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田口利八

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

田口 利八(たぐち りはち、1907年2月25日 - 1982年7月28日)は、日本の実業家、西濃運輸セイノーホールディングス)創業者[1]勲二等旭日重光章受章者。

経歴

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長野県西筑摩郡読書村(後の木曽郡南木曽町)に[2]、農家の長男として生まれる[3]1922年、大桑尋常小高等科を卒業[1]。兵役に従い、1928年には中国に従軍した[4]

1930年岐阜県益田郡萩原町(後の下呂市)で田口自動車を創業し[4][5]、月賦で購入した中古トラック1台のみによる運輸業を始めた[3]1933年には、会社を大垣市に移した[4][5]1941年には西濃トラック運輸を創業するなど事業展開を図ったが、1942年に戦時陸運統制令により集約合同された[5]

第二次世界大戦後の1946年合同会社より分散する形で水都産業を創業して事業を再興、1948年に西濃トラック運輸[5]、次いで1955年西濃運輸(後のセイノーホールディングス)と社名を改称した[1]。この間、1947年には、トラックによる長距離輸送計画を立て[4]、当時の運輸省に免許を申請し、交渉を重ねて最終的に長距離トラック輸送を実現する[2]。これは長距離輸送では鉄道を用いるという、当時の常識を覆すものであった[2][6]。同社は車両6千台を超える規模に成長し、田口は「トラック王」と称されるまでになった[1][3]。社長時代には、30年間にわたり岐阜県の長者番付第1位に座り続けていた[3]1971年から1982年まで、大垣商工会議所会頭を務めるなど[7]、多数の公的役職にも就いていた[1]1981年に、全日本トラック協会会長に就任するとともに、西濃運輸社長職を長男に譲って同社会長となった[1]

田口は、1967年に財団法人田口福寿会を設立しており[1][8]、社長を退任することとなった1981年には、当時時価120億円相当であった自身所有の西濃運輸の株式を、田口福寿会に寄付した[9]

1983年に大垣市の西濃運輸の敷地内に開館した「西濃記念館」は、1947年から1966年まで本社として使用された建物であり、その社長室には田口が使った木机や眼鏡などが展示されている[10]

受賞など

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 20世紀日本人名事典『田口 利八』 - コトバンク
  2. ^ a b c 信濃毎日新聞社 編「従業員を守る義務 田口利八」『百人百話』信濃毎日新聞社、1972年2月20日、44-47頁。 
  3. ^ a b c d 大道裕宣 (1981年4月22日). “百二十億円を社会福祉に投じるトラック王 田口利八 ひと”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 3頁  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ a b c d トラック輸送(ゆそう)を発展(はってん)させた田口利八(たぐちりはち)”. 大垣市教育委員会. 2015年1月15日閲覧。
  5. ^ a b c d 沿革”. セイノーホールディングス. 2015年1月16日閲覧。
  6. ^ “輸送革命をリード トラックの将来確信 故田口氏”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 8頁. (1982年7月29日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  7. ^ a b 大垣市功労者 -名誉市民-”. 大垣市. 2015年1月16日閲覧。
  8. ^ 財団の概要”. 公益財団法人田口福寿会. 2015年1月15日閲覧。
  9. ^ “ポンと株120億円寄付 退陣する西濃運輸社長”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 22頁. (1981年4月21日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  10. ^ 南日慶子 (2013年11月3日). “(宝物語り)西濃運輸・西濃記念館 創業者の思い、旧本社に刻む”. 朝日新聞・朝刊・東海経済: p. 6頁  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧

関連項目

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