コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

田村寛一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田村 寛一
生誕 1842年10月23日
日本の旗 日本 長門国阿武郡萩城下
(山口県萩市)
死没 (1899-03-04) 1899年3月4日(56歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871年 - 1899年
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日天保13年9月20日[1]〉- 1899年明治32年〉3月4日[2][3][4][注釈 1])は、幕末長州藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

経歴

[編集]

長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩士の家に生まれた[1][2]江戸に遊学し江川英龍の江川塾で砲術を学び、帰藩して萩調製方に出仕した[2]四境戦争戊辰戦争に従軍した[2]

1871年(明治4年)御親兵として上京[1]佐賀の乱西南戦争に従軍した[2]

1885年(明治18年)5月、参謀本部副官に就任[3]1886年(明治19年)5月、歩兵第6連隊長となり、1888年(明治21年)11月、陸軍歩兵大佐に昇進[3]近衛歩兵第1連隊長、陸軍省人事課長を歴任し、1894年(明治27年)10月、陸軍少将に進み歩兵第8旅団長に就任[3][4]日清戦争に出征したが、大連に到着時点で講和となった[4]

台湾守備混成第2旅団長、近衛歩兵第2旅団長を経て、1898年(明治31年)10月、陸軍中将に進み初代第12師団長に親補され、在任中に死去した[2][3][4][5]

親族

[編集]
  • 三男 田村寛貞(音楽学者)[6]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』375頁では明治32年3月6日。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 『防長維新関係者要覧』66頁。
  2. ^ a b c d e f 『増補 近世防長人名辞典 第2刷』148頁。
  3. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』23頁。
  4. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』465頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』374頁。
  6. ^ 「田村寛貞」『人事興信録 第8版』人事興信所編、1928年、タ74頁。

参考文献

[編集]
  • 田村哲夫編『防長維新関係者要覧』山口県地方史学会、1969年。
  • 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典 第2刷』マツノ書店、2002年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。