田中昌宏
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県五條市 |
生年月日 | 1954年9月28日(70歳) |
身長 体重 |
180 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト外 |
初出場 | 1982年8月15日 |
最終出場 | 1985年5月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
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この表について
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田中 昌宏(たなか まさひろ、1954年9月28日 - )は、奈良県五條市[1]出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。
経歴
[編集]智弁学園高校では捕手を務め、1972年春季近畿大会で優勝を飾るが、甲子園には出場できなかった。高校同期に高代延博(高代慎也)、1年下に柳原隆弘がいた。
高校卒業後、大阪商業大学に進み硬式野球部に入部。一塁手、4番打者として活躍。同期の斉藤明夫や、高校後輩の柳原と共に旧関西六大学野球リーグ初優勝に貢献する。リーグ戦通算99試合出場、359打数94安打、打率.262、10本塁打、40打点。ベストナイン2回受賞。1975年、1976年の全日本大学野球選手権大会で準優勝。
大学卒業後、社会人野球の三協精機に入社。1977年から都市対抗に2年連続出場するが、活躍の場はなかった。
1978年チームが休部となったオフに、ドラフト外で阪神タイガースに入団[1]。1982年に一軍初出場。1984年には自己最多の96試合に出場[1]、うち11試合に外野手として先発した。しかし翌年は出場機会が減少、1986年限りで現役引退[1]。
2000年には、野球専門学校であるアスピア学園の野球部監督に就任した。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1982 | 阪神 | 15 | 36 | 33 | 3 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .242 | .306 | .273 | .579 |
1983 | 45 | 80 | 74 | 9 | 17 | 4 | 0 | 3 | 30 | 9 | 0 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 1 | 10 | 4 | .230 | .269 | .405 | .674 | |
1984 | 96 | 109 | 96 | 13 | 24 | 2 | 1 | 2 | 34 | 10 | 1 | 1 | 0 | 1 | 10 | 0 | 2 | 16 | 5 | .250 | .330 | .354 | .684 | |
1985 | 6 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:4年 | 162 | 229 | 206 | 25 | 49 | 7 | 1 | 5 | 73 | 24 | 1 | 1 | 2 | 2 | 16 | 0 | 3 | 32 | 9 | .238 | .300 | .354 | .654 |
記録
[編集]- 初出場・初先発出場:1982年8月15日、対読売ジャイアンツ22回戦(後楽園球場)、7番・右翼手として先発出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、2回表に新浦壽夫から先制適時打
- 初本塁打:1983年5月23日、対広島東洋カープ8回戦(岡山県野球場)、9回表に大野豊からソロ
背番号
[編集]- 34 (1979年 - 1986年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 田中昌宏 - NPB.jp 日本野球機構