
テンプレートを表示

田中 寛一(たなか かんいち、1882年明治15年)1月20日 - 1962年昭和37年)11月12日[1]は、日本教育心理学者文学博士[2]東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネー知能検査」「田中B式知能検査」をはじめ、多くの心理検査を考案した[3][4][5]

岡山県出身[3][注釈 1]。心理学者として初めて文化功労者紫綬褒章を受賞[6][7]勲二等旭日重光章[8]

略歴

[編集]

1882年1月20日、岡山県赤磐郡で生まれる[9]岡山県師範学校東京高等師範学校を卒業後、山梨県師範学校の教諭を3年ほど勤めるが、恩師の松本亦太郎京都帝国大学に実験心理学の講座を開設したことを知り、同大学哲学科に入学する[9]1913年京都帝国大学文学部哲学科卒業[3]。同時に松本が東京帝国大学に移ることになり、田中は後を追って同大学大学院へと進む[9]。大学院修了後も松本の元で研究を行う[9]

著作

[編集]

著書

[編集]

単著

共著

監修・編著

講演録

分担執筆

  • 「価値評価の尺度構成法に関する研究」 『松本亦太郎博士在職25年記念 心理学及芸術の研究 下巻』 改造社 (1931)
  • 「選抜考査法」 『岩波講座教育科学・第5冊』 岩波書店 (1932)
  • 「日本人の身体測定法について」 村地長孝編 『体育論文集』 目黒書店 (1933)
  • 「諸民族の知能」 『現代心理学5 民族心理学』 河出書房 (1943)
  • 「諸民族の握力に關する研究」 『心理学新研究―松本博士喜寿記念―』田中寛一、城戸幡太郎 共編、岩波書店 1943
  • 「要保護少年の心理」 『少年法全国施行記念 少年保護論』 司法保護研究所 (1944)
  • 「向性検査とその基準」 牛島義友ほか編 『教育心理学研究・第2集』 巌松堂 (1949)
  • 「民族性 I - 民族性の研究法」 『心理学講座10 社会心理』 中山書店 (1954)
  • 「わが国における教育測定の発達」 『現代教育心理学大系 9. 測定・評価 (理論編)』 中山書店 (1958)

論文

[編集]

学位論文

  • 『心的作動に關する實驗的研究』東京帝国大学〈大学院卒業論文〉、1919年12月。 [2]

学術論文

  • 「疲労の測定法」 『心理研究』 第5巻 3冊 (通巻 27 号 1914)
  • 「学習の心理 (1) - (4)」『心理研究』第9巻 2号 (通巻 50号 1916) - 第11巻 3冊 (通巻 63号 1917)
  • 「電信符号に関する実験的研究」『東洋学芸雑誌』(1917)
  • 「労働時間と能率」 『心理研究』 第17巻 (通巻 100号 1920)
  • 「入学試験と心理的検査の効果」 『心理研究』 第18巻 2冊 (通巻 104号 1920)
  • 「教育測定と其の効果」『教育論叢』第3巻 3号 (1920)
  • 「智能と情意的特質の測定」『テスト研究』 第1巻 3号 (1924)
  • 「品等法に関する一研究」 『テスト研究』 第1巻 6号 (1924)
  • 「精神分析学と科学的心理学」『哲学雑誌』第40巻 466号 (1925)
  • 「心理学から見たる自然性と賞罰の妥当性」『教育論叢』第14巻 4号 (1925)
  • 「低圧及び酸素不足が心身作業能率に及ぼす影響に関する研究 (1)(2)」『日本心理学雑誌』 第3巻 1冊 - 2冊 (1925)
  • 「道徳的判断に関する統計的研究」 『心理学研究』 第1巻 1輯 (1926)
  • 「一般知能と職業」『教育心理学研究』第1巻 4号 (1926)
  • 「学習に於ける根本法則」『教育心理研究』第1巻 8号 (1926)
  • 「学習の根本法則に対する批評」『教育心理研究』第2巻 1号 (1927)
  • 「小学校に於ける職業指導」『職業指導』第1巻 1号 (1928)
  • 「人物の測定法」『教育心理研究』 第3巻 6号 (1928)
  • 「個性調査と職業指導」『職業指導』 第2巻 7号 (1929)
  • 「B式団体智能検査の一試案」 『心理学研究』 第9巻 5・6 合輯 (1934)
  • 「身体に関する種々の測定値間の関係」『教育心理研究』第9巻 3号 (1934)
  • 「義務教育年限延長の心理学的根拠」『帝国教育』 第695号 (1936)
  • 「職業指導を顧みて」『職業指導』第16巻 1号 (1943)
  • 「民主主義と職業指導」『職業指導』第19巻 4・5 合併号 (1946)
  • 「諸民族の気質」『人間科学』第3号 (1947)
  • 「諸民族の気質性格」『日本学士院紀要』第6巻 1号 (1948)
  • 「性能別学習編成」『児童心理』第3巻 3号 (1949)

