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甲斐和里子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

甲斐 和里子(かい わりこ、1868年慶応4年)6月15日 - 1962年昭和37年)11月27日)は、日本教育者京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。

略歴

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現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派学者足利義山[1]。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ[2]

明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。1896年同校退学。同年甲斐駒蔵と結婚[3]1897年、神戸市立親和女学校(神戸親和女子大学の前身)、滋賀県大津高等女学校(滋賀県立大津高等学校の前身)に教員として勤務。

1899年、松田甚左衛門の助力を得て、仏教徒のための女学校「顕道女学院」を創設。翌1900年、夫と共に私塾文中園(同年11月、文中女学校と改称)を開設した。1910年、同校は西本願寺の援助を受けて京都高等女学校と合併、連合本部が経営主体となるが、和里子は1927年に退職するまで教員として教壇に立ち学生らの指導にあたった。

1962年(昭和37年)、95歳で死去。

人物

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人柄はボーイッシュ、ユーモアを好む、活発、ジョークが上手、勉強熱心、秀才、誠実、男まさり、と表現されている。また、自己に厳しく、前向きに明朗な人格づくりを心掛けていたという。

著作リスト

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  • 『草かご』(真宗学研究所、1936年)
  • 『落葉かご』(百華苑、1949年)

脚注

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  1. ^ 龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター 足利義山『義山法語』
  2. ^ 平井金三における明治仏教の国際化に関する宗教史・文化史的研究吉永進一ほか、科研報告書、平成 16年度 ~18年度
  3. ^ 婚姻届提出は1902年。苗字が甲斐になる(『親鸞に出遇った人びと③』 同萌舎出版 1989年 116、236頁)。

参考文献

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外部リンク

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