田宮勇
田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月17日[1])- 1895年(明治28年)11月13日[1][2][3])は、明治期の農業経営者・政治家。衆議院議員。幼名・千太郎[1]。号・松雨[1]。
経歴
[編集]山城国綴喜郡上村[1](京都府[2]綴喜郡普賢寺村[3]大字上小字小田垣内[1]、田辺町大字普賢寺を経て現京田辺市普賢寺)で、南山郷士、組頭、農業・田宮喜平次の長男として生まれる[1]。相楽郡木津町の沢井石芸に師事し漢学を修めた[1][2][3]。
1872年(明治5年9月)大区小区制の設置に伴い副区長に就任し1874年(明治7年)まで在任[1][2][3]。1876年(明治9年)6月、西川義延の後任として地租改正事件郡総代人となり、事業終了の1877年(明治10年)7月まで務めた[1]。
1879年(明治12年)3月、京都府会の設立に伴い議員に選出され、4期在任し、1894年(明治27年)2月まで務めた[1]。この間、常置委員(6期)、第四組幹事、郡部会副議長、郡部会議長などに在任[1][2][3]。自由民権運動の拡大のため[1]、1880年(明治13年)秋、有志と綴喜郡自由懇親会を設立し[1]、1881年(明治14年)発起人として南山義塾を設けた[1]。この間、久世郡寺田村(現城陽市)の堤防工事の推進に尽力した[1]。1891年(明治24年)日本赤十字社京都支部常議員となる[1][3]。
1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(京都府第4区、自由党)で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。第4回総選挙落選後に再起を期していたが、1895年11月に脳溢血により死去した[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(京都府第4区、1890年7月、無所属)落選[1][4]
- 第2回衆議院議員総選挙(京都府第4区、1892年2月、無所属)次点落選[1][4]
- 第3回衆議院議員総選挙(京都府第4区、1894年3月、自由党)当選[4]
- 第4回衆議院議員総選挙(京都府第4区、1894年9月、自由党)次点落選[1][5]