田辺郷左衛門
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田辺 郷左衛門(田邊 郷左衛門、たなべ ごうざえもん、前名・榮重郎[1][2]、1866年3月11日(慶應2年1月25日)[3] - 1931年(昭和6年)1月30日)は、日本の政治家(神奈川県会議員、横浜市会議員)[1]、会社重役[4]、神奈川県多額納税者[1][5][6]、地主[5][6]、神奈川県教員互助会理事[2][3][4]。族籍は神奈川県平民[7][8]。田辺家19代目である[2]。
人物
[編集]神奈川県出身。先代・郷左衛門の二男[1][2][4]。田辺家は古く紀州田辺より横浜に移住し、以後中村に定住した[1]。地主農で[1]、維新前名主役をつとめたことがある[1]。18代郷左衛門の景徳碑が玉泉寺の境内にあったが、横浜大空襲によって毀損してしまったため、境内外の玉泉寺墓地の田辺家墓所に復元されている[3]。
神奈川師範卒業[2]。1886年、家督を相続し、前名・榮重郎を改め襲名する[1][4]。横浜市会議員、神奈川県会議員、同参事会員に挙げられる[4][9]。戸塚銀行、横浜植木、横浜農薬各取締役などをつとめる[1][3][5]。1937年、退隠する[4][9]。教育界と農村産業の革新等に尽力する[9]。
宗教は真言宗[2][4][9]。趣味は碁、将棋[1][4]、読書、旅行[9]。住所は神奈川県横浜市中区中村町[1][4]。
家族・親族
[編集]- 田辺家
- 父・郷左衛門[1]
- 妻・イシ(1862年 - ?、神奈川、近藤喜太郎の妹[1][5]、近藤此右衛門の二女[7][8])
- 三男[4]あるいは四男[7]・晃[4](1903年 - ?、東土地合名会社代表社員、貸地業[3]、地主、神奈川県多額納税者、早稲田大学評議員[4])
- 長女・花江(1889年 - ?、分家)[1][5]
- 二女・静江(1893年 - ?、東京、柴田乙次郎の妻)[1][5]
- 三女・玉枝(1898年 - ?、神奈川、一ノ瀬與左衛門の妻)[1][5]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『人事興信録 第9版』タ55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e f 『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』神奈川76頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』498頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第14版 下』タ60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第8版』タ59頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月30日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』全国多額納税者 神奈川県12頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月30日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第3版』た10-11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月21日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第6版』た7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第13版 下』タ62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
- 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。