男山応輔
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男山 応輔(おとこやま おうすけ、1864年9月26日(元治元年8月26日)[1] - 1886年(明治19年)9月24日[1])は、明治時代に存在した力士。男山 鷹輔(読みは同じ)とする文献もある。本名成川応輔[1]。身長206cm(6尺8寸)、体重180㎏(48貫)あり、富岡八幡宮の「巨人力士身長碑」に彼の名前が見られる[2]。武蔵国比企郡(現・埼玉県小川町)出身。
人物
[編集]幼少期から体がずば抜けて大きく、1883年(明治16年)に徴兵検査を受けたが、この時既に身長が197cm、体重112kgあり、この場にいた埼玉県令の吉田清英が応輔に 相撲界入りを勧めた[3]。その後、花籠部屋に入ることが決まり、1885年(明治18年)、正式に入門した[4]。体の大きさや素質から「武蔵潟二世」と呼ばれた[5]。巨体の割に足腰が強く、怪力のため師匠花籠は男山を幕下付出で取らせようとした[6]。翌年(明治19年)の5月場所後の巡業に参加したものの、9月に長野県内で便所に入ったところ、あまりにも体重が重すぎて便所の床を踏み抜いてしまい下に落ち、尾骶骨を折った[7]。そのため、立つことも動くこともできなくなり、戸板に乗せられて移動した[7]。飯田町(現・飯田市)での興行終了後、地元の勧進元の家で療養にあたっていたが、9月24日急病のために、初土俵前に死去した[7]。死因は脚気説[7]や毒殺説[8]などがある。墓は飯田市の長久寺にあり[8]、「豪壮院男山碩応居士」と戒名が付けられた[8]。
その後、埼玉県の郷里に1968年(昭和43年)、横綱大鵬の揮毫による「力士男山応輔之碑」が建てられた[9]。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会 埼玉県 1998年)p277-278
- 『武州の力士』(中英夫 埼玉新聞社 1976年)p1-50「第1部 力士男山鷹輔」
- 『写真集明治大正昭和 小川 ふるさとの想い出225』(神部正吉 国書刊行会 1981年)
- 『相撲史うらおもて その二』(小島貞二 ベースボールマガジン社 1992年)p58-69