田中達夫
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 長崎県 |
生年月日 | 1927年6月19日 |
没年月日 | 2019年11月27日(92歳没) |
身長 体重 |
170 cm 62 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年3月18日 |
最終出場 | 1952年3月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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田中 達夫(たなか たつお、1927年6月19日 - 2019年11月27日[1])は、長崎県[1]出身のプロ野球選手。
経歴
[編集]佐世保商業学校から下川商事を経て、1950年に南海ホークスへ入団。下川商事では軟式野球をプレーしており、無名の選手だったが、2リーグ分立による人材難のため、田中にも声がかかった。佐世保商の3年先輩である黒田一博と南海で同僚になった[2]。
1950年3月18日の対阪急ブレーブス戦(後楽園球場)でプロ初登板初先発。野口二郎との投げ合いを制し、初勝利を挙げている。以降は救援での起用が主となる。1951年は救援6試合は無失点だったものの、先発した2試合で計7失点(自責2)したことで評価を下げ、翌1952年に阪急ブレーブスへ移籍。同年限りで引退[2]。
選手としての特徴
[編集]柔らかいフォームから切れの良いボールを投げた。しかし、軟式出身だったことからボールを手から離すのが早いため、球の扱いが軽いと、野球評論家の竹内愛一から批評された[2]。
投手ながら打撃優秀。南海時代の2年間に打席に立つ機会あり、通算で33打席に立ち、打率.303、二塁打を2本を記録している[2]。
詳細情報
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 南海 | 22 | 7 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | -- | -- | .667 | 295 | 69.0 | 69 | 9 | 26 | -- | 2 | 28 | 1 | 0 | 32 | 26 | 3.39 | 1.38 |
1951 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | -- | .000 | 86 | 21.2 | 12 | 0 | 7 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0.82 | 0.88 | |
1952 | 阪急 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | .000 | 12 | 2.0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 4.50 | 2.50 |
通算:3年 | 31 | 9 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | -- | -- | .500 | 393 | 92.2 | 85 | 9 | 34 | 0 | 2 | 31 | 1 | 0 | 41 | 29 | 2.82 | 1.28 |
背番号
[編集]- 19 (1950年 - 1951年)
- 21 (1952年)
脚注
[編集]- ^ a b c “元南海、阪急投手の田中達夫氏死去 92歳、通算4勝”. サンケイスポーツ (2019年11月28日). 2020年9月26日閲覧。
- ^ a b c d “ホークス5代目の背番号「19」 田中達夫氏が11月27日に死去”. Full-Count. (2019年12月1日) 2020年9月26日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 田中達夫 - NPB.jp 日本野球機構