由布惟明
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文18年(1549年) |
死没 | 天正15年12月13日(1588年1月11日) |
改名 | 大炊助→下総守→相模守 |
別名 | 惟時[1] |
官位 | 大炊介(助) |
主君 | 立花道雪、宗茂 |
氏族 | 由布氏 |
父母 | 由布家続、靏原鑑員娘 |
兄弟 | 惟重、惟明 |
妻 | 吉田連正娘 |
子 | 立花道雪養女、惟貞、惟賢 |
由布 惟明(ゆふ これあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。立花氏の家臣。由布惟克(加賀守)系由布氏当主。戸次四天王の一人。
経歴
[編集]『柳河藩享保八年藩士系図』では登場しないが『将士軍談』では兄・惟重がいたが、惟重は分家して大友氏に仕え、家督は惟明が継いだとする。父・由布家続は天正2年(1574年)に致仕。
『将士軍談』によると永禄7年(1564年)3月25日に豊前国柳浦合戦において16歳で初陣[2]して以降、大小38の合戦に従軍し、14枚の感状をもらったという。また筑前国嘉良山城(唐山城)城代を勤め、宇美郷内75町を領するという。
『柳河藩享保八年藩士系図』の立花八次郎系譜に掲載される高橋鎮種(主膳入道紹運)が天正9年(1581年)に立花宗茂が立花氏養子になる際に家臣に出した覚に「由布大炊介」の名が見える。また、『柳河藩享保八年藩士系図』の堀善右衛門系譜に掲載される天正14年(1586年)の知行打渡状の連署の中に「由布大炊介惟時」の名が見える。
『将士軍談』によると天正15年(1587年)に柳川において700石を与えられたが、同年に起こった和仁城攻めにおいて、城主の弟である和仁親範(弾正)に討ち取られて39歳で戦死する。
一說には、同じ和仁城攻めの際、先鋒となって一番乗りの功を立てたが、耳が不自由なために家来の声が届かず、和仁方の中村治部少輔の弓矢により討ち死にした。 のち当地の村人達は彼を丁重に葬り、彼の墓石を「耳の神様」として代々供養された。