畑隆太郎
畑 隆太郎(はた りゅうたろう、1850年1月25日(嘉永2年12月13日[1])- 1908年(明治41年)5月20日[1][2])は、明治期の教育者、新聞編集者、政治家。衆議院議員。旧名・柳太郎[1]。
経歴
[編集]出羽国秋田郡秋田亀ノ丁西土手町[1](秋田県[2]秋田郡秋田町、南秋田郡秋田町を経て現秋田市[3]南通亀の丁[1])で、久保田藩士・畑円之助、ミヨの長男として生まれた[1]。藩儒・渡部広成に師事し[1][4]、藩校明徳館で学んだ[1]。その後、1972年(明治5年)に上京し芳野立蔵の元で漢学を修めた[1][4]。
帰郷して戸長に就任[2][3][4]。白土清忠経営の講習学舎で皇漢学を教えた[1][2][3][4]。1882年(明治15年)5月、士族就業の目的で就産社(のち奉天社)を設立して幹事に就任し[1][2][3][4]、のち社長となる[1]。その事業として『秋田日日新聞』を発行し[1]、会計長兼記者[1]、編集長を歴任[1][2][3]。1888年(明治21年)畑家の家督を相続した[1]。
1889年(明治22年)成田直衛らと秋田中正党の設立に参画し[1][2][4]、『秋田日日新聞』をその機関紙とし、秋田中正社に改めて社長に就任した[1][4]。1892年(明治25年)6月、国民協会に入会し[1][2][4]、1899年(明治32年)7月、帝国党に改組する際に発起人に加わり[1]、秋田県代表として拡張委員、常議員に就任した[1][2][4]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(秋田県秋田市)で当選し[1][4][5]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。
1908年5月、秋田の自宅で死去した[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第7回衆議院議員総選挙(秋田県秋田市、1902年8月、帝国党)当選[5]
- 第8回衆議院議員総選挙(秋田県秋田市、1903年3月、帝国党)次点落選[5]
- 第9回衆議院議員総選挙(秋田県秋田市、1904年3月、帝国党)次点落選[5]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 杉渕廣『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』秋田魁新報社、1989年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。