紀要

  • 松本亦太郎ほかと共著「飛行家の選抜法に関する研究」『東京帝国大学航空研究所雑録』第32号 - 第33号 (1922)
  • 「低圧と酸素欠乏の心身能率に及ぼす影響に関する実験的研究」『東京帝国大学航空心理研究所報告』第3号 (1928)
  • 「東洋諸民族ノ智能ニ関スル比較研究 (1) - (4)」『東京文理科大学文科紀要』第14巻 (1936) - 第17巻 (1939)
  • 北アメリカ三都市ニ於ケル諸民族ノ知能ニ関スル研究」『東京文理科大学文科紀要』第19巻 (1941)
  • 「日本民族の智能」東京文理科大学心理学教室『教育心理研究紀要』第1輯 (1941)
  • 「知能を基準とする学力の評価」『田中教育研究所紀要』第2号 (1954)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 岡山県赤磐郡生まれ[6]
  2. ^ 明治31年勅令第344号 学位令第2條に基づく学位授与[2]
  3. ^ 「日本教材研究所」との記述もある[10]
  4. ^ ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチについての著書。

出典

[編集]
  1. ^ a b コトバンク 2016, デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
  2. ^ a b c d 文部省「彙報 學位授與 田中寬一」『官報』第2269号、1920年2月28日、523-526頁
  3. ^ a b c d e コトバンク 2016, 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説.
  4. ^ 藤川信夫 2011.
  5. ^ 木村元 2011.
  6. ^ a b c d e 初代所長 田中寛一”. 田中教育研究所について. 田中教育研究所. 2016年1月2日閲覧。
  7. ^ 事業内容”. 田研出版の会社案内. 田研出版株式会社. 2016年1月2日閲覧。
  8. ^ a b 大泉溥 編「日本心理学者事典」クレス出版 (2003) ISBN 4-87733-171-9
  9. ^ a b c d 田中淳子 2003, p. 100.
  10. ^ 木村元 2011, p. 256.

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]
  • 田中寛一博士古稀記念論文集編集委員会 編『田中寛一博士古稀記念論文集 教育心理の諸問題』日本文化科学社、1952年8月。 
  • 金子尚弘「田中寛一 : 日本民族の力を信じた心理学者」『地域と教育 : 小平から教育を考える』第15号、2008年2月。 
  • 江口潔『教育測定の社会史 : 田中寛一を中心に』田研出版、2010年8月。ISBN 9784860890278 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
公職
先代
斎藤斐章
日本の旗 東京高等師範学校附属中学校主事
1928年 - 1931年
次代
馬上孝太郎
学職
先代
(新設)
田中教育研究所長
1951年 - 1962年
日本教材研究所長
1948年 - 1951年
次代
鈴木清
先代
(新設)
玉川大学
1947年 - 1949年
次代
波多野精一
その他の役職
先代
馬上孝太郎
茗渓会理事長
1945年 - 1959年
次代
野口源三郎